好き嫌いがなくなった理由。
「ふぅー。美味しかった」
パンの上にトマトとかを乗せたやつを食べ終わったアンナが、ミルクと砂糖を加えたコーヒーを口にして一息ついている。
「でも、本当に良かったの? コーヒーとケーキだけで」
「うん。あんまりお腹すいてなかったから」
アヤにとってその言葉は、本当でもあり嘘でもある。
おしゃれな名前を言うのが恥ずかしいというちっぽけな悩みを持っているアンナとは違って、アヤの悩みは切実だ。
アヤはコーヒーを口に含み、溢れ出ようとする感情と一緒に体内へ流し込んだ。
「アヤってさ、やっぱり大人って感じがする」
「え、いきなりどうしたの?」
アンナの言葉の意味がよく分からない。
コーヒーを飲む仕草が大人っぽかったということだろうか?
「いや、だって普通に飲んでるじゃん、それ」
アンナがアヤの前にあるコーヒーを指差しながら言う。
「えっ? コーヒーならアンナだって飲んでるじゃん」
「そうだけど、そうじゃなくって。ここのコーヒーってさ、すっごい苦いって有名なんだよ? 通にはそれがいいらしいんだけど、私は砂糖入れなきゃ飲めないって思ってたし実際そうだったし。なのにアヤはそのコーヒーをブラックで……くぅー、羨ましいぜ!」
「そんなこと……ま、いずれアンナも飲めるようになるよ」
この返し方で正しかっただろうか?
アヤには考える余裕もない。
心が汗でびしょびしょだ。
「そうかなぁ……。ヒサトもコーヒー飲むときは何も入れないんだよね」
「ふーん、そうなんだ」
「アヤってさ、ヒサトのこと好きなの?」
突然聞こえた静かな声。
アヤは誰がその声を発したのか、理解するのに時間がかかってしまった。
「ア、アンナ? いきなり、なに?」
「……えっ?」
アンナは純粋に驚いているように見える。
え? ってどういうこと?
「いや、その、さっきの言葉」
「さっきの……言葉…………っ!」
アンナは急に顔を真っ赤に染めた。
「さっきのは! その、あれ、なんで私あんなこと……」
アンナは俯いてしまった。
一向に、アンナだけにねっ! と言ってくれない。
「でも、実際のところ、アヤはヒサトのこと、どう思ってるの?」
アンナから上目遣いで見つめられる。
何かに恐れを抱いているかのような、弱々しい目だった。
「私は……その……」
アヤは一瞬だけ言い淀み、
「……ないけど」
「私は好きだよ」
アヤが言い終わってすぐにアンナは宣言した。
アヤの言葉の余韻を掻き消そうとするかのように。
「へぇ……そうなんだ」
アヤはそれだけ言って目を逸らす。
アンナの言葉は続く。
「私は小さい頃からヒサトのことがずっと好き。子供の頃からずっと一緒にいて、でも勇気がなくて気持ちを伝えられなくて」
アンナはコーヒーに視線を落とし、ガラスのふちを指でなぞっている。
アヤは自分がなにを言ってあげるのが正解か、少しだけ考えてから口を開いた。
「でも二人はお似合いに見えるよ。ヒサトもアンナのことが好きなんじゃないのかな?」
「ううん。きっとそんなことない」
アンナはため息を吐いてから、ゆっくりとした口調で否定した。
「え、そうかな? アンナには遠慮しないで話してるように見えるし、二人の心の距離は近い感じがするよ」
「それは友達だから、そう思ってるからなんだよ」
アンナの言葉は憂いを帯びていた。
「ヒサトって、誰に対しても優しいからさ」
アンナはさっきと同じ声で続ける。
机に頬杖をついて、切なげな微笑を浮かべていた。
「それは……なんかわかるかも」
アヤはアンナの言葉を肯定することにした。
だって本当に、ヒサトは優しいから。
「だよねぇ。ヒサトって、ほんと優しいんだぁ」
会話が途切れてしまう。
アヤはアンナから目を逸らし、店の外を歩く人たちに視線を向けた。
二人の間には静けさしかなくて、店員がせわしなく動き回る音と、他の席に座っている客の会話が、騒音のように耳につく。
どれくらいその喧騒を聞いていただろう。
アンナがいきなり、ガバッと立ち上がった。
「あっ! そうだった! そう言えば私ママにお使い頼まれてたんだった」
先程までの悲壮感をアンナはもうまとっていなかった。
「ごめんアヤ。私もう行かないと。ってかそれで出かけたんじゃん」
慌てて席を立つアンナを見て、アヤは何とか笑顔を作る。
「そう、だったんだ。何か、ごめんね」
「ううん。だって楽しかったし。じゃあまた。あっ、お金ここ置いとくから。また一緒に話そうねー」
やべぇ、ママに怒られる、とつぶやきながらアンナは去っていく。
「ふぅ……」
アヤはアンナの姿が見えなくなってからため息をつく。
昨晩のヒサトとの会話を思い出してしまったせいだ。
「……言わないつもりだったのに」
ヒサトから兄のことを聞かれ、どうして正直に言ってしまったのだろう。
聞かれた相手があいつの弟だったから、自分と一緒に苦しんでもらおうと思ったのかもしれない。
当てつけもいいところだ。
「知らない方が……よかったなぁ。親友……後悔……。だから一緒に住もうって、あんな顔で」
そのおかげで、聞きたくないことまで聞いてしまうことになった。
知らない方がよかったことを知ってしまった。
人間、知りすぎていいことなんて一つもない。
それが感謝につながることでも、恨みにつながることでも。
アヤは他の客にばれないように、心の中で泣いた。
「コーヒー飲めるの……もう味が分らなくなっただけだよ」
アヤは兄を失ってからしばらくして、味覚を失っている。
唯一感じられるのは、血の味だけ。
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