第14話 交際0日の花婿 後編


 短い休憩から戻ると、店はガラガラだった。

 マリちゃんは暇すぎて、てきぱきとカウンターの中の清掃を始めていた。

 僕はレジに立ち、こっそりとあの子の方を伺う。


 僕が休憩に行っている間に、あの子はどうやら珈琲を飲み終えてしまったらしい。

 彼女はいつものように文庫本に釘付けになっていた。


 それをつまらなく思いながら、店の中を見回す。

 いつもやってくるカップルが珈琲を飲み終えて席を立った。


「ありがとうございました」


 店を出てゆく彼らに声をかけ、頭を下げる。


 本当に珍しいことに、店にいる客は彼女だけになってしまった。

 周りが静かになったからなのか、彼女はいっそう本に集中しているようだった。


 ……彼女が飲み終えた珈琲カップを下げてこようかな。


 ふとそう思いつき、僕はカウンターを離れる。

 万が一誰かが来店したとしても、カウンターにはマリちゃんがいるからどうにかなるはずだ。


 まるで開店前のような、無人の店内を歩き彼女の方へと近づく。

 彼女の手前、3メートルほどの場所へ立ってみても彼女は本から全く顔をあげなかった。


 ……どこまで近づいたら、彼女は僕に気がつくだろう。


 完全に魔が差したとしか思えない、そんな考えが浮かんだ。


 僕はさらに彼女との間を詰める。

 もし彼女が僕に気づいたとしても、カップを下げにきたのだと言い訳すればいい。


 お客様にとって居心地の良い空間を作るのは、僕らの仕事のうちなんだから。


 彼女のページをめくる心地よい乾いた音だけが、僕の耳を打つ。

 彼女は本の世界に完全に浸り切った様子で、明るい茶色の瞳を潤ませていた。


 ……まさか、泣きそうになってる?

 そういえば、彼女はいつもどんな本を読んでいるんだろう。


 僕は彼女の目の前にある、空の珈琲カップに手を伸ばす。


 あくまでも、自然に。


 僕は素知らぬ顔で彼女が読んでいる、本の背に印刷されたそれのタイトルを盗み見た。


『 宵闇  ひゞき 隆聖』


 その文字に、僕は言葉を失う。どくどくと心臓が鳴った。

 動揺しながらも、音を立てないようカップを慎重に持ち上げる。


 彼女は、とうとう最後まで僕に気づかなかった。


        *****


 次の休日に向かったのは爺さんの家だった。


 別に本屋で彼女が読む『宵闇あれ』を買って読んでも良かったのだが、祖母……ひびきさんが物語を紡いだ部屋で、彼女と同じ本を読みたいと思った。


 瓦屋根のついた立派な数寄屋門をくぐり、飛び石を渡って母屋に入る。

 爺さんの無駄に広いこの屋敷は、明治時代からあるらしい。


 ひびきさんが亡くなったのは、僕が小学生に入る前だったと思う。

 だから、僕に祖母ひびきさんの記憶はあまりない。


 伝え聞いた話によると彼女はどうやら元々、体が弱かったらしい。


 考え事をしながら屋敷の中を歩いていると、声をかけられた。


「おお、しずかじゃねえか!珍しいこともあるもんだ!どうした、また誰かと喧嘩してきたのか!」


 僕は仕方なく足を止めて振り返る。


「……爺さん、ついにけた?いつまで昔の話を蒸し返すつもり?」


 僕はため息をつきながら腕を組み、書斎から廊下へと顔を覗かせた爺さんを見下ろした。


しずか』……某有名アニメのヒロインと同じ、その名前。


 物心ついた頃から、高校生くらいまで。

 僕は祖母のつけたその名前を揶揄からかう馬鹿どもを拳で制裁してきた。


 周りの大人たちにたしなめられる中、「ひびきのつけた名前を揶揄からかう見る目のない子供ガキどもなんぞこらしめてやれ!!」そう言って笑ったのは爺さんだけだった。


 僕は、僕を認めてくれた爺さんの言葉通り、それを貫き続けた。

 しばらくすると、面と向かって僕の名前を馬鹿にする奴はいなくなった。


 しかし『しずか』、その名で呼ばれたくないのかもしれないと周りに気を使われた結果、僕はそれを音読みした『セイ』と呼ばれるようになった。


 その話をぼかして伝えると、相手の同情……特に女性のそれを引けるらしいと気がついたのは大人になってからだ。


 僕に見下ろされた爺さんは片眉を上げ、考えるように白い髭を触りながら首を傾げる。


「じゃあなんだ?開いたばかりの店をもう潰しちまったのか?」


 僕はその言葉に眉をしかめ額に手をやる。

 本当に爺さんの思考回路は理解できない。


 そんな危機的状況だったらこんなに呑気にやってくるわけないだろう……!


「一体どういう考え方をしたらそうなるんだ……まあいいや。ひびきさんの部屋にちょっと用があってね」

「……ひびきの?」


 爺さんの目の色が変わった。

 その様子を見ながらため息をつく。


 しかし彼女の部屋に勝手に入ったことが後で爺さんにバレると、厄介なことになる。


 いや……正確に言うなら爺さんはひびきさんのことになると、非常に面倒くさい。

 それは親族全員の共通認識だった。


 なんと言っても彼は……上京したばかりの田舎者だった、純朴なひびきさんを丸め込んで軟禁し、結婚を承諾させたという非常識な執着男なのだ。


 もし今そんなことをしたら犯罪だ……いや、当時も犯罪だったのかもしれないけど。


 だから、親族の中でひびきさんと爺さんの話は禁句とされていた。


「……ひびきが何か言っていたのを思い出したのか?もしかして、隠した原稿の在り処か?!」


 目を輝かせそう言った爺さんを見下ろしながら、大袈裟にため息をついて見せる。


「そんなわけないだろう、ただちょっとあの部屋で本が読みたいだけだよ」


 そう言うと爺さんは顔をしかめて「チッ」と舌打ちをした。

 その音に僕も眉間に皺を寄せる。


 ……いつか僕の悪癖も直さなくてはいけない、爺さんに会うたびそう思う。


「とにかく、しばらくあの部屋に入るから」


 背を向けると、爺さんは僕に向かってまた声をかけた。


「夕食はカヨさんに頼んで、カレーにしてもらうからそれ食って帰れ」


 この屋敷のお手伝いさんである、カヨさんのカレーは小学生だった頃の僕の好物だ。


 ……全く、本当にけはじめてるんじゃないの?


 僕はため息をつきつつ振り返る。


「わかったよ」


 そう答えると、爺さんは子供みたいな笑顔を浮かべた。


        *****


 その部屋は夕暮れ時に西日が差し込む、純日本家屋のこの屋敷には珍しい洋室だった。


 部屋の奥にある大きな掃き出し窓からは、高度を落とし始めた陽の光が見えた。

 その手前にあるのは色褪せた緑のコーデュロイ生地が使われた、レトロな形の3人がけソファー。そこにはたっぷりと綿が詰まったクッションがいくつも乗っている。


 ひびきさんは執筆に疲れると、たまにここで横になっていたらしい。

 太陽の光が届かない、部屋の北。その奥まった壁に埋め込まれているのは大きな本棚。

 そこに、求める本はあった。


『宵闇』


 彼女が涙を堪えながら読んでいた本。

 あの子が読んでいたのは文庫本だったが、ここにあるのは『ひゞき 隆聖』に惚れ込んでいる爺さんが特注で作らせた、豪華な装丁のハードカバーだ。


 僕はそれを手に取り、ひびきさんが執筆の間に一息ついたであろうソファに座った。

 クッションを自分の座りやすい位置へと移動させ、濃紺から黒へ変化する微妙なグラデーションが効いたカバーのかかった表紙を開く。


 タイトルと著者の名前が書かれた、本扉をめくった一番初めのページは『これを読むあなたへ』そういう一文から始まっていた。


 僕は、今まで祖父の本も、祖母の本も読んだことがなかった。


 それは自分の身内だから、そういう気恥ずかしさもあったのかもしれないけれど。

 一番は祖父や祖母の……心の奥底に眠る感情を知りたくない、そういう気持ちが大きかったように思う。


『宵闇』は生まれつき目が見えない主人公が手術によって視力を回復するものの、見たくなかった現実を知り、だんだん荒んでいく……そういう話だった。


 内容は鬱々としているはずなのに、それを表現する文章はどこまでも平坦で……ただ、透明なガラスを一枚隔てたように、淡々と主人公の悲哀を描き続ける。


 だからこそ、いっそう主人公の苦悩が心へ突き刺さった。


 現実を思い知らされた主人公は、やがて酒と女、そして薬に溺れてゆく。

 心労と肉体的な無理が祟ったのかもしれない。

 物語の後半、主人公はやがて自分の視力がまた衰え始めていると気がつく。


 宵闇に染まっていく空のように、主人公の視界は再び閉ざされていく。

 しかし、まるで眠りに落ちる直前のような薄闇の中で主人公は安堵し微笑む。


「これで……………」



 ついに文字が追えなくなって、僕はハッとして顔を上げた。


 陽はとうの昔に沈んでしまったらしい。

 今まで読んでいた物語の主人公の視界のように、ひびきさんの書斎は闇に浸かっていた。

 宵闇どころか、漆黒に塗り潰されはじめた窓の外へと視線を向ける。


 空を見上げると、散らばった硝子のかけらのような星が見えた。

 優しい闇の中へと再び戻った主人公は……もう、あの光を見ることはないのだろう。


 なぜだか涙が溢れた。

 彼女も同じ気持ちだったのかもしれない。


 本の中から現実へと戻ると、途端に空腹と、鼻をくすぐるカヨさんのカレーの匂いを感じた。タイミングよく爺さんが僕を呼ぶ。


「おぉーい、しずか!」


 僕は爺さんの呑気な声にため息をついた。

 そして本を元の位置へと戻し、僕を今か今かと待つその声に答える。


「…………いま行くよ!」


        *****


 結局、最後まで読むことのできなかった『宵闇』、そして今まで出版された『ひゞき 隆聖』の本を僕は全て本屋で買い求めた。


 そしてあの子がカフェに来るたび彼女が今、何を読んでいるのかチェックするようになった。

 彼女は本当に『ひゞき 隆聖』の本が好きなようで、毎回観察して何度も繰り返し読んでいる本もわかるようになってきた。


 彼女が好きなのは『宵闇』、そしておそらく『からの棺』、『井戸の中』。


 特に『井戸の中』は清掃で近くのテーブルを拭いていた時に「じゅるっ」と涎を啜るような音をさせていたので、鰻屋のシーンが好きなのかもしれない。


 ひびきさんは、繊細な心理描写を得意とする作家だった。


 それに毎回心を打たれるあの子は、きっとひびきさんと同じ……お人好しで誰かを憎みきれない、そんな女性なのだろう。

 それに、休日にひとりカフェにやってくるあの子に、彼氏はいないに違いない。


 ひびきさんの作品が大好きな彼女と、ひびきさんの孫である、僕。


 今までその言葉を信じたことはなかったけれど。

 この出会いは、亡くなったひびきさんが用意した”運命”に思えた。


 しかし、それだけだった。

 ……あの子は僕の店で珈琲を飲み本を読むだけで、全くこの僕には興味を示さなかったのだ。


        *****


 そんな中、チャンスが訪れたのは唐突だった。


 たまたま仕事上がりに一服し外へ出たその時、ちょうど店から出てきた彼女の後ろ姿が見えた。

 一瞬迷ったけれど、話しかけるタイミングがあるかもしれない、と僕は思わず彼女の姿を追いかけた。


 僕より頭二つ分、背の低い彼女はちょこちょこ短い足を動かして駅へと向かい、そこから下り方面の電車へ乗りこんだ。何食わぬ顔をして僕もそれに続く。

 彼女は急行の停車駅で一旦電車から降り、そこから各停の電車へと乗り換えた。


 どうにか偶然を装って話しかけられないか、そのことばかり考えていた僕はそのまま彼女と同じ車両に乗る。

 しかし、空いている席を見つけた彼女はそこに座り、また本を開いて読み始めた。


 ……しまった、彼女……本を読んでいる間はきっと周りを見たりしないに違いない。


 僕は眉を潜める。そして仕方なく腕を組み、扉近くの壁へと凭れかかった。

 じっと待っていると、やっと電車が動き出した。


 しばらく乗り続けるのかと思った彼女は、意外にも次の駅で立ち上がった。


 まさか、こんなに早く降りるなんて。


 僕は慌ててまた彼女についていく。


 …………そうして追いかけていくうちに、ついに僕は彼女の家までついていってしまった。


 その家の玄関がバタンと音を立てるのを、建物の影に隠れたまま聞いた僕は、必死に自分に言い訳をする。


 ち、違う!僕は……僕は、ストーカーなんかじゃない!!


 そう思っているのに僕は……どうしてもあの子の名前が知りたくて、彼女が家に入る前に覗いていたポストへと近づいた。


「……瀬谷……」


 そこに書いていたのは当たり前だが、苗字だけで。

 彼女の下の名前はなんというのだろう、といろいろな想像を巡らせた。


        *****


 やがて『彼女についてもっと知りたい』という気持ちは、時間の経過とともにどんどん膨れ上がっていった。


 どうにか……どうにか、彼女に話しかけることができないだろうか。

 そう思った僕はあの子がやってきそうな時間帯に、できるだけレジに立つことにした。


 そして、またあの子が僕に話しかけてくるのを待ち構えた。

 あの子と仕事以外の会話をすることさえできたら、きっと僕はうまくやれる。


 彼女を、僕に夢中にさせてみせる。


 そう思うのに、店にやってきても必要最低限の会話しかしない彼女に接する機会は、全くと言っていいほど訪れなかった。


 焦れに焦れた僕は考える。

 ……彼女と、店の外で出会う方法はないだろうか、と。


        *****


「ご契約ありがとうございます!」


 不動産会社の営業マンは契約書の前で、ニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべた。


 僕はその契約書に間違いがないか、確認するために視線を落とす。

 契約書に書かれているのは彼女が乗り換えた急行停車駅そばの、4LDKファミリータイプの物件。


 ……彼女が乗り降りする急行停車駅。

 それを利用するような近所に住めば、彼女と出会う確率はおのずと高くなるはず。


 そう考えながら僕は書類に印鑑をついた。


        *****


 そして、その考えは間違っていなかった。

 ……ただ、それは僕の想像とは全く違っていた。


「……瀬谷!おおい、瀬谷じゃないか!」


 急行停車駅で電車に乗ろうとしたある日。

 彼女の名を呼ぶ声がして、僕は思わず振り向いた。


 僕は目を疑った。

 人が行き交う駅のホームの中。

 僕が会いたくてたまらなかった彼女は、僕がたった今通り抜けたばかりの改札の少し手前にいた。

 彼女を呼び止めたのはこんがりと日焼けした、いかにもデキる男風な雰囲気を隠しもしない、鼻につく感じの男だった。


「……え?あれっ、田口さん?!こんなところでどうしたんです?」


 彼女はその声に、なんと立ち止まり笑顔でそいつと話し始めた。


「チッ」


 思わずその光景に舌打ちする。


 田口さん、と呼ばれたその男はへらへらとだらしなく笑いながら、彼女を物欲しそうな目で見下ろしていた。


「いやあ、この近くの海門建設さんのところに資料を届けに行くところでな。瀬谷はここから職場ウチまで通ってたんだな!その……もし時間があったらその辺で朝食でもどうだ?」


 その言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。


「ええ?!田口さんは営業日報に書けばいいかもしれませんけど、私はこれから出勤しないといけないので今すぐは無理ですよー!」

「そ……それもそうだな!あはっ、あはは……!」


 男はその場を取り繕うように笑う。

 その後二、三言交わした彼女は男に手を振って歩き出した。


 アイツの、彼女を見つめる瞳……彼女は気付いていないんだろうが、ストーカーに追い回された経験のある僕には分かる。

 あの男は……おそらく、彼女をここで待ち構えていた。


 僕は立ちすくんだまま拳を握りしめた。


 もし、あの2人がうまくいってしまえば……あの子はもうカフェに来なくなるかもしれない。


 腹の中で、どす黒い感情がぐるぐると渦を巻いた。


 そんなことゆるさない。

 あの子は……ひびきさんが繋いだ運命あのこは、僕のものだ!!


 アイツはきっと、僕が知りたくて知りたくてたまらない、あの子の下の名前も知っているのだろう。

 あの子の運命の相手は僕なのに、アイツが知っていてこの僕が知らないことがあるなんて絶対に許せない。


 改札方面からあの子はこちらに向かって歩いてくる。

 僕は奥歯を噛み締め、あの子に向かって歩き出した。


 このままよそ見をしているフリをして彼女に軽くぶつかろう。

 そして、お詫びと称して夕食の約束を……!


 そう思った時だった。


 僕は斜め前にあった柱から突然出てきた人影にどん、とぶつかられた。


「……?!」


 あの子にぶつかろうと勢いよく歩いていた僕は驚いて立ち止まる。

 僕にぶつかってきた人影は逆に弾き飛ばされ、そのまま飛び出てきた柱にぶつかり座り込む。


 相手はどうやら年上の女性のようだった。


 僕は彼女の方を伺っていたとはいえ、ちゃんと前を見て歩いていた。

 だから、絶対に飛び出してきたのは相手の方だという確信があった。


 ……しかし、このまま知らないフリをして後から騒がれても面倒だ。

 僕は舌打ちしたい気持ちをなんとか抑え込んで口を開く。


「……大丈夫ですか?」


 手を差し伸べると、座り込んだ女性は顔を上げた。


 僕はそれを見て眉を寄せる。

 この女……店でよく僕に話しかけてくる面倒な常連客じゃないか。


「は、はい……あ、あら?あなた、もしかして……」


 女は僕を見て目を輝かせ、明らかに取ってつけたような台詞を吐いた。

 その女のじっとりとした目で見つめられた僕は、店でよくそうするように唇だけを持ち上げる。


 座り込んだ女は、差し出した僕の掌をぞわぞわするような手つきで掴んだ。

 その感触に鳥肌を立てる。


 僕はそのまま女を気遣うフリを続けながら、ホームへと向かうための階段にちらりと視線を向ける。あの子は僕に気づかず階段を上り、見えなくなっていた。


 僕は目の前の女に悟られないよう、ため息をつく。


 ……最悪だ。

 この女の目つき、それにこの感覚……間違いない、この女は僕に一定以上の執着を抱いている。いや、一定以上なんてものじゃないかもしれない。

 多分、この女も僕と同じで……ここを通りがかった獲物ぼくを狙ってぶつかったに違いない。


「あの、私の不注意ですみません、もしよろしければお詫びを……」


 やはり思った通りの言葉を口にした女を見て、僕はいかにも困っています、という顔を作った。


「いえ、そんな訳には……」


 そう言いかけて、僕は口籠り。

 突然思いついたアイディアに唇を吊り上げた。


 ……この女の執着をうまく利用すれば、あの子を簡単に手に入れられるかもしれない。


 そして殊更ことさら優しい顔と声を作り、女に向かって話しかける。


「……僕こそすみません、急いでおりましたので……失礼ですが、いつもご来店いただいているお客様ですよね?大変だ、お怪我はありませんか?」


 女は僕の顔を食い入るように見て、顔を赤くした。


「い、いえ、怪我はないです、でも、あの」


 しどろもどろにそう言う女の手を握りしめながら僕は微笑む。


「ご来店されるたびお声がけ下さってありがとうございます。あなたにぶつかってしまうなんて……僕のことを許してくださいますか?」


 女は緊張しすぎて声も出ない様子で、僕の言葉にただ首を縦に振る。


「ありがとうございます!僕のことは良かったらこれからセイとお呼びください……それから、もし何かお怪我などが後から分かりましたらこちらに連絡を」


 そう言いながら僕は店で配っている、店の電話番号と住所が書かれた名刺を彼女に握らせた。


「こんな僕を許してくださるなんて……ぶつかったのがあなたみたいな優しい方で本当に良かった」


 僕は女の手を優しく握り締めながら唇を持ち上げ、優しく微笑みかけた。


「それではまたのご来店を、心よりお待ちしております」

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初めまして、結婚しましょう。 紫堂 燿 @shidou-you

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