平田篤久の意義 J-record.3

半井幸矢

本編




 世の中ままならないものだ。彼は常々思っている。




「…………んん」

 自室のデスクでノートパソコンに向かい仕事をしていると、メールを受信した。差出人の名前を確認して、顔をしかめる。

「うげぇ」

 それをそのまま削除する程、彼は身勝手にはできていなかった。仕方なく開封する。



 こんにちは、お久しぶりです。

 やっぱり忙しいのかな?

 前回の診察から一年経っちゃうから、そろそろ来てね。


          伝羽 寛武



「何で仕事用のアドレスに送ってくんの先生……メッセ友人登録してあるじゃんよ……」

 実をいうと、来るようにという要請は月に二回はスマートフォンのメッセージアプリで送られてきてはいた。その都度「今ちょっと忙しくて」「近いうち行きます」などと返してはいたが、なかなか時間が取れなかったり、時間はあったかもしれないがちょっと忘れてしまっていたり。恐らくしびれを切らせたのだろう。

「行かなきゃダメかな……ダメだよなぁ……」

 長年世話になっている人物からの呼び出しを無視できる程、彼は冷酷にはできていなかった。嫌々ながらも、クローゼットにしまってあるスーツのジャケットの内ポケットから小さな手帳を出してきて、スケジュールを確認する。

「んー…………明日……?」

 丁度よさそうな日が明日しか空いていない。月が変わる前ならまだ予定を組みやすいが、現在はまだ月の半ば、後半はもう行けそうな日がない。だがこれ以上引き延ばせば屋敷まで押しかけてくるかもしれない。完全に独り身であるのなら、まだ何とかなったのだが。

 デスクの上に置いてあったスマートフォンを手に取る。メッセージアプリを起動して、そのまま液晶画面を見つめて悩む。

「ヨリちゃん……と、秀平……えぇー、どうしよ……秀平はともかくヨリちゃ…………絶っ対怒られる……!」

 どんな返信が返ってくるかは大体想像できていた。が、やむを得ないのだ。どんな罵詈雑言ばりぞうごんを受けようとも、頼み込むしか道がない。

 直接顔を合わせるわけではないとはいえ、怖いものは怖い。緊張するその指で、画面をタップしていく。メッセージを作成し終えて、ひとつ深呼吸をしてから、思い切って送信。

 と、思いのほか早く返信がきた。


 [よかったね、私が明日休みで!]


「おお世利子よりこ、俺の女神よ!」

 急な頼みに怒られるかと思っていたが、すんなり承諾してくれて安堵する。


 ところが、返信はまだ続いた。


 [秀平に連絡した?]

 [早く捕まえなよ あいつこないだ温泉行きたいとか言ってたから]

 [明日までに来られないとこいたらアウトじゃん]


「ああぁ! 自由の申し子!」

 慌てて次なる依頼者にメッセージを送る。こちらもすぐに反応した。


 [夕飯すき焼きでお願いします]

 [ビール買っといて下さい]


「オーッケィ任せろいい肉食わせてやんよ‼」

 誰も見ていない部屋で一人ガッツポーズをキメた――と、

「お肉?」

 ぽそりと、しかし期待に満ちた一言。いつの間にか開いたドアの隙間から、少女がこちらをのぞき見ている。ちゃんとノックもしたのだろうが、夢中で全く気付かなかった。

 スッ、と冷静さを取り戻し、スマートフォンをデスクの上に置く。

「今日はお魚ですお嬢様」

「今お肉って言った」

「明日な」

「やだお肉がいいお肉食べたい脳がお肉を欲してるトリプトファンを摂取したいお肉お肉お肉お肉!」

「だから明日だっつってんだろが今日は鰤の照り焼き絶対鰤の照り焼き魚魚魚絶対魚必要だろドコサヘキサエン酸!」

「平田くんのバカ! 嫌い!」

「魚は譲らねえが俺のことは嫌いにならないで下さい!」



 浄円寺じょうえんじ篤久あつひさ、三十四歳。


 これは故あって偽名を名乗り、故あって姪と暮らし、故あって姪を主人とする、ワケアリだらけの彼の半生の物語である。




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