実験の結末


「本当に注射苦手なのな」

「これ秘密だからな? 格好悪いから、絶対な?」

「了解。あー、早くテツにこのこと言いたい」

「ばっか! テツにだけは言うなよ?」

「分かってるって。ほら、終わり」


 増幅剤を全て投与し終わり、注射針を抜く。

 消毒液を湿らせたコットンで、針が刺さっていたところを軽くふいておしまい。

 抜く瞬間にもノゾムの顔は微かに痛みを訴えたが、すぐに真顔に戻って、


「なんか、意外とすぐ終わるもんなんだな」

「注射なんてそんなもんだって。一瞬だけ」

「その一瞬だけで、本当にトウシロウみたいに強くなれてるのか? あまりに早すぎて急に不安になってきた。俺だけこんな簡単に強くなっていいんだよな?」

「何言ってるんだよ? いいに決まってるじゃないか」


 強くなるのと引き換えに色んなものを失うのだから、いいに決まっている。


「そうだよな。ああ、何かぞわぞわしてきた気がする。力が漲っているような気がする」

「じゃあ使ってみるか? さっきのと比べ物にならないくらいの氷ができるはずだから、まずは天井一面氷漬けにしてみろよ」

「おお、そうだな」


 ノゾムは意気揚々と天井に向かって手を伸ばす。

 すぐに天井は一瞬にして氷で覆われた。


「おおぉ……すげぇ」


 感嘆の声を上げるノゾム。

 瞬きも忘れて天井を一身に見つめ、


「これ本当に俺がやったんだよな。お前が陰で能力使ってやったなんてことはないよな?」

「まさか。俺は能力なんか使ってないよ」


 天井から冷気が下りてきて少しだけ肌寒くなっていた。


「そっか。……俺、やっぱり強くなったんだな」

「ああ。でも、俺もここまでとは思わなかったから、結構びっくりしてる」


 予想以上の結果に、トウシロウは少しだけ違和感を覚えていた。

 が、後で研究データを上書きしないと、くらいにしか考えていなかった。


 ノゾムは得意げに笑って言った。


「つまり、それは俺に才能があったってことか?」

「ま、そういことかもしれないな。でもオリジナルの俺から言わせればまだまだだけど。氷の厚さにもムラがあるし……その辺は練習していけば大丈夫だと思うけど――」


 天井に発生した氷を見上げ、能力者として未熟な部分を指摘していたトウシロウだったが、その声は横から聞こえてきた呻き声によって行き場を失った。


「あぁぐっ……トウシ……ロウ、体、が……あがぁあああ」


 得体のしれない獣の唸り声かと思った。

 鋭い冷たさが、横から流れてくる。


「ノゾ……ム? どうした、ん、だ?」


 トウシロウは恐怖に打ち勝って、ノゾムの方を向く。


「トウシロウ……勝手、に……氷…………がぁくっぉぉ」

「ノゾム? おい、お前……」


 ノゾムの体を氷が覆い尽くそうとしていた。

 苦しみの表情を浮かべているノゾムが、恐怖と涙で覆われた瞳で、トウシロウに助けを求めている。


 明らかに、能力が暴走していた。


「おい! ノゾム!」


 慌ててノゾムの体に触れようとする。

 が、トウシロウの手を拒絶するように、ノゾムの体から先の尖った氷が伸びてきた。


「くっ」


 本能的に危険を察知したトウシロウは、後方に大きく退避し、ノゾムから距離を取った。


「トウシ、ロウ……、体が、かっテ………ニ、コオリ――――」


 ノゾムのはっきりとした声はそこで途切れた。


 体のあちこちから氷柱のような氷の棘が何本も飛び出し、背中には翼のようなものまで生えている。


 トウシロウが能力を覚醒させた時と姿だけは同じだ。


「ノゾム! しっかりしろ!」


 必死で声をかけるもノゾムは返事をしない。


 トウシロウの目と、血走ったノゾムの目が合った瞬間――。


 ノゾムは確かな殺気をまき散らしながら、トウシロウに飛びかかってきた。


「ノゾムッ――やめっ……」


 トウシロウは条件反射的に、能力を発動させた。


 自身に飛びかかってこようとしたノゾムに対して、正当防衛するかのごとく発生させた氷のランス。


 それが、氷の獣と化したノゾムとぶつかる。

 突き刺さる。

 ちょうど右の胸辺り。


「ノゾ……ム?」


 氷のランスはノゾムの体にめり込み、そのまま体を貫通した。


 ノゾムの指先に発生していた氷でできたかぎ爪は、トウシロウの背後の壁に突き刺さっている。


 体が無意識のうちに、そのかぎ爪を緊急回避したのだろう。

 狂った死刑囚たちとの訓練のたまものだ。

 もともと能力者であった人間と、ついさっき能力者になった人間では格が違うのだ。


 事実、トウシロウは無傷でその場から生還した。


 ノゾムの体から吹き出した血はトウシロウの体にも飛び散っており、後ろの壁にはアゲハチョウが何匹も飛んでいるかのような模様の血しぶきが付着していた。


「あ……あぁ、ノゾム…………」


 水中に潜り続けているかのように息が苦しい。


 ノゾムの体を覆っていた氷は崩れ落ち、ノゾムの口から血が流れているのが見えた。

 現れた顔は白く、唇は真っ青。

 半分だけ閉じられたまま動かない瞼も、力なく床へ崩れ落ちたノゾムの体に空いた大きな穴も、紛れもない現実なのだ。


「ノゾム? ……大丈夫か?」


 訓練で、死刑囚に対して能力を使用したことは何度もあった。

 殺したことも何度もあった。


 だけど、ノゾムに対して能力を使ってしまったのは初めてで。

 死刑囚じゃない人を殺したのは初めてで。

 友達を殺したのは初めてで。


「トウ、シロウ……。ごめん……な」


 ノゾムが少しだけ顔を上げて、そう言った気がした。

 幻聴だったのかもしれない。

 そんなのどうでもいい。


 問題は、誰がノゾムの体に穴を開けたのか。

 誰がノゾムを殺したのか。


 トウシロウは、ノゾムの体に触れることができなかった。


 事の重大さにようやく気が付いた時、トウシロウはノゾムを置き去りに走った。


 自分は失敗したのだ。


 初めて失敗し、その失敗は取り返しのつかないものになった。


 家の前にたどり着くと、ヒサトの叫び声が聞こえてきた。


「ヒサト? 何があ……ったん…………」


 急いでリビングに向かい――言葉を失う。


 何があったのか分かっているのに、『何があったんだ?』とトウシロウは言おうとした。

 自分の失敗を誤魔化そうとした。


 変わり果てた両親の姿も、血生ぐささも、部屋の隅で震える弟もこの目で確認したのに。


 弟の足元には氷が広がっている。

 

 ノゾムの死も、両親の死も、天才のトウシロウ・アガヅマが失敗するはずなどないという思い込みが、招いた結果だ。


「ごめんな。絶対、守ってやるから」


 震えるヒサトの体を抱きしめながら、トウシロウは決意した。


 なにもかもを背負って生きると。


 上には処罰覚悟で失敗したと嘘をついた。

 能力は暴走し消えてしまう。

 能力を他人に移植することは不可能だと。


 その結果「そうか、なら仕方ないな」と言われただけだった。

 開戦はそのために先送りになった。


 いったい、どうして自分は今まで頑張ってきたのだろうか、とトウシロウは思わずにはいられなかった。

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