第12話


 水面をそのまま映したように色が揺らめき変わる長く美しい髪。長いまつげに深い青の双眸、目鼻立ちはすっきりとしており、唇には青い紅が引かれていた。青と金のドレスに包まれたバランスの良いスタイルの中、子を宿しているのかお腹だけが大きく膨れ上がっている。

 その姿を、私は知っていた。いや、少なくともこの町に住む人間なら誰でも確実に知っていることだろう。何せその姿は、どの教会にも祀られているし、中央広場にも巨大な銅像としてそびえている。

「……海神、アリーエリティア様……」

 頭も意識も通さず、ぽつりと呟きがこぼれた。自分のその声で、私はようやく正気に戻り、その途端に畏怖いふから全身に鳥肌が立つ。実在されているのは、もちろん知っていた。精霊がいるのだから、神様だって存在する。けれど、こんな、眼前に現れるだなんて、そんなこと思いもしなかった。

 強ばっていく私の体を、背後からノーマさんが抱きしめてくれる。私はすがるようにその腕を抱きしめた。情けないけど、本当に誰かに縋りたい。高位すぎる存在を前にすると、こんなに身が竦むなんて知らなかった。

「大丈夫よ、エレンちゃん。とても優しい女神様だから」

 こそりと耳打ちされ、ノーマさんは私を落ち着かせるようにぽんぽんと背後から肩の前面を叩いてくれる。それに少し癒されている内に、アリーエリティア様は自身の顔の前にダイアドラゴンを持ったままの手を近づけた。

わらわのために人間たちが祭りを催してくれておるというのに、随分無粋で命知らずな奴だことだ。おお、おお、まだもがくか。ほんに怖いもの知らずよの】

 手の中で暴れているらしいダイアドラゴンにアリーエリティア様はころころと笑う。やはりかなり余裕だ、と思った、次の瞬間。その眼差しが深海よりも深く、真冬の凍てつく水のように冷たくなる。

【知恵の無いものへ腹を立てるも馬鹿馬鹿しいが、やはり不敬が過ぎると不快よの。このまま永劫えいごう溺れる苦しみでも味おうてみるかえ?】

 言下、ドラゴンの周りに水が現れた。それがドラゴンの顔を包み込むと、途端にドラゴンがもがき始める。

【苦しかろう? だがその水は溺れる苦しみを与えるのみ。溺れ死んで楽になることは叶わぬよ】

 もがくもがくもがく。とても苦しげに、頭が、尻尾が、激しく揺られる。その光景に、私は意を決した。憎たらしい性悪ドラゴンだが、あんなのは見たくない。

「ア、アリーエリティア様!」

 情けないくらい震える声で、私は叫ぶ。エレンちゃん!? と背後のノーマさんが驚いた声を上げた。ごめんノーマさん、せめてあなたに害が及ばないように頑張ります。

 ノーマさんの手を離し、私はこちらに視線を向けたアリーエリティア様と向き合った。全身が震えるけれど、黙っている方が不興を買いそうだと必死に耐える。

「ほ、ほ、ホルトレーアの娘の、エレン、ダ、ダルトリーと申します。こ、この度は、お助け、い、いただ、いただきまして、ありがとうございます。で、ですが、どうか、そ、その、その不敬者のドラゴンをお許し、いた、いただけませんか……? も、もともと、わ、私がそのドラゴンを、怒らせたのが、げ、原因、ですので、アリーエリティア様のお手を、こ、このめでたき日に、よご、汚させるわけには……。あの、た、退治をお望みでしたら、必ず、わ、私が、えと、他の者の、力も、借りてしまうかと、おも、思うのですが、退治いたします、ので、どうか――!」

 自然と胸の前で握った手が自我を保つ最後の砦だ。ガタガタと震え、これこそ不興を買いそうなどもりで何とか許しを請う。その間にもドラゴンは苦し気に暴れていた。

 しばしの沈黙の後、ドラゴンの周りの水が弾ける。途端に、ドラゴンはぐったりと脱力した。ほっとした直後、アリーエリティア様のご尊顔が眼前に迫る。蛇に睨まれた蛙よろしく直立不動になり私はすっかり固まった。

【随分と変わった娘よな。自分を殺そうとした相手の許しを請うか。祭りの日だなどと関係あるまい? 苦しむ姿見たくない、とは、寛容だことだ】

 あれこれ脳内読まれてる――? 嘘ついた扱いになっちゃう? さぁと青くなる私をじっと見てから、アリーエリティア様はまた元の位置に戻り、ドラゴンを眼前に持ってくる。

【だ、そうだ。貴様のような礼儀も知恵もない下等も下等なドラゴン相手に、貴様が殺そうとした人間は愚かしくも寛容を見せてくれたようだ。良い人間だなぁ? なぁ?】

 手の中のドラゴンは、すっかり怯え切ってしまったのか、もう暴れようともしていない。そのドラゴンに、アリーエリティア様はさらに顔を近づけた。

【妾を敬い奉る可愛い人間たっての願いだ。祭りの日ということもある。妾も最後の寛容を見せよう。ドラゴンよ、すぐにこの地を去り、二度と近づくな。この人間にも、町にも、まして我が海の者にも、決して手を出すな。破れば今度こそ永劫の苦しみを与えよう。よいな?】

 巨大な目の中に、怯えるドラゴンの顔が映り込む。ドラゴンは小さく鳴いた。これが了承を表したものだったようで、アリーエリティア様はにぃと唇を伸ばし手を開く。途端に、ドラゴンは一目散に逃げだした。その姿はどんどんと遠ざかり、やがて点になり、空の彼方に消え去る。

 しんと静まり返る一面。危機を脱したはずなのに、私は今度は自分の番ではないかと冷や汗を流していた。女神の行動に文句をつけるなんて、殺されても仕方がないレベルの不敬――。

【殺さぬわえ。そんなことをするくらいなら最初からあの飛びトカゲを解放せぬわ】

「ひえっ! はははいっ、申し訳ございません!」

そういえば思考は読まれているのだった。私は即座に謝罪を口にする。また直立不動となる私の横に、ノーマさんが並んだ。

「ご無沙汰しておりますアリーエリティア様。海底国家キネディア、アルポの娘ノーマでございます。この度はご厚情いただきまして誠に感謝申し上げます」

美しい所作で礼をするノーマさんに見惚れつつ緊張を溶かしている間に、アリーエリティア様は「うむ」と頷き微笑んだ。

【久しいなノーマ。大事ないようで何よりだ。……そなたが国元を出ると挨拶に来た時も驚いたが、よもやつがいに女を選ぶとはな。そなたに懸想しておった男どもは涙に伏せような】

コロコロと笑うアリーエリティア様。やっぱり海でもモテていたんだ。一瞬そわっとしてしまうが、ノーマさんが選んでくれたのは私なんだから、と気を取り直す。

「はい。……自分でも、正直最初は驚きました。ですが」

ノーマさんが不意に手を握りしめてきた。え、と顔を本物の女神様から隣の女神様に向けると、この上ないほどの愛しさといつくしみのこもった眼差しと微笑みが輝く。眩しすぎて一瞬目が潰れたんじゃないかと思った。いや大丈夫、ちゃんと私の両目は隣の愛しい人を捉えられている。

「今は、この人以外考えられません。それくらい、愛しくて仕方ないのです」

「ノーマさん……」

じーんとして泣きそうになっていると、「ホルトレーアの娘」とアリーエリティア様に声をかけられた。また戻ってきた緊張のまま返事をすると、突き付けられた切っ先のような視線が落とされる。

【陸に生きる身でありながら、そなたは何故ノーマを選ぶ? 人魚だからか? 美しいからか? 珍しいからか?】

先のドラゴンに向けていたような冷たさはまるで無い、けれど嘘など許さないと告げる威圧感のある眼差し。女神のそれに捉えられたのだ。怯えて震えだしてもおかしくない状況だろう。でも、私は騒動が起こってから1番落ち着いていた。だって、その言葉なら飾る必要が無い。

私は隣のノーマさんの手を握りしめ、アリーエリティア様の目をまっすぐに見つめ返す。

「私がノーマさんを選んだ理由は、きっとノーマさんが私を選んでくれた理由と同じです」

そう。同じだ。ちゃんと同じだった。あの日始まった恋は、隠さなくちゃいけないと思った恋は、勘違いだと思おうとした恋は、確かに彼女と同じ形になっている。

「愛しているからです。それでは、回答としては不十分でしょうか?」

 真剣にアリーエリティア様の視線に応えた。隣からはノーマさんが涙声で私の名前を呟いている。そちらを見る代わりに、私はノーマさんの手を壊さない程度に力を込めた。同じくらいの力が、その細い手から返される。

 その時だ。突然、ノーマさんから眩い光の球体が溢れ出した。驚いて彼女の名前を叫ぶと、アリーエリティア様が「案ずるな」と声をかけてくれる。

【海の魔女の魔法が解けたのだ。恋が叶わなければ使った者が海の泡になり、成就すれば魔法が光の玉になる。……ふふ、よい。妾の問に対する回答としては十分よ。そなたたちの愛を祝福しよう、海の娘ノーマ、大地の娘エレン】

 言うや否や、アリーエリティア様は両腕を高く空に掲げた。すると、海から柱状に立ち昇った海水が次々に私たちの上で弾け、キラキラと光を反射する。綺麗だ。感嘆の声を上げていると、もう一度笑ったアリーエリティア様は腕を町の方へと伸ばした。

【毎年の祭り、大儀である。海への礼節を忘れぬ限り、そなたらもまた我が子である】

 言うや否や、アリーエリティア様は来た時よりもゆっくりと海へと帰っていく。私とノーマさんは、示し合わせるでもなく女神の帰還を跪いて見送った。

帰還時に起こった波が収まると、空と海はまたいつもの平穏さを取り戻す。

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