真実

 アヤが持っているのは注射器だ。

 なぜ、そんなものをアヤは持っていて、今狂い叫びながら取り出したのか。

 中に入っている液体は何なのか。

 

 どうして俺は、こうも震えてしまっているのか。


 分からないことだらけだ。


「許さない! 絶対に……絶対に!」


 アヤの暴走が止まる様子はない。

 憤怒に満ち溢れた目で、無防備な俺の二の腕に注射針を突き刺そうとする。


「あ……あああ」


 それでも、俺の体は動かない。

 思い出す思い出す思い出す。

 俺は、たしか、俺は…………!


「あぁぁぁあああああああぁぁぁああああ!」


 俺は叫んでいた。

 得体のしれない恐怖が迫っているように感じる。

 過去の記憶が鮮明になるにつれて、俺は、絶望を重ねていく。


「――――辞めるんだ。アヤ」


 誰かがアヤの手首をつかんだ。

 注射針は、俺のわずか数センチの手前で止まった。


「君が恨んでるのはヒサトじゃなくて、俺の方だろ?」

「だったら! まずあんたを殺す。テツ兄の、テツ兄の……仇を」

「ああ、それなら好きにしてくれていい。俺はテツを、置き去りにしたからな」

「何で⁉ 親友だったんでしょ? 何で助けてくれなかったの? 何で……テツ兄は生きて帰って来ないのよぉ」


 アヤは大粒の涙を流し始めた。

 悲しそうで、辛そうで、苦しそうで。

 注射針がアヤの手の中から滑り落ち、床の上を転がって、俺の後ろの壁に当たって止まった。


「俺は英雄だったから。頭が良かったから、それを……テツを、君のお兄さんを殺すことを選んだ。本当に申しわけない」

「そうじゃないだろ兄ちゃん!」


 俺は兄ちゃんの胸ぐらを掴んでいた。


「ヒサト?? いきなり何を?」

「仕方なかったって言ってたじゃん? 本当は拒否したかったって、戦争だったからって、だから……兄ちゃんは全然悪くない! ちゃんと向き合ってる。後悔してる。悲しんでる。英雄の弟の俺の方が逃げてばっかりの最低野郎なんだよ! 俺が一番、誰よりも一番殺されるべきなんだ。生きてちゃいけないんだ」


 俺は困惑の表情を浮かべる兄ちゃんに背を向けて、前にある壁を殴った。


「俺だって……使えるんだ」


 床の上に落ちていた注射針を思い切り踏みつけた。


「兄ちゃんと同じで、能力者なんだ。隠してたんだよ!」

「ヒサト、いったん落ち着けって」

「その前に兄ちゃんは俺に言うことあるだろ!」

「ちょっと気が動転してるんだな。大丈夫、一旦落ち着こう、な?」


 そういうことではない。

 兄ちゃんが言うべき言葉は、そういう取り繕われた慰めの言葉ではない。


「何で? 兄だから? 英雄だから? 戦場に俺がいれば、俺が参加してたらもっと楽に、もっと楽に色んな人が救えた。こいつの兄ちゃんだって、死なずに済んだかもしれない」

「ヒサト? もう戦争は終わってるんだ。今さら何を言ったって、何をしたって何も変わらない」

「じゃあ兄ちゃんだってテツさんが死んだこと後悔すんなよ! アヤなんか放っておけよ! 俺は逃げてたんだ。自分勝手に、人を守れるのに放棄して……人殺しと同じなんだよ俺は!」


 能力者の俺が戦争に参加して、能力者としてたくさんの人間を殺していれば、戦争はもっと早く終わったかもしれない。


「大丈夫だ、落ち着こう。な? ヒサトは混乱してるんだよ? きっと」


 兄ちゃんはそれでも俺をなだめようとしてくれる。

 兄として振る舞おうとしてくれる。


 だから俺は、そんなことされる人間じゃないんだ!


「絶対にヒサトのせいじゃない。全部兄ちゃんのせいだ。兄ちゃんが色んなこと背負わせたから、それで」

「違うよそんなの! 俺は兄ちゃんがいるのをいいことに……逃げてたんだ。自分がしたくないからって、トラウマだからって、兄ちゃんが守ってくれるからって! だから……言えなかった。能力のことも、兄ちゃんが俺を一切疑わないで犯人捜しなんかしたりするから、事実を認めたくなくて」


 そう。

 あの日。

 両親が死んだ日。


 兄ちゃんは強盗が入ったとか言っていたけど、本当は……。


「……殺したの俺じゃないか。父さんと母さんを殺したのは……俺なのに」


 俺の告白を聞いた兄ちゃんは、この国で一番の切れ者なのに、天才なのに、俯いただけ。


「なのに兄ちゃんはいもしない犯人探しを始めるし、疑わないし、兄ちゃんばっかり傷ついて、それを一番身近で見てきたのに、怖いから、苦しいから……言わなかった。能力のこと。ばれてるんじゃないかって、兄ちゃんが気を遣ってるだけかもしれないってわかってて、言わなかった」

「違う。悪いのはヒサトじゃない」


 やっぱり、兄ちゃんは俺を責めなかった。

 両親を殺したのは俺だって言ってるのに。

 何で? 

 だから、苦しいんだよ。

 世界一お人好しな英雄の弟になんかならなきゃよかった。


「俺がヒサトを守ってきたのは、あの日起こったことのすべての原因は……俺にある」

「いい加減にしろよ! ちょっとは俺を責めろよ! 兄ちゃんはもっと自分のことも考えろよ! 私情くらい挟んで、テツさんを助ければよかっただろ!」


 弟はいつだって私情をはさんできたんだから!


 また、壁を殴る。

 すると、俺の肩に後ろから手が置かれた。

 振り返ると、そこには精悍な顔つきの兄が立っていた。


「でも俺は、決めたから。あの日、俺はヒサトを守るって、あの時決めたから……ずっと」

「俺は守られる人間じゃないんだよ!」


 俺は感情のまま、初めて兄ちゃんを殴った。

 右頬を一発。

 渾身の力を込めて。


 兄ちゃんは半歩ほど後ろによろけて、俯いてそのまま黙った。

 赤くなった頬をさすりもしない。

 口から流れる血を、拭おうともしない。


 俺はなおも詰め寄って、兄の襟元を掴んだ。


「兄が弟を守らないといけない決まりでもあるのかよ? 歳上ばっかり我慢して、自分を殺して、そんなこと誰が決めたんだよ? 俺は……兄ちゃんから奪った。俺が父さんと母さんを殺したんだぞ? なぁ、兄ちゃん。何とか言えよ」

「……確かに、ヒサトが覚えている以上のことを、全部知ってたよ」


 兄ちゃんは困ったように笑っていた。

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