第2話


 ノーマさんが連れて行ってくれたのは、私が普段絶対寄り付かないような素敵なバーだった。しっとりとしたピアノの演奏が室内で流れる中、私たちは海に面したバルコニーの席に座っている。他のお客さんたちは距離が離れていて、お互いの会話は聞こえない。だから私は、月明かりとそれを反射してきらきら光る夜の海というロマンチックな光景の中、延々と愚痴を垂れ続けていた。

「ほんっと失礼しちゃうよ。あいつのためにしてた私の努力なんだったのさ」

 ぐいっ、とワイングラスを垂直に傾け薄い黄色のお酒を飲みほす。酒場で出るような物とは違う甘い女性向けのお酒は、すいすいと喉を通っていった。何杯飲んだかは分からなくなっていたが、ノーマさんはしっかり数えてくれていたらしい。おかわりを頼もうとした手を握られ止められる。

『エレンちゃん、飲みすぎ。もう10杯目よ。いくらお酒強くてももうダメ』

 逆の手で握っているペンを軽く揺すればそんな注意。心配するような笑顔を向けられては、反抗する気にもなれず。私は握られた手を握り返すと軽く上下に揺らして「はーい」と渋々返事をした。素直でよろしい、と言わんばかりのお姉さんらしい笑顔が眩しくて、ごとんと机に頭を乗せる。

「……私も、ノーマさんみたいに生まれたかったな……」

 こんな綺麗な女性ひとに生まれたかった。

 こんな優しい女性に生まれたかった。

 こんな真面目な女性に生まれたかった。

 こんな気遣いのできる女性に生まれたかった。

 こんな愛される女性に生まれたかった。

 ……もっと素敵な女性だったら、もっと愛されていられたんだろうか。

 悔しさと寂しさが一気に胸に押し寄せてくる。好きだったのは違いないけれど、今は彼と別れたことより「愛されるに足る女でなかった」という事実だけが私の心を刻んできた。

 涙が浮かんで視界が歪む。その時、不意に握り合ったままの手に込められる力が強くなった。はたと顔を上げると、ぽろりと涙の粒がこぼれる。それを、空いているノーマさんの手が拭ってくれる。あたたかくて、柔らかい手。ドワーフの固い皮膚の特性も持って生まれた私とはまるで違う。さらなる違いにへこんでいると、涙を拭った方の手が机に置いたペンを軽く握って少し振った。

『私はエレンちゃんの方が羨ましいな』

 浮かんだ文字が信じられなくて、「そんな慰め……」とノーマさんに目をやるが、迎えてくれた笑顔と、真っ直ぐな眼差しに思わず息を飲む。

『いつも前向きで、明るくて、ころころ変わる表情の豊かさが羨ましい。自分の足でどこまでも行ける強い心と体が羨ましい。人と向き合う時嘘のない目を向けられることが羨ましい。誰とでもすぐに打ち解けられる、受け入れられる裏表のない性格が羨ましい。困っている人がいると躊躇なく助けに入れる優しさが羨ましい』

 次々にペンからこぼれてくる文字の言葉は、音の言葉よりもはっきりと意識に刻み込まれ、当たり前だけど私は凄く照れてしまった。お酒が一気に回ったみたいに頬が熱い。ぱたぱたと手扇で自分を煽る私にお構いなしに、ノーマさんは言葉を続ける。

『覚えてないみたいだけど、私実は、金のうさぎ亭でおかみさんに紹介される前にエレンちゃんと会ってるんだよ』

「えっ」

 えっ、いつのこと? こんな美人に会ったのに覚えてないとか私正気??

 驚いてその時のことを思い出そうとしていると、ノーマさんはくすりと笑ってまたペンを振った。

この町ホルトレーアに来てすぐぐらいのころかなぁ。私、去年の大豊穣祭を見て、自分の国と同じくらいアリーエリティア様……海の女神様を信仰してるのを知って、「住むならここがいい」と思って家を出てきたのよ。右も左も分からなくて、でもようやく自分の足で自分の選んだ所に来られたことが嬉しくてはしゃいでたの。そんな時にね、ちょっと変な人たちに絡まれちゃって。声は出せないしペンも振れなかったから人を呼べなかったんだけど、エレンちゃんが通りかかってくれて、私の前にいた人まとめて蹴り倒したの。どんな大男が、と思ったら、私より小さくて可愛い女の子なんだもの。あの時はびっくりしちゃった。その上近くにいた自警団の人に「女の人絡まれてんだろ仕事しろ!」って叫んでて。あれ弟さんだったのよね。エレンちゃんが「もう大丈夫だからね」っていなくなってから弟さんから聞いたのよ』

「……あー……その時私もしかして大荷物背負って全身土とかホコリで汚れてた?」

 頭に手を当てて力なく確認すると、ノーマさんはこくこくと頷く。ああ、覚えてる。助けたことも蹴倒したことも覚えていないが、集めるのが難しい素材のために3週間出かけていて、心身ともに疲労がピークでイライラしながら帰ってきたことがあった。その時にそんなことがあった、というのを、私も後から弟に聞いている。確かその絡んでいた連中はあちこちの骨が折れていたんだとか。弟に「やりすぎだ」と怒られた。その時は素直に申し訳ないと思っていたが、ノーマさんに迷惑をかけていた連中ならそれくらいいい報いだろう。今更ながら私は私の行動を正当化する。口に出すとあちこちに怒られるだろうから絶対に言わないが。

『だからね、再会した時すっごくびっくりしちゃった。エレンちゃんは全然覚えてなさそうだったけどね』

 いたずらっぽく微笑まれ、私はふざけた感じで視線を逸らす。

「いやぁ~、あの時相当疲れてて……すみません。じゃあこれはお詫びということで」

 ひょいと差し出したのは、机の上に置かれたままほとんど手がつけられていなかったハートの形に切られたチーズ。ノーマさんは一瞬目をぱちくりさせた。あれ、こういうの駄目だったかな、と手を引きかけると、その瞬間にぱくりと食いつかれる。指先に触れた唇の柔らかさと嬉しそうな笑顔に、同性ながらどきりとしてしまった。

『うふふ、じゃあ美味しいチーズに免じて許してあげる』

 適度に酔っぱらっているのか軽く上気した頬に手を当てる姿は愛らしく美しく、心臓はさらにどきどき騒ぎ出す。

(そうかー、こういう女子らしさが私に足らない点かー)

 またへこみそうになるが、今の私はそれほど下がらない。いくつもの褒め言葉にすっかり心が浮上しているからだ。それに何より、お世辞かもしれないが、さりげなく言われた「可愛い」という単語が大変私の心を持ち上げてくれている。我ながら単純なものだ。――けれど。

「……もう、似合いもしない努力もおしまいかなー」

 なけなしの女の子らしさを磨くための努力。褒めてもらいたくて頑張ってきたけど、認めてくれる人がいないなら無駄なことだろう。投げやりに、けれど精一杯の笑顔と軽い口調で呟く。それを

『え、やだ』

 ノーマさんはあっさりと否定した。

「やだ?」

 駄目、ならまだ分かる。「せっかく始めたんだから続けないと駄目よ」という目上のおねーさんからの助言と受け止められる。けれど、やだ、とはどういう意味だろう。思わず目をぱちくりさせると、ノーマさんはぷぅと頬を膨らませた。

『だってせっかくエレンちゃんと一緒にお出かけして一緒におしゃれ楽しめるようになったのに、やめちゃうなんてやだ。私はもっとエレンちゃんに可愛い格好させたいしお化粧もさせたい』

 まだ離されていない手がぎゅうぅぅっと強く握りしめられる。握力の差があるので全く痛くないのだが。……そういえばこの手はいつまでつないでいるのだろう。嫌ではないしむしろ安心するから私は構わないのだけれど、ノーマさん、もしかして離すタイミング見失ってる?

「えっとぉ、私としてはですね? そう言ってもらえるの嬉しいんですけど、やっぱり私が可愛くしても意味ないっていうか、似合わないっていうか……」

 だって頑張った結果が「女として無理」なんだもん。やる気なんて根こそぎ引っこ抜かれちゃうよね。視線を下げて言い訳していると、その視線の先にペンが差し込まれた。

『そんなことない』

 ペンが振られて示された言葉に、私は軽く目を見開く。そろそろと顔を上げれば、真剣な表情を浮かべた美貌が待ち受けていた。

『ひどいこと言う人なんて忘れちゃえばいいの。エレンちゃんは可愛いよ。ころころ変わる表情も、元気に駆け回る姿も、おしゃれのために頑張ってる姿勢も。はじめて一緒にお洋服買った時のこと覚えてる? あの時、嬉しそうな顔してるエレンちゃんを見て私本当に本当に可愛いなって思ったんだよ。そんな可愛さ分かんなかったなんて、あの男の人が大したことなかっただけだよ。絶対そう』

 ずいと突きつけられる文字の言葉は言葉が重なるごとに大きくなっていき、ノーマさんの感情の強さを表しているようだった。表情と、動作と、言葉と。それらが真っ直ぐに注がれ、何だか泣きそうになってしまう。その時、ぎゅっと握られたままの手に込められる力がまた強くなった。

 月から差し込む光の下、浮かべられる表情が、真剣なそれからとろけるような笑顔に変わる。

『エレンちゃんは、可愛いよ』

 再度告げられた言葉に、笑顔に、私は一気に赤くなった。どきどきと心臓が大きな音を立ててくる。恥ずかしい。けど嬉しい。けど恥ずかしい。ふたつの感情がぐるぐると頭を駆け巡った。

「おっ、お酒おかわりお願いします!!」

 私は空いている手をばっと挙げて店内を歩いているウェイターさんに声をかける。ノーマさんはびっくりしていたけど、私の顔が真っ赤なのに気付いたのかくすくす笑いながら止めずにいてくれた。その時ようやく手が離されたけど、お互いの熱で温められたそれが夜風に冷やされるのが、なんとなく惜しい気がしてしまう。

 それから私はこれでもかというほどにお酒を飲んだ。ノーマさんも付き合ってくれたのかいっぱい飲んでいたみたいだけど、先に潰れたのは私だった。さすがに飲みすぎたと頭を机につけると、どこからか綺麗な歌声が聞こえてくる。それに耳を傾けている内にうとうととしてしまい、私は自然と瞼を下ろしていた。

 最後に私が見たのは、どこか困ったような顔で海を眺めているノーマさんの横顔。


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