第7話 成層圏突破おめでとうございます。

 付属校近くの学生寮。その最上階、すなわち五階の一室が、一颯が借りている部屋だった。


 ベッドから起き上がった一颯の視界に、ノートパソコンを一台載せた木製座卓と、そこそこ中身の詰め込まれた背の低い本棚くらいしか目につくもののない、酷く殺風景な室内が広がる。


 一颯は緩慢な動きで立ち上がり、玄関から部屋に繋がる廊下へと出ると、すぐ左手にある冷蔵庫から、十秒メシでお馴染みのゼリー飲料を取り出した。蓋を開けて口に咥え、ちゅるちゅるとやりながら部屋に戻って、ごそごそと着替え始める。


 そうして、ちょっと顎に疲労感を覚え始めたあたりでゼリーを一気に飲み干し、着替えを完了して、鞄の中身を今日の授業用のものに整えた。


 一颯は鞄を右肩に引っ掛けて、再び廊下へ。玄関手前まで行って鞄を下ろし、そこで、ドア裏ポストの中に何かが入っていることに気付く。がちゃりと開けて、その乱雑に破り取ったような紙の切れ端を手に取った。


『三浦綾香に関わるな』


 でかでかと殴り書かれた文言。おいおいこの寮大丈夫かよと、一颯は寮のセキュリティに不安を覚えた。部外者ならば、住人あるいは管理人の許可なしに寮内には立ち入れないはず。だから目の前のポストは、ほとんど内部の人間でやり取りするための――


 一つの可能性を頭の隅に追いやり、一颯は風呂場で顔を洗うことにする。こんな悪戯レベルで依頼を破棄するつもりは、一颯にはなかった。そうして、一颯は紙切れをゴミ箱に捨てて、部屋を後にした。


 学校までは、ものの数分で着く。教室に入ると、数人の先客がいた。各々が思い思いに朝の静寂を形成していて、一颯もその一ピースになる。


 具体的には、自席に着席して文庫本を開き、読み耽るだけ。ほんの数十分後にはこの憩いが失われてしまうからこそ、大切にすべきなのだ。


 そんな、ちょっと気取った風なことを考える一颯であったが、まあ単純に一颯に友達がいなくて、話しかけることができないから、そうするしかないというだけのこと。言い訳である。


 それから、結局教室内はだんだんと喧噪に包まれ始め、しかし、それらを全く意に介さず読書を続ける一颯。高校入学からずっとこれを続けている彼にとって、朝の喧噪など小鳥のさえずりと変わらない。


 そんな一颯に近づく、一つの影。


「藤見君、ちょっといい?」


 彼の名前は水嶋翔みずしましょう。一颯でさえ知っている、クラスの中心的な人物の一人だった。


 一颯は翔に顔を向け、「なんか用か」とだけ口にする。そんなぶっきら棒な一颯の反応にも翔は笑顔で応える。


「二か月後に十一月祭があるのは藤見君も知ってると思うんだけど、このクラスでも少しずつ準備を進めていこうと思って。それで、昨日、SNS使ってクラス全体にメッセージを送ったんだけど、見てくれた?」


「……悪い、見てないわ」

「ははっ、やっぱり? 朝見ても既読が二八だったから」


 一学期、当時は一度も話したことのなかった翔がおずおずと話しかけてきた時のことを、一颯は思い出す。確かその時も学園祭――五月祭――の話だった。今回のようにメッセージを見てなくて、迷惑かけてすまん、と心の中だけで謝ったものだった。


 まるで成長がないようで、何とも言えない気持ちになる。


「今、見てもいいか?」

「え? ああうん。大体のことはメッセージに書いてあるから、よろしくね」


 出鼻を挫かれたと一瞬だけ呆けた表情になる翔だったが、すぐに笑顔に戻り、邪魔してごめんねとでも言うように軽く手を振って去っていく。


 口頭で伝えてくれようとしてくれたのだろうか。そう思う一颯だったが、席に戻っていく翔を止める気にはならない。翔の後ろ姿を適当に見送って、ポケットからスマホを取り出した。


 SNSを起動すると、クラスのグループの方には確かにメッセージが数件届いていた。今日の放課後、十一月祭についての簡単な打ち合わせをクラス単位でするという翔の発言と、それに対する他の反応。


 放課後というと、一颯には綾香の依頼の件を進める予定があった。どうすっかなーと、下へスクロールしていくと、予定がある人はそっちを優先して構わない、という文言を見つける。一颯は、迷わず「悪い、予定がある」とだけ翔個人にメッセージを送って、スマホをポケットに仕舞った。


 それにしても学園祭か、と一颯は五月祭の時の記憶を辿る。


 あの頃はまだ入学したてで友達もおらず――今もいない――、第二研の方にも所属していなかった。このため、悪目立ちしないようそこそこ準備に参加し、祭当日は自分の仕事だけやって帰ることにしたわけだが、そんなんで実際に悪目立ちしないわけがない。


 そもそもこの五月祭、入学直後の一年生にとっては友達作りの企画という側面もある。適当かませば、クラスで浮くのは必然だった。


 そろそろ成層圏くらいには到達したかなー、と一颯が感慨に耽り始めたあたりで、始業のチャイムが鳴る。慌ただしく着席し始めるクラスメイトたち。物理担当の教師が、いつものようにぎこちなげな笑みを浮かべて教室に入って来た。


 それから四時ごろまで授業を受け、開放感に包まれる教室を、一颯は一人荷物を持って後にする。向かう先は当然第二研の部室。生徒たちの教室がある建物とは別棟にあり、また、直接の連絡用通路なんかも設けられていないため、一度建物から出なければならない。


 リノリウムの廊下から玄関へ。そして外へ出ると、この時期、この時間になってもまだまだ強烈な日差しが一颯を襲った。冷房に慣れた一颯の身体はすぐに汗ばみ始め、気力と体力が一緒に抜けていく。


 だらだらと歩いて校門を抜け、道路を一本越えるとすぐに、今は無人の守衛所と、開け放たれた通用門に差し掛かる。


 一颯は堂々とそこを通り抜けようとして、後ろから聞こえてきた「藤見君!」という声に足を止めた。振り向けば、綾香が走ってきていて、一颯はとりあえず綾香の到着を待つ。

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