第9話

 車を発車させ、坂を下って街に出ると、針のような雨が降り出した。

 ワイパーで振り払うと、水が尾を引いてフロントガラスの上を右往左往する。


「これから、どっか行こうか?」

「とりあえず、何か食べるものがほしいな。君も何も食べてないだろう」

 車内の時計は十一時四十七分を指していた。

「この時間じゃやってるとこもな……」

「あのコンビニでいい」

 相変わらず強烈な光が路面へ伸びている。寒色の光だが、日付が変わる直前の闇の中では暖かい色に感じた。


 他に車のない駐車場にバンを入れる。一緒に来るかと聞いたが、男は車内で待っていると言った。


 外に出ると雨は止んでいて、アスファルトから冷気が立ち上っていた。

 煙草を咥えて、白い息と共に煙を吐き出す。

 パトカーが通って一瞬身構えたが、ファンベルトの緩んだ音を立てて走り去っていっただけだった。


 施設では大騒ぎになっているだろうか。

 今はどうでもいい話だ。

 ただ繁華街で濡れた路面にネオンが反射して、湖の底にもうひとつの都があるようになるのだけが見たかった。



 店内ではもうクリスマスソングが流れていた。カゴを手に取ったはいいが、あの男の食べ物の好みなど知らない。


 駐車場を見ても、暗いリアガラスの奥の男の姿は見えない。明日になればあの男の自由も終わりなのだ。

 施設のベッドと、老人の肉体の檻に閉じ込められる。真夜中に若く美しく戻る魂を秘めたまま。


 俺は手当たり次第にパンや飲み物を放り込んで、レジに向かった。

 中国人の店員の頭上に並ぶ煙草の銘柄の一覧の、六十九番目にゴールデンバットの文字がある。町外れだから買い手もろくに来ず、まだ売れ残っていたのだろう。

「それと、六十九番を」

 店員は一瞬煩わしそうな顔をしたが、手を伸ばして箱を取った。

「ワンカートンで」

 店員の眉間にしわが深く刻まれた。


「バットのカートンか。よくあったね」

 男はどの食べ物よりも嬉しそうに受け取った。


 寒風が吹き込むのも構わず窓を開け放って、煙草をふかす。

 男は昔の友人が煙で輪を作れるのが羨ましかったが、ついぞできなかったと話した。

 今試してみろと煙草を押しつけたが、むせ返っただけで、俺たちはふたりで笑った。


「他にしたいことは?」

 男は目尻の笑い涙を拭って、ないと首を振った。

「施設が警察を呼んでたら、明日には連れ戻されるぞ」

「そうだね」

「こんな脱走一度きりだ」

「楽しかったよ」

 コンビニがブラインドを下ろしたせいで、急に辺りが暗くなった。

「もういいんだよ、私は。大丈夫だから」

 その声が本当に満足げで俺は何も言えなかった。


 風が唸るように吹いて、車の窓を上げた。

「じゃあ、どうする?」

「寝よう」

「貴重な自由時間なのにか」

「でも、夜は眠るものだ」

「女殺しがよく言うよ……」

 男は初めて見たときのように人差し指を唇に当てた。

 俺たちはシートを倒し、二体の惨殺死体のように雑に横たわって眠った。



 ***


 まぶたの裏が柔らかい橙に染まって、目を開けると山の方から清潔な朝日が降り注いでいた。


 頭は重いが頭痛も耳鳴りもないのは久しぶりだった。


 隣を見ると、スーツのジャケットを布団がわりにかけたまだ若い男が眠っている。

 ひと晩寝ても、夜が明けても、変わっていない。

 これなら老人ホームに戻る必要があるだろうか。


 ハンドルに手をかけたままそう思ったとき、ルームミラーの中の男と目が合った。

「起きてたのか」

 男は低く呻いて肩を回す。乱れた前髪を掻き上げて男は笑った。何人もの女に明け方見せてきた笑みだろう。


「さて、じゃあ、帰ろうか」

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