第8話

 飴色のアーケードが夜の色を受けて陰を落とす商店街の前に車を停め、助手席から老人を下ろした。


 入ってすぐにある中華料理店の、立ち上る湯気と仕事帰りの会社員の笑い声の幕を抜けて、辿り着いた靴屋は半分シャッターを下ろしていた。


 火かき棒のような器具で、もう半分を下ろそうとしていた店主にまだやっていますかと声をかける。

 店主は怪訝な目で俺と老人を見た。

「父を病院に連れて行くところなんですが、途中で靴を失くしてしまって」

 店主はもう一度俺と老人を見比べると、閉めかけたシャッターを押し開けた。


「今その世代の方の靴だとこれとこれくらいしかありませんよ」

 押入れの匂いがする店で、試着用の椅子に老人を座らせて、店主が足元に箱をふたつ並べる。


 ひとつはガムテープで留める青地のフェルトの靴。もうひとつは黒光りする人工革の靴だった。

 俺はこれを、と革靴の方を指した。

 寝巻きには合わないが、スーツに合わせるならこれだ。


 店主が店仕舞いの準備をしに戻った間、老人は俺が結ぶ靴紐を見ながら呟く。

「何かで埋め合わせをできたらいいんだが……」

「別にいい」

 アイリッシュグレーのスーツにメタリックな黒い靴はきっと合うはずだ。


「靴はいいものにしていたんだ。いい場所に行くために」

 老人が言った。

「君もそうするといい」

「俺たちが行くのは地獄だろ」

 老人は声を潜めて笑う。

 商店街の通りから、冷えた藍色の夜が染み出していた。


 前を走る車のテールランプが魔物の眼光のように尾を引いて、暗い車道を照らす。純度の低い夜闇がさらに汚れる感覚がする。



「どこへ向かってるんだい」

 俺は答えずアクセルを踏み続けた。

 助手席の男は俺以外の人間がいるときだと老人になるのだろうか。

 靴屋の店主の態度からすると、何もかも幻覚ということはないはずだ。少なくとも辰木はいる。

 俺が施設から老人を誘拐する狂った介護士かもしれないというだけだ。


「親子で案外通るものだな」

 窓の外を眺めながら男は言った。ひと通りは少なく、等間隔で並んだ不穏なオレンジの街灯と月が背後へ流れていく。


「俺の本当の父親はあんたみたいなひとかもな」

 男は顔は外に向けたまま、視線だけ俺に向けた。

 信号が黄色くなり、俺はブレーキを踏んで速度を落とす。


 コンビニエンスストアの冴え冴えとした光が、暗い路面の一角を切り取るように眩しい交差点で車は完全に停車した。

 男は頬杖をついて、俺が話すのを待っていた。


「……今脳溢血で入院してる俺の母親は、ずっと前父親と不仲で。俺が前の仕事やめようかと思ってるとき、ちょうど倒れる一週間前かな。言われたんだ。『お前の本当の父親はあんな甲斐性なしじゃないから、あの男みたいな真似はしなくていい』って」


 手汗でハンドルが滑る。

「誰かはわからない。母親もわかってない。結婚してすぐ旦那が駄目だとわかって、ろくに知らない顔と女の扱いだけはいいような男と子どもを作ったって。ずっと親父は気づいてないんだって嗤ってたよ」


 信号が青に変わる。今アクセルを踏んだらハンドルが制御不能でクラッシュすると思った。

「意識が戻ったら、本当か確かめたいと思ったけど、答えを聞くのが怖い」

 男は重い睫毛を伏せて目を閉じた。沈鬱な仕草だった。


「……最悪の女だ」

 口に出してからハンドルを強く握り、アクセルを踏み込む。

「女の命を吸えば生きられるんだろう。俺の母親から吸って、あんたは生きろよ」

 走り出した車はベルトコンベアに乗せれたように、連綿と続くアスファルトの上を進んだ。



 ***


 母がいる総合病院は丘のように標高が少しだけ高い場所にある。

 夜は茂った木々が鬱蒼として、死の森といった雰囲気だった。


 来客用の窓口はもう閉まっている時刻だからと、救急搬送用の出入り口側に車を停めた。坂の上に茫洋とした光で佇む白い病棟が見える。


「……それじゃあ、行こうか」

 俺は一足先に運転席から降り、助手席のドアを開けた。他に誰もいないというのに、老いさらばえた老人の姿になっていた。

「まだいいよ」

 老人は静かに首を振った。微かに口を開けた虚ろな顔で、目の周りが猛禽類のように赤い。

 俺は舌打ちしてから、老人に肩を貸して車からおろした。


 空気はさらに冷たく、死人に抱きつかれているようだと思う。


 力を入れれば折れて砕けそうな心許ない手を引いて、俺は坂道を登った。

 一歩進むたび、手にかかる重みが増すような気がする。そんな怪談があった。森を食い破るように月光が刺す。

 半ばまで登ったところで、手の先の重量がびくともしなくなった。


 振り向くと、老人が逆に俺の手を掴んでいる。

「……勘弁してくれよ」

 手を引き抜こうとしたができなかった。流木の破片のような細い身体のどこからこの重みと力は来ているのだろう。


「散々やってきたんだろ。今更何だよ」

 老人はゆっくりと首を振った。子どもを諌めるような仕草に、怒りがどす黒く膨れ上がる。


「ふざけんなよ」

 離れなさないなら、突き飛ばせばいい。

 片手で肩を掴まれた老人は動かない。

 避けも、目を瞑ることすらせず、俺の手を握ったまま真っ直ぐに俺を見ていた。

 心臓を直接目指すような眼。


 思わず目をそらすと、老人の買ったばかりの靴が片方脱げ、靴下が夜露で濡れていた。

 肩越しに登ってきた坂を見ると、黒い靴が静かに横たわっている。


「靴が脱げたなら、そう言えよ……」

 老人はまだ手を離さないが、俺が坂を下り出すと、無言でついてくる。


 濡れ落ち葉の上に屈んで靴を拾うと、ほのかに温かかった。

 片手を掴まれたまま、しゃがみこんで老人を見上げると、子どもの頃に親と手を繋いだときの角度だと思った。こんな夜に出かけた記憶はない。いつも晴れた昼間だったはずだ。


「靴下濡れただろ。靴まで濡れると冷えるから、脱いでから履こう」

 三日だけの介護の経験で学んだことだ。

「車に戻るか」

 老人は従順に頷いた。


 俺たちが戻ると、生温い風とルームランプの光が車内を満たす。

 いつの間にか闇よりも光の方を夜だと感じるようになりかけていた自分に気づいた。


「靴を……」

 そう言って見た先にあるのはフランネル地の寝巻きのズボンではなく、アイロンを当てたグレーのスーツの交差する長い二本の脚だった。


 手品の種を明かした後の奇術師のように手を組んで、男は俺を見下ろしていた。


 俺は行き場をなくした黒い靴を運転席と助手席の間に置く。静かな車内にエンジンの音だけが規則的に響いた。

 いつも口火を切るのは俺だ。ひとと話すのは嫌いなのに、この沈黙にだけ耐えられない。


「ごめんな……」

 男は目を細めて微笑んだ。涙の膜の張った瞳が揺れて、水銀のような目だといつも思う。

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