第37話 普通が要らない世界

 拳一閃。


 怪物の身体が吹き飛び、壁に激突した。


 右肘から先、左手首から先、右足付け根から先。


 怪物の身体からは、既にそれだけの部位が失われていた。再生能力があったはずだが、ここまでの欠損はすぐには修復出来ないらしい。血がほとんど出ていなくて、やはり怪物なのだと実感する。


――さ、最後は左足だ。


 徹底的な抵抗手段の剥奪。あの小剣が簡単に抜き取れるという確証もなく、抜き取りに成功したとして怪物の活動が止まるとも限らない。


 だから、これからの処置を円滑に進めるためには、必要なことなのだ。


 一颯は、それまでの威勢が完全に失われ、抜け殻と成り果てた怪物、その左足を見据える。


 膝の皿の位置より少し上、それなりの量の筋肉と、幹としての骨があるはずのその場所に、一颯は貫き手を突き入れた。


 先の三回と同様、スポンジみたいな感触と共に、簡単に指がその付け根まで沈む。次いで、横方向に揺さぶるように、繊維を千切るように、手を引き抜いた。


 ぽとり、と左膝から先が零れる。


――ようやく仕上げに取り掛かれるな。


 一颯が手心を加える意味はない。


 この怪物にどんな過去があったのか、どんな繋がりがあったのか、どんな思いで怪物になったのか。


 この怪物が元は何であったのかすら、一颯にはもう関係のないことだった。


 一颯は淀みない動きで、右腕を小剣の柄へと伸ばす――


「それくらいにしておきなさい」


 突如、背後から少々艶めかしさのある女声が届く。振り向いた一颯の視界に入ったのは、半透明のビニール袋に空気を詰め込んだような、人の形。そして、その背後に佇む、綾香の姿だった。


 今の声は綾香のものではない。少なくとも、一颯の記憶にある綾香の声とは異なっている。


 では、今の声はこのビニールか。どうにも疑問が残る。


 一颯は辺りを見回す。向こうには変わらず初理がいて――それだけ。


 この実験場内に、他の人影はない。となると――


「……三浦?」


 見れば、綾香の様子がおかしい。どこか虚ろで、まるで中身がないみたい。


「彼女にはちょっと言うことを聞いてもらっているだけよ」


 再度、女の声。綾香の口は動いていなかった。


「――お前、なんだ」


 一颯はそう虚空に向けて問いながら、いつでも戦闘に移行できるよう警戒を強めた。


「そうね、私は――あなたのお母さんよ」


――は?


「何を言っている?」


 一颯は人間ではない。必然的に、母親は存在しない。記憶に残る面影は何かの間違いなんだろう。すなわち、こいつは母親を名乗る一風変わった不審者ということだ。


「嘘ではないのよ。別にお腹を痛めて産んだわけじゃないけれど、あなたを作ったのは、確かに私なんだもの」

「っ⁉」


 一颯という人造人間の製作者。この声の主がそうだと言うのか。


「私だけで作ったわけでも、私が中心で作ったわけでもないのだけれど、それでも、誰があなたのお母さんかと聞かれれば、私以上の適役はいないと断言出来るわ。だって、あなたのことを私以上に知っている存在なんて、この世にいないんだもの」


 優しげな声音。幼子に語り掛けるようでいて、僅かな自己陶酔を孕んだような、ねっとりと絡みつかれる感覚。やはりビニールの方から声は響いてきている。


 その言葉の内容にも、色々と気になる部分がある。だが何より、


「信用出来ないな。こんなビニール野郎が何言ったところで、響くものなんかない」


 一颯はビニールに冷めた視線をやりながら、綾香の元へ向かおうとする。しかし、そこにビニールが立ち塞がった。思わず舌打ちをする。


「そう――やっぱり私の声、覚えていないのね。悲しいけど、仕方がないのかしら……。まあいいわ。ついてきなさい。私のいるところまで案内してあげる。彼女もそこで解放してあげるわ」

「――わかった」


 迷いは一瞬だけ。強硬策という手もあったが、人質に加え、敵戦力も不明である以上、無暗に交戦すべきではないだろう。


「物分かりが良くて助かるわ」


 ビニールに表情はない。だが、今、声の主が微かに笑ったような気配がした。


「それじゃあ、あの子も回収しておこうかしらね」


 ビニールが、細胞分裂をするように二つに分かれた。その一方が、四肢無き怪物に近づいていき、抱え上げる。ぼろぼろと、炭のような灰のような中身が零れた。


 そうして並んで歩き出す二つのビニール。その後ろに一颯も続く。


「あなたは自由にするといいわ」


 手ぶらの方のビニールが、初理に向かって声を掛けた。初理の顔が一颯に向く。


 一颯には、初理に何て声を掛ければいいか分からなかった。最優先事項は決まっている。だが、初理を放っておいていいものか。


 一颯の逡巡を知ってか知らずか、初理は地面から刀を抜き、落ちている鞘を二本とも回収、一方を刀を収めて足早に歩いていく。一颯やビニールより先行し、扉を抜けてどこかへ行ってしまった。


 迷う理由がなくなる。後ろ髪を引かれる思いはありながら、一颯はビニールと綾香と共に扉を抜けた。


 特殊大実験場Cに接続する、屋根と屋根を支える柱のみの通路を外れ、実験場の外縁部に沿って歩いていく。


 しばらくすると、常緑樹林だろうか。この時期でありながら青々とした葉を茂らせる、ちょっとした林のような場所に差し掛かった。


 背の高い木々によって日光がほとんど差し込まず、また、柔らかい地面、盛り上がる木の根のせいで、少々歩きづらい。


――一体、どこに向かっているんだろう。


 この先に、何かがあった覚えはない。強いて挙げるなら、敷地の内外を仕切る、フェンスくらいか。


 もう、実験場の壁も見えなくなってしまった。


「ここよ」


 不意に、ビニールたちと綾香が足を止めた。周囲の景色に特筆する点はない。ただの林中。


 が、変化が現れた。いや、最初からそうだったのかも。


 ともかく、ビニールの目の前の地面には、この自然から明らかに浮いた、人工物感満載の金属板が埋まっていた。


 大きさは市中にありふれた、人一人が入れるくらいのマンホール程。真中に直線の窪みがあるだけで、取っ手がない。


 光学的な欺瞞でも施されていたのだろうか。それも、魔法が関与している類の。そうなると、どこかに人が常駐しているのだろうか。なんせ、人が持つ魔力なしで魔法は成立しない。だが、そんな建物など見当たらないわけで。


 この遠隔操作されているらしきビニール含め、一颯の保有する知識からはかけ離れたことが、さも当然のように存在している。この場所の雰囲気からしても、もはや異界と形容してもいいくらいだ。


――やっぱり、強化を解かなくて正解だったな。


 一颯は未だ、先の戦いのような身体性能を保持したままである。いざとなれば、単独での離脱を検討することになるだろう。


 と、金属板が独りでに開き始めた。扉だったらしい。


「さ、入って」


 ビニールたちが金属扉までの道を開けるように退いた。


 一颯は最大限の警戒と共に進み、中を覗く。


 真っ暗闇。細く、どれほどの深さがあるのか、全く予測出来ない。とはいえ臆している意味もなく、一颯は壁に埋め込まれたタラップを伝って下りていく。


 一颯がある程度下りたところで他も続いた。かつかつ、という足音が重なり始める。


 怪物を抱えていたビニールは、最後尾、腕を二本増やして、抱えたまま続いた。そうして全員が扉をくぐったところで、金属扉が閉まった。一気に周囲が暗闇に包まれる。


「今、明かりを付けるわね」


 一颯たちの背後に、蛍のようなぼんやりとした光の玉が数個出現した。それらは一颯たちの手元、足元を優しく照らしてくれる。


 そうして、一颯たちは左右に伸びる通路に降り立った。


「こっちよ」


 手ぶらのビニールに先導され、一颯たちは進んでいく。


 通路の造りは至ってシンプルで、横長の白い箱の中みたい。照明のようなものは何一つ設置されていなくて、下りてくる時同様、蛍火みたいな明かりだけが頼りだ。


 時に右にカーブ、その次は左にカーブ、今度は下り坂、上り坂、そして極めつけは、三叉路や丁字路。まるで進む者の方向感覚を狂わせるために作られたかのような。


 加えて、この暗闇内での長距離移動。時間感覚すら失われつつある。


――こんなの、まともな奴ならいくらか発狂してるだろ。


 もはや、この先に人間の住める環境が用意されているかどうかさえ疑わしい。


 嵌められたのか。そんな可能性を感じつつも、一颯は、この複雑な迷路が、何か重要なものを隠すためのものであると思わずにはいられない。


 そうして、何度目かも忘れたカーブの途中で、ビニールたちが止まった。


「着いたわ」


 白いだけで何もなかった壁に、頑丈そうな扉が浮かび上がる。これは、外にあった金属扉と同様の欺瞞工作か。


「さ、入って」


 そうして、手ぶらのビニールが姿を消す。他は、一颯の動きをただひたすら待つ気のようで、じっと突っ立ったまま。


 これは埒が明かないと、一颯はその取っ手を掴み、押し開いた――


「久しぶりっ、一颯ぁっ!」

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