第9話 オオカミ?

屋敷を飛び出したウィルは昨日ハルスに出会った場所へと来ていた。ハルスの言っていたある事件の関係者は十中八九エーアガイツだという確信がウィルにはあった。でなければ他に誰がいるというのか。


「誰かーっ、いませんかーっ?」


もしもエーアガイツが何らかの事件に関わっているのなら、それを暴いて侯爵家に伝えてやればいい。そうすれば婚約の話は間違いなく白紙に戻るはずだ。その為には事件の調査をしているというハルスに協力を仰ぐのが一番手っ取り早い。


ウィルは藪の中をコルト山の方向に進みながらハルスの姿を探し回る。しかしどれだけ探しても影も形も見当たらず、日はすでに山の影に隠れ始めていた。


「ハァ、ハァ……クソッ。いったいどこにいるんだよっ」


流れる汗を乱暴に拭ってもう一度辺りを見回す。温い風が草藪を揺らす以外は変わり映えしない荒れ地。日が沈み切る前には帰らなければとウィルが踵を返した時、背後からガサガサと草をかき分ける音と唸り声が上がった。


反射的に飛びずさるとさっきまで自身が立っていた場所が抉れ、その上に体長三メートルほどある巨大な狼が立っていた。


「おおか、いや、フェンリルッ!?」


それはただの狼などではなかった。所謂魔物と言われる部類の厄災。時に人を襲い、果てには国一つを滅ぼしたこともある人外のもの達。それが魔物だった。

ウィルはこれまで本でしか見たことのなかった大型の魔物の存在に驚愕した。


魔物には様々な種類がある。今までウィルが見たことのある魔物は足が三本あるカラスや死んだ動物などを食い漁る小鬼ぐらいだ。しかしこれはどうだろうか。一目で格が違うと感じたウィルは戦うという選択肢を捨てて逃げの一手を選ぶ。


(大丈夫、大丈夫。昨日の奴に比べたらこれぐらい)


ふぅーっと息を吐いて気を落ち着かせ、足に力を入れ直したウィルはフェンリルを睨み付けた。


『ヴヴウウゥ』


地鳴りのような音を喉の奥から発し、捲れ上がった唇から除く黄ばんだ歯の間からはだらだらと唾液が溢れ出している。フェンリルにとって、目の前の小娘はただの餌であった。久しぶりに目を覚まし腹を空かせたフェンリルはここまで手当たり次第、目に着くもの全てを胃袋に収めて駆けて来た。しかし見つかるのは腹に溜まらない小物ばかり。ここに来てようやく食いでのありそうな人間の登場に、フェンリルは雄叫びを上げる。


『オオオオオオオオ――ッ』

「っるさったぁっ!?」


間一髪、右へ跳ね跳んだウィルはすぐに態勢を立て直し次の攻撃を避ける。フェンリルの攻撃は単調で、その速さにさえ対応できれば避けることはそう難しいことではない。


(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬうぅッ!!)


そうは言ってもフェンリルの素早さは常人には到底とらえ切れるものではなく、ウィルもエルフとしての身体能力とズアールトの特訓を受けていなければ当に頭からバックリといかれていたことは明らかだ。


なかなか逃げる隙を見つけ出せず十数回目の攻撃をウィルが避けた時、フェンリルはようやくこの餌がただの捕食対象でないことに気がついた。そこでフェンリルが感じたのは大人しく食べられないウィルに対する苛立ちなどではなく、歓喜だ。

かつて自身を十二に切り裂いたあの龍と同じ強者の気配。それをフェンリルは確かに感じ取っていた。


――しかしそれはまだ小さく、吹けば飛ぶようなものでしかない。

フェンリルは唸り声を押さえ、ウィルに背を向けてその場を離れた。幸か不幸か、将来性に目をかけられたウィルは一命を取り留める。しかし果たしてそれが良いことだったのかどうかは現状ではまだ分からない。ともすれば、ここで食われていた方が良かったのかもしれないと後々ウィルは思うことになるのかもしれないが、それはまだ先の話。


「たぁすかったぁ~」


すっかり体力を使いきったウィルはへろへろと力なくしゃがみ込んだ。この辺りでは見かけないであろう大型の魔物がなぜ出現したのか、そして突然攻撃をやめて去った理由は?あれもこれも分からないことだらけだったが、今はとりあえず生きている幸せを噛みしめる。


そこへ再び藪がガサガサと揺れ、ウィルは飛び上がってそちらを凝視した。

しかしそこから出てきたのは先ほどのフェンリルではなく、目を見張るほどの美貌の持ち主だった。


「あ~、よかったぁ。生きてた生きてた。ハルスー、この子無事だよ~」


その美人は背景が心なしか輝いているように見えるぐらい人間離れした容貌をしていたが、なぜか右手には血まみれの棍棒を握っていた。思わず後ずさったウィルにあっという間に距離を詰めた美人は慣れた手つきでウィルの汗ばんだ手を取る。


「ケガはない?怖かったでしょ?もう大丈夫だからね。オレはイヴェイル・ロット。お嬢さんのお名前は?」

「ぇ、あ、はぁ?」

「怖がらないで。オレがいればもう安心だよ。ところで年はいくつ?とても綺麗な緑の瞳だね。食べてしまいたいぐらいだよ」


ぞぞぞっと背中を走った悪寒はきっと気のせいではない。ウィルは握られていた手を振りほどくとさささと後退してその美人と距離を取った。顔には露骨に嫌悪感が浮かんでおり、そんな態度を取られたのにイヴェイルはニコニコと笑ってウィルに目線を合わせるように腰を下ろした。


「ごめんごめん、驚かせたかな。瞳を食べたいっていうのは比喩だよ」

「そこじゃないわっ!それぐらい分かるわ普通にっ!」

「え、じゃあオレが美しすぎて頼りなさそうで不安」

「違うっ!」

「え~?何~?他に何かあった?」

「何かしかないだろがっ!!」


フェンリルの攻撃を避け続け体力がゼロに近かったウィルは大声の出し過ぎでついに力尽きた。へたり込むウィルに面白いものでも見るような視線を向けていたイヴェイルは、ようやく現れた件の人物に話しかける。


「彼女がウィリディス・ゲールでしょ。君の言う通り元気で真っ直ぐな良い子だね。それに可愛い」

「最後のはいるのか?」

「当然。まぁオレにとって女の子は全員可愛いものだけどね」


それは女なら誰でもいいということになるのでは、と件の人物――ハルスは思ったが面倒なので何も言わないでおく。


「それでどうする?フェンリルはもう遥か彼方、ヴァスティーゼに行ってしまったみたいだよ」

「ならば後はヴァスティーゼの兵団に委ねるしかないだろう。情報だけは流しておけ」

「了解。で、彼女のことは?」


ハルスは座り込むウィルの様子を伺う。体に傷はないが服にはところどころ血が付いており、何よりその表情は昨夜とは全く違っていた。


(アミークス・フィゲロアに何かあったのか……)


ウィリディス・ゲールとアミークス・フィゲロア。調査をする中で上がって来た二つの名前。幼なじみで友人同士だという二人の関係が三年程前から変わってしまったことは村人の井戸端会議の格好の話題となっていた。話ではアミークス・フィゲロアに遊ばれていたという事だったが、この様子からそれは嘘だろうと確信する。

そしてそれは同時に、ハルス達にとって重要な協力者と成りうる可能性があることを示唆していた。


「まずは無事でよかった、ウィル」

「あ、え、あ、はい。どうも」

「ところで君はオレ達に用があってこんな所まで来たんだろう」

「ッ」


何もかも見透かしたかのように話を切りだすハルス。ウィルはグッとその目を見返して無理やり足に力を入れ立ち上がった。


「あなた達が追っている事件の関係者について、おそらく私は知っています」

「ほぅ」

「情報を上げます。だから私にも協力してください」

「それは情報の内容次第だが……何に協力してほしいんだ?」


ハルスの問いにウィルは拳を握って吐くように言った。


「アミークス・フィゲロアの婚約を破棄させたいっ」

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