第3話【宇宙からの祝電】

 研究所から居住エリアへと移り、人もまばらな裏手の通路を歩いて自室へと戻った。ポロシャツを脱ぎ捨てて無地の味気ないシャツに着替える。下着は……シャワーを浴びるまではそのままでいいか。

 上着を一枚羽織り、簡素な白い作業机に放置していた端末を立ち上げた。なにせここ数日、この部屋にいた時間は合わせて数時間もない。三時間あるかどうかもわからない。それほど、チーム全員が宇宙探査機我が子のために気の置けない時間を過ごし続けていた。

 ——私の睡眠は?

 これから解消していけるのかもしれない。

 そっと、指の腹で頬や目元をさすった。思った通り、肌が荒れている。……この肌、ひび割れたりしないよね?


 そばの窓の方に視線をやった。閉じたブラインドの隙間から漏れる薄い陽光。光の筋が端末に触れた私の手の甲に乗る。光を遮っていたブラインドを少し開けてやる。シャッと音がして外の景色が望めた。建物に囲まれた外観の奥には緑があって、その向こうにまた街がある。

 端末が、静かに立ち上がった。

 端末に映ったロック画面には私と……兄の姿。

 兄と撮った写真はすべて、データにして保存し、クラウド上にバックアップを取ってある。現物は五冊のアルバム。携帯用デバイスには少数の選んだものを。こうして毎日、亡き兄と顔を合わせる。

「そんな兄の——」

 自分の内側で何かが呟いた。


 ——そんな兄の夢たる星に、せっかく私たちの宇宙探査機が手をかけたというのに。


 そのとき、自分の胃の底に黒い雫が落ちるような、そんな何かが沈みゆく感触を覚えた。

「……っいけない」

 まただ。さっさと端末のロックを解除し、ホーム画面でいくらか操作して動画サイトを開く。ここ数日、多忙で気が狂いそうだった。さすがに私も疲れているのだろう。

「笑える動画モノか、落ち着くきょくか——」

 気分をリフレッシュしようと動画を再生しようとしたとき、チャットツールからコールがかかった。

「いったい誰がどこから……」

 表示されたのは、よく知った男性のアイコン。

「フリッツ?」

 宇宙そらに上がっているはずの同僚からだった。彼の名前、フリッツ・ベルナウンの上に表示された所在地は……国際宇宙ステーションISS

 思わず笑ってしまった。それからヘッドセットを手に取り、通話ボタンを押す。

「ハロー、フリッツ。そちらは今、何時かしら」

 通話先の相手は、若々しいクリアな声で快活に応答した。

深夜零時ミッドナイトだよ、リナ。君の声が聴きたかった』

 屈託のない、とは彼のような人間のことを言うのだろう。

「ありがとう。私もあなたの声が聞けて嬉しいわ」


 ISS——国際宇宙ステーションは地上から約四〇〇キロ上空で地球を周回している。私がいま立つこの星を、わずか九〇分で一周する速さ。私に電話をかけてきた彼は、宇宙そらで目まぐるしく奔走するその人工物の中に数か月スパンで住み込みで働いていた。今はこうして地表で疲労のカオを浮かべる私に向けて、人懐っこい声で歯の浮く言葉を発している。

『リナ。そちらは今ごろ夕方だろうか。地球から見た夕陽は美しいだろうな』

「ええ。とても綺麗だと思うわ。ステーションから見下ろす地球もさぞ綺麗でしょうね」

『差し障りない範囲で、最新の画像を送ろうか? 私がついさっき見た景色だ。ぜひ君にも見てほしい』

「ありがとう。でも、正直に言うと、星の画像はもう散々見たから——」

 どちらかと言うと、今は寝たい。

 私の返答から、私の纏う空気感を察したのだろうか。フリッツは少し申し訳なさげに、

「……そうか。どうやらお疲れらしい。ムリもない。君はの渦中の人間だものな」

 ごめんなさいね、フリッツ。

『とんでもない。こっちこそ、君の体調を慮ることもせず舞い上がってしまった。なにせ、君たちのプロジェクトの成果を聞いて、ISSこちらは今も興奮冷めやらぬ状態だ』

 フリッツは、『聴こえるか?』と、彼のマイクが拾う遠くの歓声を聞かせてきた。

「光栄の至りね」

 思わず、小さくため息をついてしまう。

『リナ』

「なァに?」

 フリッツは一拍置き、優しい声で、

『見事だった。おめでとう——。なにより、これを言いにきたんだ』

 彼は言い切った。

「……ありがとう。まだ、折り返し地点に過ぎないけれど」

『それでもだ』

 閉じたブラインドの向こうで、西陽が失せていくのがわかる。自動で照明が点灯した。部屋にはフリッツのこぼれる寸前の熱量を手のひらで抑えたような、静かに熱い声が響いている。

『三億キロ離れた宇宙そらの彼方から、四十五億年前の記憶を乗せて、地球へタッチ・アンド・ゴー、だ。世界の注目に値する、この上ない偉業だよ』

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