第9話 伝説のおじいちゃん。いや、お兄さん?

「すみませんでした」


 綾香の目を見た瞬間、全てを悟った一颯は気付けばそう口にしていた。


「随分楽しそうだったじゃない」

「――え?」


 綾香はすぐに笑顔を見せた。一瞬、一颯が肩の力を抜きかける。だが、それはあくまで笑顔と呼称されるものの特徴を彼女が模倣しているに過ぎないと、その身の内に一撃で人一人を焼き殺せるだけの力が溜まるその時をじっと待っているのだと、一颯の直感は訴えていた。


 一颯は思考をフル回転させる。夜まで彼女を一人で待たせたことは、ちゃんと謝罪しなければならないだろう。だが、それ以外に何をすればいいのかが、一颯には分からない。


 綾香の言葉からして、きっと初理との議論の様子を少なからず見ていたのだろうということは察せる。しかし、『楽しそう』というのがいつの様子を見て感じたものなのかは分からず、言葉の意図が理解できないのだ。


「ほら、そこに座ったらどう?」


 部室入口前で立ち尽くしていた一颯に対し、綾香が優しく微笑みかける。


「い、いや、俺はここでいい」


 近づけばきっと殺られる。そんな予感が一颯にはあった。


「そう? ――それで、どうして戻ってきたの?」


 多分に皮肉の籠った綾香の口撃。結局、近づかなくても刺されるのが一颯の運命だったらしい。


「――仕様書用紙を取りに」

「仕様書用紙?」

「ああ。三浦が依頼してきた魔道具、あるだろ? その仕様がある程度固まったから、紙にまとめようと思って。依頼書と一緒に学校に提出する必要もあるし」


「――もしかして、今までずっと私の依頼を進めてくれていたの?」


 綾香の笑顔が崩れる。


「そうだけど……」

「そう、なんだ……」


 ぱんぱんに膨らんだ風船が急速に萎んでいくように、綾香の怒気が勢いを弱めていく。そんな異変に気付いた一颯だったが、下手な真似はできないとして、動こうとはしない。


 綾香は、はあぁと大きく息を吐いて、力の抜けたような笑顔を一颯に向けた。


「ごめんなさい、もう大丈夫だから。——座って?」

「……」


 優しげな綾香の声音に、一颯はとりあえず彼女の対面に座ってみる。


「そもそも私、なんでこんなに怒っていたのかしら」

「――お前それ本気で言ってんのか?」


 ブチ切れたことが急に恥ずかしくなって、誤魔化そうとしているのかとも考えた一颯だが、妙な清々しさが綾香からは感じられる。もし本当に理由がないのであれば、一体何のために大人しく威圧され続けたのか。


「いやまあ、三時間も待たされたのは普通に怒っていいと思うけど。でも、それにしてはちょっとおかしいくらい怒ってなかった? 私」

「いや知らんけど」


 綾香の堪忍袋の緒のどこに綻びがあるのかなんて、一颯は知らない。だから、どの程度ならば『おかしい』と言えるのか、その基準なんて分かるはずもなかった。


 それから、一颯は仕様書用紙を部室入口側の角にある木の棚から取り出す。協力を申し出てくれた手前放っておくのも禍根を残すということで、綾香に適当に話を振りながら、十数分で書き上げた。


 その後、依頼書も持って二人して部屋を出た。階段を下り、一階端にある事務室の扉をくぐる。


 室内は一部を除きほとんどの電灯が消されていて薄暗く、働く事務員たちの気配もない。窓からは月明かりのみに照らされる夜の静寂が垣間見えた。


 そんな中、たった一人明かりの下で湯呑の茶を啜る白髪の男。


 ぴんと伸びた背筋、ワイシャツから覗く細身ながら鍛えられた腕と、その様を見て、彼が齢九二であることに思い至る者はまずいない。


 結果、生徒たちの間で学校の怪談的虚構——若者の血を隠れて啜っている等——が数多く生みだされることになっているのだが、彼自身はそれに気づいているのかいないのか……。


―—相変わらずだな。


 一颯はそう安堵しながら、綾香を引き連れ、スチール製事務机たちの間を抜けてその白髪の男の元へ向かう。


「やあやあ。遅くまでご苦労さんだね」


 男の元に来た一颯たちへ、柔和な笑みが向けられる。


「先生こそ、いつも勤務時間外までお付き合い頂いてますし、お疲れではありませんか?」

「いやいや全然。私はいつもこうしてのんびりとさせてもらっているからね。給料ももらっている手前、これくらいはしないと。――それで、彼女が今回の依頼主さんかな?」


 白髪の教師はちら、と視線を一颯から綾香の方へと移す。


「はい。――依頼書と、それから魔道具の仕様書です。確認をお願いします」


 白髪の教師は、一颯から受け取った二枚の用紙に目を通していく。その様子からは、やはり年寄り臭さみたいなものを感じられない。使われている文字はそこそこ細かいはずなのに、彼は目を細めることも顔を近づけることもしないし、そもそも眼鏡なんかもかけていないのだ。


 二十代くらいの男が、顔を含めた全身に特殊メイクのガワでも被っているんじゃないか。一颯は彼を前にすると、毎度そう思わずにはいられなかった。


「ふんふん。いやはや、年を取るっていうのは本当に嫌なもんだねぇ。転んだ拍子に骨折してそのまま寝たきり、なんてこともよくある話だし。こんな魔道具、私にも欲しいなぁ」


 しみじみと語る白髪の教師。この人に本当に必要なのかという疑問が一颯の中で湧き上がる。


「――えっと、それで、どうでしょう。修正の必要はありますか?」

「ううん。これなら、きっと学外許可ももらえるよ。有用性も高いし、学校からの評価もかなり上がるんじゃないかな」


 一颯はほっと胸を撫で下ろす。これで、一颯の仕事はほぼ完了したと言っていいだろう。


「それじゃあ、えっと——みうら、あやかさん、でいいかな? ここに拇印をお願いね」


 白髪の教師はそう言って、机の引き出しから一つの魔道具を取り出す。形状としては、携帯用のホチキスが一番近いか。親指と人差し指だけで持ってかちかちとやれそうな手軽さがある。


 それを、依頼書の『三浦綾香』と署名がされた部分の隣、印、との記載がある上に置いた。


 綾香は、その『拇印用魔道具』の僅かに凹んだ部分——ホチキスで言うところの針が出る場所の真上――を親指の腹で上から押し込み、少しして指を離す。


 綾香へ一言礼を言って、依頼書を持ち上げる白髪の教師。署名の横には、くっきりと赤い指紋が残っていた。


「それじゃあ、今日はもう受付時間を過ぎているし、これは一旦、私の方で預からせてもらおうかな。遅くても明後日には結果が分かると思うから、くれぐれも先走ることのないように」


 先走る。つまりは、勝手に製作段階に入るなということだろう。もし、学外使用許可が下りないとなれば、使われた資材諸々が無駄になってしまう。


「分かっています。白希先輩にもちゃんと伝えておきますよ」

「うん、よろしく。――二人はまだ残っていくのかい?」


 一颯と綾香は顔を見合わせる。


「いえ、今日はもうこれで」

「そっか。気を付けて帰りなね」


 一颯は、そう言って手を振る白髪の教師へ一礼して、踵を返した。それを見て、綾香も慌てて一礼し、一颯の後に続く。そうして事務室を出ると、綾香は一颯へ声をかける。


「ねえ、あの人って——」

「ん? あー、三浦ってもしかして研究棟は昨日が初めてか?」

「そうだけど」


「あの人の名前は江藤宗次郎えとうそうじろう。この付属校研究棟の主みたいな人だ」

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