第12話 深淵を覗くときは引きずりこまれないように

 ディアナ・フォン・ミットライトが初めて学年一位の座を他の生徒に譲ったという話は、瞬く間に校内で轟いた。

 学期末試験を終えた冬の彩の月のこと。それこそ、夜空から月が落っこちたかのような、冬に雷鳴が響いたかのような、衝撃的な事件であった。ミットライト派閥の人間は阿鼻叫喚の渦を成していて、一番を譲ったというだけで彼女の成績は二番目に優れていたはずなのに、その“聖女”の渾名さえ失墜したかのような騒然。

 その傍らで、一番の座を勝ち取ったフィデリオにも注目が集まった。元より優秀な成績を修めていた彼が、今回の試験でミットライトを下したのだ。中間試問での雪辱を果たした雄姿と叡智を称えられ、特にブルーメンブラット派閥の人間から多大な称賛を受けた。

 フェアリッテは「すごいわ!」と手を叩いて祝い、ギュンターは「これほど意志の強い友を持ったことを、僕は誇りに思う」と感嘆した。一番の座についた当の本人は「信じられない」と困惑していたけれど、ブルーメンブラット派閥の熱狂は、彼の気持ちも置き去りにして広まっていった。

 また、ミットライトの完全無欠が崩れたことは、ブルーメンブラット派閥だけでなく、ボースハイト派閥をも刺激した。

 特に張本人であるガランサシャが顕著だった。試験結果が発表されてすぐ、ガランサシャがミットライトに皮肉を言ったとかいう話だ。

 聞くだに想像できる。彼女の高慢な態度で支持者を貶されれば、普段は穏健なミットライト派閥の顔も険しくなったはずだ。ここ最近、ミットライト派閥の人間がぴりぴりしているのは、十中八九、その事件の影響だろう。

 完全無欠の崩れたディアナ・フォン・ミットライトと、今試験での成績優秀者の支持を多く集めるフェアリッテ・フォン・ブルーメンブラット。名声こそ拮抗しているものの、勢力の伸びとしてはブルーメンブラットに軍配が上がる。王太子妃候補争いにおける点取りで、強敵であるミットライトを退けたのは大きかった。

——あの子、上手くやったのね。

 思い出してほくそ笑んでいると、フィデリオが咎めるような目で私を見た。


「ずいぶんと余裕の様子だね、プリマヴィーラ」

「あら」私は右手に持っていた羽根ペンの羽で口元を隠した。「そうかしら」

「今回の試験で成績を落として、先生方から心配されていたじゃない。君にも危機感はあるように見えたし、放課後に図書館で勉強すると言うから、こうして俺も付き合ってやってるのに……」机の向かいに座るフィデリオが、私の手元を指先でノックした。「たった三行の作文の問題で、さっきから少しもペンが動いてないけど?」

「ええ、たった三行の作文ですとも。五百年も前のリーベ王室だけで使われていたフェルス語を用いて、という出題様式のね」

ではなくなんだから易いものだよ。辞書もある。文型が頭に入ってるなら、さほど時間はかからないはずさ」

「はいはい。不出来な私の勉強に付き合ってくださる、学年で一番頭のいい貴方の言うとおりよね」


 私が肩を竦めてそう告げると、フィデリオは少しだけ顔を俯かせて「そんなこと言わないでくれ」とこぼした。


「この結果は……僕も納得していない。まさかこの僕がミットライト嬢に勝っただなんて」

「納得するもなにも、そういう結果だったのよ」

「ミットライト嬢の答案用紙には、どの科目にも、いくつかのがあったそうだ。あの完全無欠の聖女が空欄で提出することが……?」

「聖女も人の子よ。わからないことや忘れることだってあるでしょうよ」

「だが、」

「一位の貴方との点差もわずかだったと聞いたわ。本来、貴方と彼女には、さほど開きがなかったのよ。主席と次席ですもの。それが今回、彼女の不調によって、貴方が一番にくりあがった。きっとそういうことだわ」


 私は頬杖をつき、未だに顔を苦くしているフィデリオへと囁いた。

 もちろん、今試験の裏側は、私の言うようなではない。学校にも来られない病持ちの首輪雉が、憧れの少女であるフェアリッテに貢献することができたという話だ。フェアリッテと己の保身のため、彼女が誰かに真実を話すことはないだろうし、この話は永遠に葬られることとなる。


「フィデリオ。貴方はその弛まぬ努力を誇ればいいのよ」


 私はにっこりと微笑んで、彼の怪訝の芽を摘んだ。

 彼は「まあ……ミットライト嬢が自ら手を抜くとは思えないしな」と、無理矢理に己を納得させた。


「となると、やはり問題は君だよ」そして、気を取り直したように私を見据える。「君が自力でやった結果としては、正直、よくやったほうだと、俺は思うけど……去年の君の成績が実力だと信じているひとたちからすると、今回の君の点数には不安を覚える」


 結局、私は成績を維持することができなかった。

 それほど悪いわけでもない。とはいえ、去年のように特別よいわけでもない。

 フェアリッテやギュンターからは「珍しいこともあるものだ」と、リンケやコースフェルトからは「残念ね。次はがんばりましょう」という言葉をいただいた。

 聖女の失墜でそれどころではないミットライト派閥はともかくとして、ボースハイト派閥の者からはちくちく厭味いやみを言われてしまった。

 ある程度の覚悟はしていたが、やはり苛立たしいものである。フィデリオのように慰めてくる人間も、それはそれで小癪だが。


「だからこうして勉強してるのよ。放課後に、わざわざ、この私が」

「集中が切れてる。だらだらやっても意味はないよ」

「場所が悪いわ」私はため息をつく。「あちこちから飛んでくる視線や、聞こえてくるおしゃべりが煩わしい」


 成績の落ちこんだ私の話、二番へと落ちたミットライトの話、そのミットライトを下したフィデリオの話、あるいはフェアリッテやガランサシャの話。図書館長もその囁きを咎めはするものの、だと大目に見ている節はある。次期王太子妃候補争いが始まって以降、貴族同士の情報交換は、時勢を読むためのすべであり義務だ。

 私の言葉にフィデリオも「まあ、そうだけど、」と頷く。


「寮の談話室だって似たようなものだし。図書館のほうが資料や教材も揃っているし、時間帯を選べば静かだよ」

「今日にかぎって騒々しいわね」

「ああ、それはたぶん……」


 フィデリオは遠く離れた二階を一瞥した。

 私は彼の視線の先を追う。すると、そこには、同級生や上級生たちと談笑するジギタリウス・フォン・ボースハイトがいた。

 人好きのする笑みで愛想よく会話する彼に、その周囲の人間も穏やかな表情をしている。たいそう会話が弾んでいるらしい。その声は階下にまで響いていた。


「あれがうるさいのね」

「それもあるし、あの雰囲気に周りが触発されているのもある」フィデリオは目を細めた。「ジギタリウス卿が話している相手には、王領伯の令息令嬢もいる。王領伯の人間がボースハイトの人間と懇意にしているんだ。気にならないわけがない」


 そういえば、以前、ジギタリウスが、ガランサシャは王領伯と繋がりを持とうとしていると言っていたっけ。

 あの話が本当なのだとしたら——考えたくはないが——ガランサシャが王領伯を攻略したのかもしれない。

 となると、いまの構図も不思議ではなかった。それを知らぬ者からしたら、噂するに足る珍事ではあるが。

 楽しそうに笑っているジギタリウスを眺めていると、彼と目が合った。彼は飴を転がすみたいに笑って、私へと手を振った。それを見た者が、彼の視線の先を追い、私へと振り返る。訝しそうに眉を顰めた。


「プリマヴィーラ……どういうことだい?」


 それはフィデリオとて例外ではなかった。

 私はうんざりして「なんにもないわよ」と吐き捨てた。


「ジギタリウス・フォン・ボースハイトと関わったら厄介なことになると、夏休みのときに言わなかったっけ?」

「関わってないわ。あっちが関わろうとしてくるだけで」

「彼が? 君に? どうして」

「さあね。なにも特別なことではないんじゃない? 彼はあっちこっちに顔を出しているようだし」私はペンを滑らせながら言葉を続けた。「ギュンターも言っていたけれど、彼の交友関係は派閥の垣根を越えて広いんだそうよ。入学する前も、ガランサシャ嬢と並んで、社交界の花形だったそうじゃない。私よりも貴方のほうが詳しいのではなくて?」


 人懐っこい性格と純真な微笑みで、多くの人間の懐に潜りこんでいるらしい。

 かく言うギュンターも、政敵の立場である彼を「悪い男ではない」と評価していた。

 また、今年の第一学年のデビュタントでの大本命だそうで、彼のエスコートを勝ち取った令嬢は羨望の目を受けているとも聞く。


「たしかに、昔からジギタリウス卿は社交的な性格をしていた」フィデリオは私の意見を肯定した。「ボースハイトの者には変わりないけれど、誰に対しても愛想がいいし、よく言えば褒め上手で、」

「悪く言えば軽薄」

「……そのような面もあると言える」フィデリオは私の言葉を否定しなかった。「だから、厄介なんだ。世渡り上手で、間者の素質もある。関わるだけ危うい。彼の甘い笑顔にも言葉にも、騙されてはいけない」


 騙されてはいけないだなんて、まるで子供に言い聞かせるようにフィデリオが告げたので、私は鼻で笑ってやった。

 甘い笑顔も甘い言葉も全てまやかしだといっとう知っているのは私だ。去年の私はそれらを武器にして、時を遡る前と比べればあまりに目覚ましい、現在の交友関係を築くことができたのだから。

 甘さには裏がある。思惑と謀略をあばらに隠して、ここぞというときに出し抜くのだ。


「それはそうと、週末にあるマイヤー侯爵家のパーティーについてだけど。俺はその日もフェアリッテをエスコートすることになるだろうから、君はギュンターあたりにでも頼んでくれ」

「もうアーノルド卿とは話してあるわ」

「ならよかった」フィデリオは続ける。「今回はマイヤー侯爵家をこちら側へつけることが目的だ。君とギュンターにも脇を固めてほしい。マイヤーがボースハイトにつくことはないだろうが……ミットライトをなるべく近づけないようにしたい」


 五大侯爵家の中でも、いまだに支持表明をしていないのがマイヤーだ。

 マイヤーを味方につければ他の候補者たちと大きく差をつけられるのは明白で、ブルーメンブラットも勢力を伸ばすため、マイヤーと手を組もうとしている。

 私は「わかったわ」と頷いた。


「ミットライト嬢に話しかけて、足止めすればいいんでしょう? 貴女が点数を落とすなんてなにがあったのかしらね、って」

「やめておけ。自分に返ってくるぞ」






 さて、時は移ろい、週末になった。

 催されたのはマイヤー侯爵家の次男坊の誕生日パーティーで、彼は去年の卒業生でもあるらしい。音楽を愛する趣向のようで、舞踏会場ボールルームには見事な演奏が響き渡っていた。

 その管弦楽団の中央に立つのは、くだんの次男坊だ。彼はヴァイオリンを嗜んでいるらしく、背後に控える一流たちとも引けを取らぬ腕前を披露していた。

 私はギュンターの隣でその音色を鑑賞していた。

 今日の私のドレスは干し葡萄のように深い色合いをしたもので、伴うギュンターもそれに倣った色味の装いでいる。ただそれでは華に欠けるので、アクセントとしてリーベカケスの羽根を装飾にしている。私は羽根で編まれた首巻きストールを、ギュンターはコサージュをつけていた。

 少し離れたところにいるフェアリッテは、黄水晶シトリンを散らしたレース仕立てのドレスを身に纏っており、隣にいるフィデリオも淡い色の装いだ。二人はブルーメンブラット辺境伯と共に、マイヤー侯爵の近くに侍っていた。演奏に聞き入りながらも、マイヤー侯爵に「見事ですな」と感嘆の声を漏らしている。その表情を見るに、上首尾なのだろう。

 私はちらりとミットライトへと視線を遣った。

 今宵の彼女はイーリエンの民族衣装をモチーフにしたドレスを着こんでいた。白磁のような白と薄い青紫の布地を重ねた細身のドレスで、独特の刺繍の施された詰襟によって華奢な首筋を隠している。胸元には煌びやかに瞬く紫水晶アメシストのネックレス。世界にもまたとない逸品だろうに、彼女はそれを当然のように首にぶら下げていた。

 そんな彼女の隣にいる青年は、たしか、彼女の幼馴染のノイモンド・フォン・シックザールだったか。すでに学校を卒業し、次期当主として領地の運営の一部を任されている令息だ。

 元々上背はあるのだろうが、小柄なミットライトの隣に立つと、その長身は顕著である。しかし、柔和な笑みを浮かべる落ち着いた風貌からは、圧迫感は感じられない。彼女のそばに付き従う者たちにも愛想よく受け答えをしていた。

 この夜会で、少しくらいはミットライトに噛みついてもいいだろうと目論んでいたのだが、彼女にべったりと侍るミットライト派閥の者たちにより、それを阻まれていた。まるで厚い壁のようにミットライトを囲っているのだ。これでは彼女に近づけない。同様に、ミットライトもマイヤーに近づけないようだったけれど。


「まるでお姫様を守る騎士ね」


 私がそう呟くと、それを拾ったギュンターが「騎士というよりは信者だな」と言った。


「ミットライトが各地の神聖院に多額の寄付をしたらしい。また、冬休みのあいだはミットライト嬢が自ら神聖院に足を運ぶと聞く。神聖院を領地に多く含む貴族ほど、彼女を支持するのは当然だ」

「貴族の娘が慈善活動に勤しんでるからって、大袈裟ね」

「ただの貴族の娘ではないからね、彼女は聖女だ」

「ところで、ボースハイト嬢の姿が見えないわね。出席していないのかしら?」

「いや……あちらにボースハイト侯爵もいらっしゃるから、それはないと思うけど」


 すると、そのとき、演奏が終わった。

 マイヤー侯爵家の次男坊はお辞儀をし、そんな彼に観客は拍手を浴びせる。爽やかに笑う彼に賛辞を贈った。

 拍手が鳴りやんだころ、彼は「最後にもう一曲、ご披露したいのですが……」と口を開く。そして、舞台袖へと腕を広げ、「親愛なるお二人にも、力添えをお願いしたく、今回お招きしました」と告げた。

 舞台袖から出てきたのは——ガランサシャとジギタリウスだった。

 瞬く間に動揺が広がる。二人を迎える拍手の音に混じって、息を呑む声も響いた。

 ブルーメンブラット辺境伯も、フィデリオも、目を見開かせている。

 しかし、マイヤー侯爵の顔色に動揺はなかった。つまり、これは次男坊の独擅場ではない。マイヤー侯爵も承知している。

 ジギタリウスは舞台の上のピアノの椅子に座る。それを見て、次男坊もヴァイオリンに弓を添えた。

 舞台の中央に立ったのはガランサシャだ。身を包むのは赤と白のドレスで、その高慢な態度がなければ衣装に負けてしまいそうな、相変わらず派手なデザインだった。シャンデリアの煌々とした光に照らされ、彼女の白い肌が真珠のように輝く。舞踏会場ボールルームにいる人間の視線を一身に浴びるその姿は、自信に満ちていた。

 音楽が鳴りだす。

 軽やかな管楽器の音色に折り重なる、弦楽器のせせらぎ。次男坊のヴァイオリンがいっとう強く響く。そこに上乗せされるのは、ジギタリウスのピアノだ。文句なしの出来栄えだった。技巧的な打鍵で、綿密に紡がれた金銀宝石がごとき音色を奏でている。滞りのない流麗なハーモニーは称賛に値する代物だった。

 そして、ガランサシャが歌いだす。

 高らかに、華やかに。

 見事な演奏を味方につけて、自らも輝きを放つ。

 よく響く歌声だった。普段の彼女の気性からは想像もつかないほど、繊細で伸びのある声調。その歌は、この場の全ての音を吸収し、ひときわ絢爛に輝いていた。


「やられた……」隣のギュンターが噛みしめるように吐いた。「この歌は、ネーベルホルン劇場でしか公演されていない演目の、最終幕で演奏されるものだ。仲違いをしていた国同士が、戦争の果てに平和を取り戻し、手を結ぶ。題名タイトルを『福音』」

「ネーベルホルンって、王領伯の?」

「問題は、その曲をマイヤーとボースハイトの二家で演奏していることだよ。仲違いしていた者同士が手を結ぶ曲を……これはあまりに意味深い」


 私たちはマイヤー侯爵のほうへと視線を滑らせる。

 すると、そこへボースハイト侯爵が「このたびはありがとうございます」と挨拶をした。マイヤー侯爵も「これはこれは」と笑顔で応対する。

 私たちは、ボースハイト侯爵とマイヤー侯爵との会話に、聞き耳を立てた。


「ガランサシャもジギタリウスも、今日という日を楽しみにしておりました。ご子息の顔に泥を塗ることがないか、私も不安でしたが……ご子息のフォローもあり、楽しそうにやっております」

「こちらこそ、ボースハイト侯爵。うちのせがれなど、趣味に毛の生えた程度ですよ。それより、二人とも大したものではありませんか。選曲も素晴らしい。これはネーベルホルンの?」

「ええ」ボースハイト侯爵は自慢げに微笑む。「ガランサシャがこのところ懇意にしておりまして……領地を見学した際、劇場にも足を運んだようです。この歌をいたく気に入り、ぜひ今宵に、と」

「ガランサシャ嬢といえば、先日の提案は実に見事だった」マイヤー侯爵はしみじみと顎を撫でる。「長年の問題であった鉱害について……マイヤー領とボースハイト領とも近しい地を治める、シェーンベルグ王領伯の力を借り、両者に公平な条例を設けることで、折衷案を導きだしてくれた。よい娘を持ちましたな」

「自慢の娘でございます」

「これからは、互いに手を取り合ってゆきましょう。ボースハイト嬢と、ジギタリウス卿の今後の活躍に」


 乾杯、と二人はグラスを鳴らす。

 ブルーメンブラット辺境伯は表情を硬くした。ミットライトやシックザールも目を眇めている。

 一方で、それ以外の者たちは、どこか色めき立つように息を漏らしていた。これは誰も予期せぬ展開だった。

 あのマイヤーが、ボースハイトについたのだ。


「そんな、まさか」


 ギュンターが手を口元で覆う。

 その傍らで、私は、ジギタリウスから聞いた話を思い出していた。ガランサシャが王宮に登城し、王領伯と繋がりを持とうとしている——あれは、こういうことだったのだ。王領伯八家を攻略するためではなく、マイヤー侯爵家を味方につけるため。

 私はピアノを演奏するジギタリウスを睨みつける。

 よく知りはしないと言っていたくせに、抜け目のない男。

 それに、ガランサシャも、厭味を言うしか能がないと思っていたけれど、なかなか頭は切れるらしい。教養と知恵を身につけた最高学年であり、社交界でも花形だっただけのことはある。

 演奏がやんだ。

 割れるような拍手喝采。

 ガランサシャは肩を上下させながら、次男坊と握手を交わした。ジギタリウスも笑顔でお辞儀をし、次男坊と抱擁を交わした。

 三人の屈託のない雰囲気を見て、あちこちで囁き声が立つ。

 ボースハイトが優勢に立つ、そんな予感がした。

 次男坊が挨拶をすると、再び管弦楽団は音色を奏ではじめた。染み渡るようなワルツだ。見事な演奏の熱狂のまま、人々は喜色ばんだ様子で手を取り合い、踊りはじめた。

 それ以外の人々は、舞台から降りた彼らに近寄っていく。ガランサシャもジギタリウスも、温かい言葉で迎えられていた。

 私もギュンターも踊る気にはなれなくて、しばらくはフロアを見つめていた。視界の端では、フェアリッテとフィデリオが、子爵家の輪に溶けこんでいた。今回の目的を早々に逃した以上、地固めをする気になったのだろう。

 私は隣のギュンターを見遣ったが、相変わらずの抜け殻で、使い物にならなさそうだった。

 こんな彼を引き攣れて話しかけても、なんの足しにもならないわね。

 飲み物でも取ってこようかと思ったとき、目の前を影がよぎる。


「こんばんは、プリマヴィーラ嬢。貴女もこのパーティーにいらっしゃったのですね」


 顔を上げると、ジギタリウスがにこやかに立っていた。

 演奏の熱気をまだ背負っているのか、頬はわずかに上気していて、いつもより笑みも深い。ガランサシャのドレスとよく似た装いで、彼女ほど華やかでなくとも、実に煌びやかな立ち姿だった。

 先の演奏で活躍した彼に話しかけられたことで、場の視線がこちらへと向けられた。

 私は愛想よく微笑んで「ええ。アーノルド卿と」と答えた。


「こんばんは、アーノルド卿。こうしてお会いするのは久しぶりですね」

「あ、ああ……」

「さきほどの演奏は見事でしたわ」動揺しているギュンターを差し置き、私はジギタリウスへ告げる。「ジギタリウス卿の腕前には驚きました。ここにいる誰もが聞き入っておりましたもの」

「ありがとうございます」ジギタリウスは胸に手を添えた。「幼いころよりピアノを嗜んでおりまして。こうして人前で演奏するのは久々で、緊張していたのですが……今宵、貴女の前で披露できたことを嬉しく思います」


 普段から上機嫌のジギタリウスだが、今夜は格別だ。私の隣にいるギュンターへ「お二人は踊らないのですか?」と尋ね、ギュンターが「いまは」と答えるや否や、「でしたら、僕と踊りませんか?」と私へ手を差しだした。


「どうか、貴女の手を取る栄光を、僕に下さい」


 私はその手を見つめた。

 フィデリオからは再三にわたって“関わるな”と言われているし、人々の注目を集めるなか、彼と踊るわけにもいかない。ブルーメンブラットの私生児として知れ渡っている私が、ボースハイトの人間の手を取るなど、実に意図深い振る舞いだろう。

 政敵と踊ることに関しては、ジギタリウスも同じ立場のように見えて、実際は、まったくの別だ。これはひとえにジギタリウスの人格によるところが大きく、彼が別の派閥の者と親しくしたとしても、ジギタリウス・フォン・ボースハイトなら、と誰もが納得してしまう。彼の手を取って害を被るのは私だけなのだ。

 隣のギュンターがはらはらした面持ちでいるのがわかる。まさか応えはしまい、と念じているに違いない。

 だけど、ジギタリウスの機嫌がいいなんて、不愉快極まりないじゃないの。

 せっかくなのでぶち壊してやろうと、私は「もちろん」と彼の手を取った。

 狼狽えるギュンターをほったらかしにして、私たちはダンスへと興じる。二人で向かい合わせになってお辞儀をする。体を重ねれば、彼の強情で優雅なリードが始まる。


「ダンスがお上手ですね」

「貴方ほどではないわ。もしかしたら、足を踏んづけてしまうかもしれません」

「以前に踊ったときは見事な足取りでしたが」

「運がよかったのね。有名よ、私の足癖は」


 ステップの合間に、ジギタリウスの足を踏みつけてやろうとしたのだが、彼にさっと避けられて、私はバランスを崩す。

 そこを彼はそっと支え、「大丈夫ですか?」と顔を覗きこんできた。

 まぐれか?

 内心では訝しみながらも、私は「ありがとうございます」と答える。


「ジギタリウス卿はフォローがお上手ですね」

「おてんばはシシィで慣れているので」ダンスが乱れない程度に肩を竦める。「彼女は芸に優れていますが、ダンスに関しては独創的で……まるで男性と踊っているような気分になります」

「リードが上手なんでしょうね」

「ええ。おかげで僕も女性の型を覚えました」


 その会話のあいだも、さりげなくジギタリウスの足にヒールをかましてやろうと思ったのだが、てんで当たらない。私は微笑の奥で歯を噛みしめる。

 すると、ジギタリウスはくすくすと笑って、「たぶん、無駄ですよ、」と口を開いた。


「僕は《好運の祝福》を授かっているので、んです」

「なんのことかしら」

「よっぽど僕の足を痛めつけたいようだったので」

「言ったでしょう? 足癖が悪いって」

「言ってくださいましたもんね、僕は運がいいって」


 彼の人生には足を踏みつけられる運命はないのだろう。

 最悪だ、と天を仰ぐ。その上機嫌をぶち壊してやろうと思ったのに、かえって私が嫌な目を見た。ダンスの誘いをこっ酷く断ってやったほうがまだよかった。

 途端に顔を渋くした私に、ジギタリウスは眉を下げる。


「虐めたいほど、僕がお嫌いですか?」

「好ましい部分が見当たらないわ」

「先日、言ってくださったじゃないですか。僕がブルーメンブラット嬢と似てるって」


 それが最悪なのよ、とは言わないでおいた。

 ただ冷静に言葉を返す。


「魂胆が透けて見える相手に惹かれるわけがないでしょう」


 しばらくのあいだ、私たちは見つめあっていた。

 けれど、そこに温かさや甘さは一寸たりとて存在しなかった。

 不意に彼が視線を俯かせる。細い睫毛が瞳に影を落とすのを見て、根負けしたのを悟った。

 彼は苦笑じりに「やっぱり、貴女の目で見つめられると、だめですね」とこぼした。しかし、瞬く間に、普段のあの甘い笑みを浮かべる。


「そうですね。正直に言いましょう。僕は貴女に靡いてほしい」

「本当に正直ね」

「貴女が靡いてくれて、ついでに、ブルーメンブラットの弱味を教えてくれたり、ブルーメンブラット嬢の評判を落としてくれたりしたら、僕はとっても嬉しいです。シシィにとって都合のいい駒を絶賛募集してます」


 いくらなんでもここまで白状するとは思っていなかった。

 周囲には悟られない程度の声音だったが、聞かれでもしたらずいぶんと評判を悪くするだろう、下卑た発言だ。清廉な彼の顔からは想像もできないような。

 私にそのように囁いているあいだも、彼の顔は穢れを知らぬ清らかなものだった。いっそ清々しいまでの暴挙に、私も開き直ってしまう。


「そうやって上手く取り入ってきたのでしょう」

「はい。特にブルーメンブラット派閥は善良なひとたちが多くて、ボースハイトの僕の言葉にも耳を傾けてくださいました。王領伯の方々も優しくしてくださいます。ありがたいかぎりですね」


 ボースハイト姉弟の強みは、この対人能力だろう。王領伯八家に取り入る交渉能力と、異なる派閥の家にも潜りこめる話術。

 さらには、政敵であるブルーメンブラットやミットライトと“学年層”が被っていないことも大きい。ジギタリウスのいる第一学年と、ガランサシャのいる第四学年は、二人の手によってほぼ陥落していると私は見ている。

 ブルーメンブラットの支持者は第二学年が多く、他の学年は手薄だ。クシェルに手引きしてもらうのにも限度がある。


「ミットライト側の人間も、少しずつ懐柔しようとは思っているのですが、運悪く機会を逃していまして」ジギタリウスは小さくため息をつく。「やはり、結束力が段違いですね。ミットライト嬢のカリスマ性でしょうか。彼女は神聖視されがちですが、王太子妃候補争いにおいてはそれが顕著です。聖女が妃になればリーベは安泰だ、これは運命ファタリテートの啓示だ、とか……ミットライト嬢が王妃になれば彼らの崇拝意識にも拍車がかかるのかと考えたら、ちょっと怖いくらいです。彼らに話しかけたら、運命に抗う者よ、だとか言って、追い返されました」


 ミットライト派閥は排他的な傾向にある。特に、先の学期末試験において、信仰する聖女を落としつけられたことには、いっそ狂気じみた悲嘆を見せていた。


「まあ、それは追々考えるとして、僕の目下の目標は貴女です、プリマヴィーラ嬢。貴女ほどブルーメンブラット嬢と近しい人間が裏切ってくれたら、これ以上のことはありませんから」

「そうまでして姉を王妃にしたいのね」

「シシィは、強引なところもあるけど、きっとそれなりにいい王妃になりますよ。政治的な計算もできますし、発言することに臆しません。あの困っちゃうくらいに高慢ちきなところも、王妃の座ならふさわしく見えます」それに、とジギタリウスは微笑んだ。「家族なんだから、応援したいじゃないですか。僕も父さんも母さんも、それがシシィの本当にやりたいことなら次期王妃だって世界征服だって応援しますよ」


 マイヤー侯爵と話していたときの、ボースハイト侯爵を思い出す。自慢の娘だと、本心から告げているように見えた。

 ガランサシャもジギタリウスも、ずいぶんと愛に溢れた家で育ったらしい。道徳心や倫理観は育たなかったようだが。

 愛を差しだして、それが己にも返ってくることを信じて疑わないような、その暢気でお幸せな心根が、実にフェアリッテを想起させた。出会ったときからこの年下の少年に感じていた、胸元をくすぐられるような嫌悪感は、おそらくそれが原因だ。

 ジギタリウスは穢れなきまなこで私を見据える。


「貴女とブルーメンブラット嬢との仲は有名ですし、そう簡単には落ちてはくれないこともわかっています。でも、隙がないとは思っていません。かたや正妻の娘として本邸で育てられ、名声も人望もあるご令嬢。かたや正妻の実家で育てられ、卑下されがちなご令嬢。一片の嫉妬も劣等感もないだなんて、そんなにきれいな話があるなんて、僕は思ってませんから」


 ジギタリウスの言い分はもっともだ。

 私とフェアリッテの関係は、そんなきれいなものではない。

 彼女のことは殺したいほど憎かった。恨めしかった。羨ましかった。憧れた。


「貴女がフェアリッテ嬢を応援するのはどうしてですか? 異母姉妹だから? それとも、彼女が次期王妃となれば、貴女の社交界での立場も向上するから?」ジギタリウスは、握る私の指先を、柔らかになぞる。「地位や名声をお望みなら、それ以外にも方法がありますよ。たとえば、僕と婚約を結ぶとか」


 私の腰を抱くジギタリウスの手は温かった。まるで硝子細工を扱うかのように繊細で、けれど、きっと手折ってやるのだと誓う花盗人のようにしたたかだ。

 私の緑の瞳に、彼はぐっと映りこむ。

 ひときわ優しい声で私へと囁いた。


「シシィが次期王妃となれば、ボースハイトが脚光を浴びます。ボースハイトの令息の隣は、きっと今よりも見晴らしがよいでしょう」


 目の前の相手の眼差しも、絢爛豪華なシャンデリアも、きらびやかな管弦楽も、なにもかもがこれほど鮮やかなのに、私が想いを馳せるのは、あの冷たい湖の波音と、白光る眩い日差しと、私をまっすぐに見つめた花咲く瞳なのだ。

 だから、私は、ジギタリウスの言葉を嘲笑うことができた。


「下手くそね」


 私がそう告げると、ジギタリウスはわずかに目を見開かせる。

 口角を吊り上げたまま、私は言葉を続けた。


「フェアリッテでも“私には貴女が必要なの”くらいは言えるわよ」


 フィデリオは、甘い言葉には騙されるなと言っていたけれど、こんなのじゃ騙されようもない。ジギタリウスの言葉は、私の胸には響かないのだ。


「ねえ、ジギタリウス。貴方は、たとえば出会い頭に紅茶を浴びせられても、逃げ惑う背中に矢を放たれても、死に至る毒を盛られても、深い水底で息絶えそうになっても、それでも、私を靡かせたいと思うのかしら」


 私の手を握るジギタリウスのそれを強く掴む。ぐっと身を引き寄せて、その顔を見上げてやれば、生まれてこのかた一度も汚れたことのなさそうな、清らかなかんばせが、私を見下ろしていた。まるで、暗闇でも覗きこんだかのような表情で。


「私と溺れてくれるのかしら」


 曲が終わる。

 私たちは体を重ねたまま、ただただ見つめあっていた。

 半ば呆然としていたジギタリウスが、二度、瞬きをする。その音すら聞き取れるほど、私たちのあいだには静寂が満ちていた。

 私が身を離すと、彼もそれに倣った。数歩下がり、お辞儀をすることも忘れて、立ちつくす。


「……こんなに情熱的な断り文句は初めてです」


 笑みさえも溶けたおぼろげな表情。

 あぶくを漏らすだけの吐息。


「まるで愛の告白みたいだ」


——私はドレスを摘まんでお辞儀をし、そのままジギタリウスのもとを離れていった。

 少し歩けば、胡乱な目で私を見る、ギュンターが近づいてきた。どうやら不服のご様子ね。私は彼から逃げることなく、そばへと足を進めた。私を迎えるために伸ばしたであろう手に、己のそれを重ねる。


「僕のエスコートでは不満でも?」

「いいえ。むこうの味見をしたくなって」

「ジギタリウス・フォン・ボースハイトを相手取るとは、趣味が悪い。ブルーメンブラット嬢と近しい君が彼と懇意にすれば、裏切り者だと囁かれてもなにも言えない」

「今後のためには、こういう立ち回りも必要だと思うの」

「なにか情報でも?」

「今回の収穫は特にないわ。精々、確証を持たされたくらい」


——この夜会を以て、五大侯爵家の支持が表明された。

 ギュンターはブルーメンブラットに、シックザールはミットライトに、マイヤーはボースハイトに、それぞれつくこととなり、各伯爵家や子爵家も、勢力図を見極め、侯爵家の後に続くこととなる。

 冬の彩の月は閉じてゆき、もうすぐ、冬休みを迎える。

 冬休みが明ければ、今年も、狩猟祭がやってくる。

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