夜の外出
「じゃあ今日はここまでね」
太陽が淡くオレンジ色の光を放つくらいの夕暮れになったとき、トリアドールはそう言って本をぱたんと閉じた。
「うん」
「また明日も来るわね」
「……うん」
これ以上の言葉が今日は何故だか出てこない。
気がつけば、僕の視線はずっと地面に向けられていて、トリアドールを見ていなかった。
「イフリート、今日はなんだか元気がなくなっていったわね。来たときはあんなに元気だったのに」
不思議そうに、でも心配するような声で僕の顔を覗き込んだ。
「悩みがあるなら、私聞くわよ?」
「……大丈夫」
「そう……」
重い沈黙があたりを包み、茂みの方から虫の鳴く声が響く。
「…………」
「…………」
「ねえ!」
なんの前触れもなく、トリアドールは声を上げた。僕はつい、ぱっ、と視線を少女に向けてしまった。
「今日は本、置いていってあげるわ」
「えっ?」
あまりの提案に思考が一瞬停止した。ハンカチをくれると言われたときだって、僕は必死に断った。男物とか女物とか、そういうのには疎いから柄や色はどうでもよかったが、僕が持つべきものじゃない。というかそれ以前に平民が持っている布とは質が違いすぎる。
本なんてもっての他だ。平民は普通見れないし、売ったら一生遊んで暮らせるほどに高価。僕が存在を知っているだけでも既に普通じゃない。
その本を置いていく。つまり貸してくれるのだ。トリアドールの心情が知れないが、父さんに見つかったらと思うと、もはや想像したくない未来しか思い浮かばない。
「な、なんで?」
「イフリートが元気なさそうだからよ。初めて会ったときを思い出すくらい暗いわ。イフリートは字は読めないけれど、絵を見るのは好きでしょう?」
確かに夜、月明かりを頼りに本を眺めるのは楽しいかもしれない……って僕は何を考えているんだ。
夜は家から出たらだめだ。悪魔に連れ去られてしまう。母さんとの約束を忘れかけるところだった。
僕は心の中に不自然なほどふいに出てきた思いつきを必死に叩きのめして言った。
「でも本を汚してしまうかも知れないし」
「イフリートが元気になるなら構わないわ」
「誰かに盗られてしまうかもしれないし」
「こんなところに本があると、一体誰が思うのかしら」
「……足が生えて逃げていくかも」
「あなたは何を言っているの?」
でもそれを見るのも面白そうね、とトリアドールが暗く笑ってみせたところで、僕は負けを認めざるを得なくなった。本当にトリアドールには敵わない。
「それじゃあ、遅くならないうちに帰るわね」
すっ、と小指を差し出されて、僕も小指を出して指切りをした。
明日も会おうという、約束のおまじない。
「それじゃあまたね、イフリート」
「またね、トリアドール」
立ち上がり、小走りに町の中央へ向かっていく。行きとは違い、手ぶらのシルエットが足音と共に離れていった。
姿が見えなくなってから、手の中に残るものに視線を向けた。本の重みが自分の心の中の、預かってしまったという罪悪感と、借りられたという嬉しさを表しているようだった。
しばらくしてから僕は立ち上がった。
本を少しでも汚さないようにとハンカチで包み、大きい葉を下敷きにして茂みに置き、見つかりにくいようにしてから僕の家に向かった。あたりは夕焼けのオレンジを藍に変え、だいぶ薄暗くなっていた。
いつものように家に潜り込み、目を瞑る。
——なん……あ……は……るで………ト………ない……
しばらく目を瞑っていると、ふいにそんな言葉が蘇ってきた。
最近、こうしていると急に出てくる。途切れとぎれでうまく思い出せないのだが、なんだか気にかかるようなことを言われているような気もする。だが思い出せないものは仕方がないと、割り切って寝ようと試みる。
またしばらくして、だいぶうとうとしてきた頃、父さんがバタン!! とドアの大きな音を立てて帰ってくる音が聞こえ、驚いて目が覚めた。ああ、今日も酔っているな、とどうしようもないことを考えたとき、ふいにまた、不自然なほど本を見たいと思った。
なぜ急に本が見たいだなんて思ったのかは分からない。しかし、その思いはどんどん大きくなっていく。
本を見たい。本を開きたい。
……あの本を読みたい。
不自然なほどに、そう思った。
——夜にお外に出たらだめよ。母さんとの約束ね。
悪魔に連れ去られてしまうから。
「悪魔なんているわけないのに」
そう口にしてしまい、はっ、と口を押さえた。
だめだ、夜に出歩いたらだめ。母さんとの約束を破ってしまうことになる。
——じゃあ、指切りしましょ!
トリアドールの教えてくれた指切り。
約束のおまじない。
「母さんとは……してない……」
トリアドールとは毎日やってるのに。
約束のおまじない。
おまじないをしていない約束は、守らなくってもいいや。
また不自然なほどに出てきた言葉。
それが本当に自分の言葉かどうかはもう、どうでもよかった。
気づけば僕は家の前に立っていて、いやに大きく、そして眩しいほどに明るい満月を見上げていた。
そして、本を隠した場所へと向かって静かに歩き始めた。
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