それぞれ仕事があり学校があり、特に用もない。ゆえに互いに連絡をとることはなく、そのままいつもの日常、時間が流れてゆく。

 そうしているうちに、平田も鈴音とのことは忘れていた。

 正確には完全に忘れていたわけではないが、鈴音は「望みがないわけではない」等と言っていた割に、あの夜以来何を仕掛けてくるでもなかった。最初の一週間程は警戒しながら過ごしていたものの、時間が経つにつれてその緊張も緩み、いつの間にか一ヶ月近くが経過している。


 このまま、自然消滅してくれれば。



 と願ったところで、相手はあの武菱鈴音である。そうは問屋がおろすはずがない。



 嵐は再びやってきた。



「こんにちは、武菱です」

 十三時五十分。インターホンのモニターには、かの娘が映っている。また謠子の仕業か。しかし今日はオフではない。もうすぐキャプターの定例会議がある為、謠子は自分の部屋で提出する資料の準備をしているはずだ。

 すると呼び出し音を聞きつけたか、謠子が小走りで居間までやってきた。

「平田くん、通して」

「な、何、お前また鈴音ちゃん呼んだの」

「いいから早く。あとコーヒーお願い」

 手には書類が入ったクリアファイル。仕事の関係で呼びつけたのだろうか。

「ん、あ、はいっ。……あ、どーぞォ」

 平田は開門ボタンを押すと急ぎコーヒーを出す準備を整え、玄関に向かう。仕事だというのなら話は別だ。

 玄関のドアを開けた瞬間、平田は驚き目を見張った。


 セミロングの髪がすっきりとまとめられ、その身にまとうはダークグレーのスーツ、そして手には黒いビジネスバッグ。メイクも多少変えているのか、普段のふんわりと優しげな雰囲気とはまたひと味違う。クールさと快活さをあわせ持った印象だ。


「あれ、それ」

「はい。就活です」

 そういえば大学四年生だった。にしては、少し遅い気もするが。

「えっ、嘘、決まってなかったの?」

「ありがたいお話は早いうちからいっぱいあったんですけど」

 だろうな、と納得する。ただのお嬢様ならいざ知らず、鈴音は優秀という言葉をそのまま人間にしたかのような、タケビシECの社長令嬢である。引く手あまだろうことは容易に想像がつく――しかしこの言い方。もしやその青田買いの申し出を全部ばしてきたのだろうか。

「えぇ~もったいねえ~」

「お飾り社員なんて願い下げです」

「はは、つえぇ」

 彼女の性格を考えれば、さもありなんと思った。アクティブで向上心の塊のような娘だ。

 鈴音を居間まで通し、コーヒーを淹れる為に台所に行くと、向き合ってソファーに座る謠子と鈴音は早速楽しそうにお喋りを始めた。つい聞き耳を立てる。

「悪いね急に、早い方がいいと思ってさ」

「そんな、私の方こそ無理言っちゃって。今日お仕事なんでしょう?」

「たいした作業はない、もう終わったから大丈夫だよ。……にしても、その格好。普段着でよかったのに」

「だって代表自らの面接なんだもの、第一印象が大事! はいこれ、よろしくお願いします」

「こんなのわざわざ書いたの? 必要ないよ、もう決まってるようなものなんだからそんなにかしこまることない」

「ダーメ。こういうのは一応ちゃんとしないと。保管しておいて下さい」

「個人情報の取り扱いって気を遣うんだけどなぁ」


 聞いているうちに、何かがおかしいと感じた。


「普段着でよかったのに」?

「代表自らの面接」?


 ここに立ち寄る前にしてきた、もしくはこれからしに行くというには妙な言い方だ。


 平田はトレーにコーヒーと菓子盆を乗せて居間へ移動する。

「楽しそうだな、一体何の話をしていらっしゃるんだお嬢様方」

 疑問を呈したその瞬間、テーブルの上に広げられているものに目が行く。思わず丁寧な所作でコーヒーを出そうとした手を止めた。


 履歴書。

 貼り付けられている写真は、すぐそこに座っているスーツ姿の武菱鈴音その人のもの。


 謠子の前にコーヒーを置き、その姿勢のまま、平田は小さな主人を見据えた。

「謠子お嬢様よォ、こいつァ何だい?」

「面接だよ」

「誰の」

「鈴音さんの」

「何の、面接?」

「うちで、正式に社員にする面接」


 すっと立ち、鈴音の方にもコーヒーを出し、テーブルの上、履歴書が置かれたその横に焼き菓子の乗った菓子盆を設置してから、


「どういうことだ説明しろ謠子ォ‼」


 平田篤久は、浄円寺篤久の姿に戻った。

 しかし姪はひるむことはない。

「どういうことって。そういうことだよ。前に言ったじゃないか、雇いたいって」

「簡単に雇用しようとすんな代表取締役! 俺に何の相談もなしに決めンじゃねえよ!」

「相談したら絶対反対するでしょ」

「当ッたりェだろディプライヴドの女の子なんて雇えるか!」

「えっ、何? 差別?」

「ちがっ……そういうことじゃなくてっ」

 二人のやりとりを微笑みながら見ていた鈴音が、口を開いた。

「多少の危険なんて、結局どの職についても同じことですよ。貴方が思う危険のない会社に勤めたって、事故に遭うかもしれないし、無差別殺人に巻き込まれるかもしれない。だったら私は、好きな人がいる場所を希望します」

「あのなァ、うちで鈴音ちゃんがやれるような仕事なんて、」

「電話と来客、アポ先への対応」

 コーヒーを一口飲んだ謠子が言った。

「あとは、そうだな……平田くん、きみ自身のスケジュール管理と、仕事の補助。いっぱいあるよ、ディプライヴドの女性でもできる仕事は」

「俺の仕事じゃん!」

「そう、普段きみがしている仕事だ」

 コーヒーのカップとソーサーを置くと、傍らのクリアファイルから書類を出して並べた。

「これ、僕が戻ってきてからの浄円寺データバンクの業績。お爺様とお婆様が主に仕事して、きみがそのサポートをしていた頃に比べれば、明らかに仕事量も売上も落ちている。……まぁ、以前よりも事業縮小しているから多少は仕方がないとしても、人手不足である事実は変わらない。調査員のバイトももっとほしいところだけど、時間に融通が利く信用できる人間なんてそうそういないしね。だからきみにはそういう庶務から退しりぞいてもらう」

「人手不足って……川羽田くんと秀平いるじゃねえかよ」

「川羽田くんは本業が他にあるから無理させられないし、秀平くんはランナーだ、ずっと一所ひとところにいたら捕まってしまう。せっかくゆくゆくは僕の下についてもらおうとじっくり育てているのに、今彼を捕獲されるわけにはいかないだろう? ……それにね、」

 じっとり、緑の目が平田を睨む。

「そんな格好してるから圧がすごいんだよ伯父様! いくら私の為って言ったって、常にそうじゃなくてもいいでしょ⁉ ただでさえ口悪いし人相だってアレなんだから客相手に凄むのやめてよね!」

「なんっ」

 地味にショックを受けた。口が悪い、そこは自分でも欠点であると認めざるを得ない。しかし何しろ業務上よくない大人と接することもままある謠子はまだ十二歳。そんな謠子がなめられないよう、自分のような男が彼女の下についているのだと見せかける為、できる限り頑張ってきたつもりなのだが――

「さっき鈴音さんも言ったじゃないか、第一印象が大事って。しょぱなから黒ずくめの地獄の番犬みたいな男に対応されたら誰だって萎縮するに決まってるでしょ」

「だ、だってっ……つか、別に俺そんな睨み利かせてるわけじゃ……ちゃんとその、それらしい穏やかな対応も」

「聞いてた? 今の話」

 謠子は容赦なく畳み掛けてくる。

「客側の立場で考えてって言ってるの。混んでる時間帯のスーパーで同じくらいの行列があるとする『屈強そうな男性の店長が立ってるレジ』と『パートタイマーの女性が立ってるレジ』、心理的にどちらが並びやすい?」

「お……おばちゃんの方……」

「でしょ? だから鈴音さんが欲しいんだよ。そういう役目、うちで前は誰がやってた?」

「…………奥様」

「でしょ? わかる? そういうことなの!」

「でも……」

 ちら、と鈴音の方を見る。

「鈴音ちゃんみたいな優秀な子に、そんな雑用みたいな仕事……」

 すると目が合った鈴音は笑った。

「この前言ったじゃないですか。私は貴方に近付く為に、謠子ちゃんを支える貴方を支える為に、今まで頑張ってきたんです。別に雑用だっていいんです、ここでお役に立てれば。それに、近くにいれば貴方を落とせる確率も上がるかもしれないでしょう?」

「不純な動機だな。不採用」

「僕が雇うって言ってるんだよ平田くん」

 謠子のクールな援護射撃に、平田は狼狽うろたえる。

「な、えぇ、謠子様ァ」

「文句あるの?」

 反論を許さないその一言に、首を横に振るしかなかった。

「……ない、です」

「だよね」

 謠子はにこりと微笑む。愛らしい、しかし憎らしい。この娘は自分が逆らえないことをよく理解してやっている。このクソガキ、と平田は内心毒突いた。

「じゃあ決まりだね。鈴音さん、今日はうちで夕飯食べていきなよ。就職祝いだ。ねえ平田くん、お肉食べたい」

「お前容赦ねえな⁉」




 この日も武菱鈴音は夕食の準備を手伝いを申し出た。やはり正直なところ助かるので平田も拒否はしなかった。

 台所で二人並び、平田はシンクでジャガイモを洗い、鈴音はワークトップで人参の皮を剥く。

「ちょっとやり方が強引なんじゃねえの」

 平田が言うと、鈴音は手を止めずに返す。

「貴方に正攻法は通用しませんからね」

「正攻法て。俺今まで鈴音ちゃんにアタックされた覚えないんだけどー?」

「昔から『お嫁さんにして』って何度も言ってます」

「言ってたの幼稚園とか小学校低学年とかそのくらいじゃん、それカウントされんの?」

「私はいつでも本気でしたよ。でも子どもの言うことなんて相手にされない。だからこの歳まで待ったんじゃないですか」

 包丁と人参をまな板の上に置き、平田にぴったりくっ付いた。思わず手を止める。

「もう大人になったんですよ、私」


 シンクに流れる水の音の方が大きい、それなのに。

 ささやく声は、妙にはっきりと聞こえた。


「……謠子ちゃんのことが気に掛かるのなら、後見人、終わるまで待ちます」

「あと八年もある」

「これまで十七年待ってたんだから、もう八年ぐらい何てことありません」

「鈴音ちゃん三十になっちゃうよ」

「篤久さんも四十過ぎますね」

「そうだよ四十二の厄年だよ、やめた方がいいよ」

「嫌です」

 鈴音の腕が、平田の腰に回り、ぎゅっと抱き締める。


「八年の間に、絶対こっち向いてもらいます。そしたら、観念してもらえますか?」


 鈴音は、きっと、真っ赤になっている。手が震えているのがわかる。本人にしてみれば、大胆この上ない行動だ。


 これも計算ずく?

 否。

 先日二人きりになったときの反応を思えば、これは“素”なのだろう。



 十七年間ずっと想い続けた相手に対する、精一杯のアプローチ。



 少し迷って動こうとしたその瞬間、インターホンの呼び出し音が鳴った。平田と鈴音は揃ってびくりとする。

「あっお客様、出てきます、ね」

「あっはいお願いします」

 芋洗いを再開しながら、平田はこっそり安堵の溜め息を漏らす。

(はー、あーっぶねえ今ちょっっっっとやばかったぞいくら何でもあれは反則だろ‼)

 水の冷たさに、徐々に正気を取り戻す。大丈夫、大丈夫。絶対落ちない。

 と、インターホンのカメラ映像を確認した鈴音が、

「何で! 何でこんなときに来るんですか帰って下さい!」

 不審者に対して吠える小型犬のようにわめいた。気になって一緒にモニターを覗いてみると、よく見る親しい後輩の姿。

「えっいいよ通してよ」

 開門ボタンを押して元の作業に戻ろうとすると、鈴音が抗議した。

「篤久さん何であの人に優しいんですか‼」

「別に優しくねえよあいつが勝手に懐いてるだけだよ。……てェか、逆に鈴音ちゃん何であいつ嫌ってんの」

「だってっ……」

「『だって』?」

 ずい、と迫ると鈴音の顔が赤く染まった。う、とか、あ、とか言葉にならない声を出しながら固まる姿を見て、やっぱり面白いなと平田は思う。先程のこともある、もう少しいじめてやろうか。更に距離を詰めて壁際に追い詰める。

「ねぇ、何で?」

「そ、れ、は、えっと、その」

「教えてほしいなぁ~?」

「あ、ぅあ、」

 そこへ戸谷秀平が廊下からひょこりと顔を出す。

「誰よその女、私というものがありながら」

 いつも通りの低いトーンの声に、余程のことがない限りあまり崩れない冷めたように見える表情。彼は冗談を真顔で言う。

「うわ、リアル壁ドン初めて見た」

「俺も今初めてやった」

 離れるが、鈴音はすっかり固まっている。秀平が廊下から顔だけで覗き込む姿勢のまま、腕をにゅうと伸ばして鈴音の肩を叩く。

「おーい」

「……は、師範代っ…………何で来ちゃったんですか今すごく、そのっ」

 覚醒した鈴音は未だ少し夢心地であるようだ――ただ、ふわふわと幸せそうな中ではなく、緊張の頂点にいたようだが。

「いや、いいとこだったかもしんないですけど、今あんた意識飛びかけてたじゃねーですか、生きてて下さいよ俺死体第一発見者とか御免ですよ。……口説くなんて気ぃ変わったんですか先輩」

「口説いてねえよ全然口説いてねえよ、鈴音ちゃんがお前のこと嫌がってるから何でって訊いてたんだよ」

「あぁ」

 秀平はようやく台所に入ってくると、小さな紙袋を平田に差し出しながら、何てことはなさそうに言った。

「俺が先輩といつもイチャイチャしてるから羨ましいんですよこの人。はいお土産、ヴェヌスのショコラギモーヴ今年のやつ始まってましたよ」

 邪魔者のちんにゅうにより無事クールダウンに成功した鈴音が、今度は一気にヒートアップした。

「何で! 何でそういうこと言うんですか何でそんなタイミングよく期間限定の超人気スイーツ買えるんですか‼」

「俺超運がいいんで。つーかほんとめんどくせー女ですねあんた。早く貰ってやったらどうです先輩、この人いちいち俺に八つ当たりしてきてうるせーの何のって被害甚大なんですよ」


 幼い頃からずっと好きだったと言っていた。

 友人にく程の、大事なものを共に守ると断言する程の気持ちを抱えて。


(まぁ、ちょっとだけ、考えるのもアリ……か?)


 猶予は八年間。

 これからどのように環境が、心境が、変わっていくのかはわからないが。


(……いやいや待て待て何で前向きに考えちゃってるんだ俺)


 その間に落ちなければいいだけの話。


「やだよ俺結婚しねえもん」


 少なくとも今のところは――という言葉は奥底にしまっておくとして。


「つれない人ですね」

「つれてたまるか一昨日きやがれ小娘が」



 とりあえず、今はまだ、そのときではない。




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