魚屋まさじ血風録

呂句郎

その一

 春もうららの薄ぼんやりとした日の夕暮れ時、深川八幡の境内には大勢の人がいて、政次まさじもその一人だった。

 老いも若きも幼いものも詰めかけていたが、もっぱら力自慢の若い男が、その土俵を囲んでいる。

 土俵の真ん中には、ちかごろとみに有名になった相撲取り、柏手虎右衛門かしわでとらえもんが、まさに仁王のように立っている。

「さあさあ、どなたか虎右衛門に立ち会う方はおられぬか」

 そう呼ばわるのは、吉原猿若町の興行師の何某なにがしである。

 政次はその名をにわかには思い出せない。

「虎右衛門が土俵を割るか土が付けば、一両になるぞ」

 と、興行師が重ねて言った時、おそらくは木場あたりの木挽こびき職人と思われる四角い体つきの男が手を上げ、土俵際の若い衆をかき分けるように出てきて、

「おいら、やってみるぜ」と言った。

 興行師は狡そうな笑みを浮かべ、

「これは見どころのあるいい体をした強者が出てきたものだ。名を何と申されるのかな」

「佐賀町の大吉でい」

「そうか、大吉さんと申されるか」と、興行師は生真面目ぶった顔で頷いてみせてから、「これはここにある通り、賭金を預かろう。二百文」

 おそらくは一日の稼ぎがそのままだろう、大吉は二もんめの豆銀を興行師に渡している。

 もしも一両取ることができれば、二十日は仕事へ出なくていい計算。

 力自慢で勝ち気で短気な賭け事好きなら、ウズウズしてしまうのも道理だ。

 しかし相撲取りを相手にして、勝てたとしてのことではあるが。

 職人は半纏はんてんを外して、かたわらの仲間に手渡すと、もろ肌脱ぎになり、裾を端折はしょった。

 柏手虎右衛門はすり足で二尺ほど後ろに下がったが、両腕を垂らして立ったまま。

 職人は徳俵とくだわらのぎりぎりまで退いたところで、身をかがめた。

 あたりはしーんとなる。

 間に立った興行師が、やたらと派手な房のついたけばけばしい軍配を、ゆっくりと立てた。

「ふんっ!」と気を吐いた大吉は、低いところから立ち上がり、相撲取りの胸元に思い切りぶちかました。

 バチーンと中身の詰まったようなものどうしが当たった音が響いた。

(これはいい立ち会いだぞ!)と、政次は思った。

 大きな相手には、まずは下から当たっていくのが何よりのわざであることくらいは、政次も知っている。

 しかしところが、相撲取りの体は、かかとはおろか、どこもかしこも一寸いっすんも動かない。

 大吉は相撲取りの廻しを大きな手で握りしめ、それを頼りに肩の力で押そうとするが、丸く盛り上がるのは大吉の二の腕ばかりで、何も起きない。

 廻しを素早く後ろに退いた大吉は、柏手虎右衛門の胸を押す力で二三歩後ろに下がると、もう一度当たりに行った。

 相撲取りが、にんまりと笑ったように、政次には見えた。

 体の傾きは変わらないまま、わざとかかとの滑りをよくしてやったように、ズルズルと土俵の上を後ろに滑っていく。

 太い二筋を砂の上に残しながら、二尺ほど下がったまま、そこで、止まった。

 大吉の体が真っ赤になり、汗の粒で急に光ったのが見えた。

 息を止めていた見物人たちも耐えかね、一息吸い込もうとするその間合いで、大吉は真横に飛ばされていた。

 身の受け方も知らなかったのか、顔からつんのめるように、土俵の外へと逆さまになった。

 嘆息とも嘲笑とも言えない声が、見物人らの口から漏れた。

 あっけないというよりも、相撲取りというものの底しれぬ強さを目の当たりにした政次は、言いようのない気分に囚われた。

(相撲取りは強い。たしかにおっそろしく強いや。もって生まれた体と稽古の賜物たまものにはちがいねえけど、あれじゃあまるで、でっかい岩の塊じゃねえか)

 仲間に手を取られて立ち上がり、しおしおと去っていく大吉という男の背中を見ながら、政次はなんとも言えない気持ちになった。

 相撲取りが、もとから恵まれた体を鍛え、滋養のあるものを食いながら、そのうえ何か、力のコツみたいなものを親方や兄貴分から教わり、ましてやぶつかり合うのが商売と言うなら、それで強いのはあたりまえ。

 日当を賭けてまで、そんなのと力試しをしようという大吉も向こう見ずと言えばそれまでだが、なんだか腑に落ちない。

 仮に二百文の遊び金があったとしたって、あんな賭け相撲をしようとなど、よもや政次も思わないが、

(それにしたって、でかくて重くて、そりゃあきつい稽古もあるだろうけど、そんな力比べじゃねえものが、あったってよさそうなもんだけど)

 見物人は口々に、本職の相撲取りの強さに惚れ惚れしたようなことを話しながら、参道を下っていったが、政次は何か、すっきりしなかった。

 ふとみると五間ほど先を、どこか痛めたのに違いない肩を抑えた大吉と、それをねぎらうように二人分の道具箱を抱えた連れらしい男が、ゆっくりと歩いていた。

 あんな様子じゃ、明日の仕事にも差し支えるだろう。

 何かひとこと声をかけたいような気もしたが、言葉も思い浮かばない。

 そう思って二人の後ろ姿を見ていると、政次の気分もふさいできた。

 と、大吉とその相方は道を逸れ、煮売り屋の縄のれんをさっと分けて、入っていった。

 おおかた、相方が、銭も失って怪我をして気落ちしている大吉に、一杯おごろうとでもいうことか。

 どんな男たちなのか、知りたい気持ちもあったが、政次は飲めない口である。

 明日も暗いうちからの商売のことも思い出され、ますます重い足取りで、帰り道をたどった。

 ちなみに政次は、しがない棒手振ぼてふりの魚売りでなんとか生計を立てている、長屋住まいの独り者。

 五尺五寸の身の丈で、脚が速いのだけが取り柄の、正直者である。

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魚屋まさじ血風録 呂句郎 @AMAMI_ROKUROU

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