ネガイゴト
がさり、と茂みに躊躇なく両の手を突っ込んで、ハンカチで巻いた本を取り出す。
それを両手で抱え、いつもトリアドールといる場所まで行き、そこに座った。
トリアドールがいつもしてみせるようにバラリ、と開く。月明かりがまるで灯台のように明るくて、暗闇に目が慣れていたから本を眺めるのにはさほど問題はなかった。
リリス。
サマエル。
ウヴァル。
ガープ。
グラシャ=ラボラス。
ベルフェゴール。
プルフラス。
今日教えてもらった言葉を、絵を見ながら思い出していく。
アムドゥスキアス。
ロノウェ。
ジズ。
ヴィネ。
ベリアル。
……そして、フェニックス。
次々とページをめくっていくと、トリアドールが分からないと言っていたページに行き着いた。
いかつい顔にたくましい体、赤い髪の生えた頭からは長く大きい黒い角が二本生えている。
この悪魔はなんて名前なんだろう。
「あれ……?」
——性格は短気で凶暴。だが知能は低い。
「字が、読める……?」
——人間にはない能力を持ち、様々な魔術を操る。
「なんで……?」
——特に炎を自在に操ることができ、炎の魔神や炎の魔獣などとも呼ばれる。
「っ、他のところは……!?」
突然文字をすらすらと読めるようになったことに違和を感じ、ページをめくった。だが、読めるのはトリアドールが分からないと言ったその項目だけ。
「でも、なんで、こんな名前……」
その、悪魔の名前は。
「イフリート……」
『私の名を呼んだか?みずぼらしい少年よ』
ばっ、と驚いて顔を上げ、僕は目を見開いた。
僕の目の前に、本の絵によく似た人外が立っていた。
僕は思わず左頬の痣に手を添えた。
黒い三日月、黒い炎。その中には逆五芒星。
よく考えてみれば、僕とこの悪魔はどこか似ている。
あざの炎。一部だけだが赤い髪色。右目の赤い瞳。
だから、トリアドールは僕にこの悪魔の名をくれたのか。名前の由来を知られたくなくて、このページは分からないと言ったのか。
読めないのではなく。
人外——イフリートの名をもつ悪魔は、にい、と嗤った。
『お前は面白い姿で生まれた。そして面白い名を与えられた』
——なんだあれは?まるで『イフリートの従者』じゃないか。
ああ、そうだ。思い出した。
僕が母さんに連れられて、初めて町の中央に行ったとき、通りすがった貴族が呟いた言葉。
悪魔の名前が使われた二つ名。
僕はその名前を、ずっと前から知っていた。
『たまには策を講じ、操るのもいいものだ』
「なんで……僕の名前を知って……」
『さてな。そんなことはどうでもいい。そんなことより、私は今、とても気分が良い』
僕を見下ろしたまま、悪魔は笑みを深くした。
『お前の願いをひとつ叶えてやろう』
「え……」
『なんでもいい。巨額の富か、裕福な暮らしか?それとも』
悪魔はしゃがみこんで僕と目線を合わせた。
『お前の名を与えた少女と身分の壁を打ち砕くことか』
はっ、と息を呑んだ。
どうしてトリアドールの事まで知っているんだ。
僕が動揺したことを見抜いた悪魔はさらに囁く。
『消えた母と会うことも、父を消すこともできる。さあ、お前は何を望む?』
「……本当に、なんでも?」
『ああ。さあ、言ってみろ』
乗せられて、思考を巡らせた。
願いなんて何年も前からいくつも降り積もっている。
いつでもお腹いっぱい食べたい。
季節にあった服を着たい。
冬に暖炉にあたりたい。
堂々と道を歩いて買い物をしてみたい。
駆けずり回って遊びたい。
大きな声で笑ってみたい。
また母さんと話したい。
優しい父さんに会いたい。
父さんと母さんと、仲良く一緒にいたい。
それでも。今叶えたい願いはそのどれでもない。もっと別の、今、今さっき胸の内に出てきた欲望。
「知らない、遠いところに行きたい。……僕の、大切でいらない
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