九月七日

文子夕夏

まんまる池のほとり

 幼馴染アイツはいつだってお調子者で、ヘラヘラばかりしている駄目な男だ。自分のクラスでふざけるだけじゃ物足りないらしく、他のクラスを回って教壇に立って、「一発芸やります」と手を挙げて……。


 見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、大笑いされるのだ。


 アイツは一組、私は八組。全部で八クラスあるものだから、次々と教室を回って「取って置きのネタ」を披露して回っているらしい。


 何より……一番腹が立つのが、アイツは八組に来る度に私の名前を呼んで、「お前を笑わせないとネタは完成しないんだ」とか言って、私を即席の審査員に仕立て上げるのだ。


 だから、どんなに可笑しくっても、どんなに噴き出しそうでも、私は笑ってなんかやらない。アイツは私を悲しませているから、絶対にさせてやらないと決めた。


 アイツはとことん、駄目な男だ。


 幼稚園、小学校、中学校、高校と――いつだって同じ場所にいたのに、ちっともアイツは気付かない。


 どうせ憶えてはいないだろう。


 小学生の頃、修学旅行のバスでアイツが酷く酔った時、私は友達とお喋りもせずに、隣で背中をさすってあげたのに。


 その内にアイツは吐いちゃって、他の男子が馬鹿にして笑ったのを、私は許せなくて怒鳴ってやった。「何も恥ずかしい事をしていないのに、笑うなんて最低だ」って。


 どうせ、憶えてはいないだろう。


 中学三年生の冬、どうしても数学が出来ない、このままじゃ志望校に落ちるって顔を青くしているものだから、私が特製のプリントを作ってあげたのに。


 合格発表の日なんか、わざわざアイツは家までやって来て、「お前は命の恩人だ」なんて言って抱き着いてきたから、思わず突き飛ばしてドアを閉めてやった。閉めるしかなかった。赤い顔を見られたら、笑われるだろうから。


 どうせ……忘れているんだろう。


 去年、私に言ってくれた言葉を。




 今でも私だけは憶えている。


 私が些細なミスをしたせいで、先輩達の夢だった全国大会出場が無くなったあの日。慰められる事すらが辛くて、逃げるようにして学校を飛び出した私は、気付けば昔にアイツとよく遊んだ《まんまる池》にいた。


 子供みたいに泣きながら、ユニフォームをクシャクシャにして、丸めて池に投げ込んだ。


 私なんかがメンバーに入っていなければ、先輩達は全国へ行けたはずなのに。


 膝に顔を埋めて……雑草を毟っては投げて、泣いた。どうしたらいいか分からなかった。いつまで泣けば、いつまで悲しめば許されるのか、そればかり考えていた。


 その時、近くでジャブジャブと水音が聞こえて――「うぉわっ!」と誰かが叫んだ。聞き憶えのある声だった。ずぶ濡れになったアイツがヘラヘラ笑い、ユニフォームを持ってこちらへ歩いて来た。


「いやぁ、石が俺を邪魔したんだよ。母ちゃんに怒鳴られるなこりゃ」


 ユニフォームを絞ったアイツは、パンパンと洗濯物を伸ばすようにしてから「落としたぞ」と渡してきた。睨むように見上げて、「何しに来たの」とそっぽを向いた私にこう言った。


「友達と待ち合わせている場所に向かっていたんだけどよ、偶然お前を見付けてなぁ。駆け付けたって訳だ」


 恥ずかしいところを、それも一番見られたくない奴に泣き顔を見られたから、私は本当に恥ずかしくて……酷い事を言ってしまった。


「あんたに関係無いでしょ。帰ってよ。ウザいから」


 言い切ってしばらくした後――さすがに謝らなくちゃと思った私は、顔を上げて、一瞬で血の気が引いた。アイツの姿が無かった。


 池に投げ込んだユニフォームを取りに行って、ずぶ濡れになっても笑っていたアイツを怒らせてしまった。


 何て、私は嫌な幼馴染だろう――思った瞬間、ポロポロと自然に涙が落ちてきた。


 もう、私なんて死ねばいいんだ、そうとさえ考えた。


 頭が絶望で一杯になった頃、果たしてアイツは戻って来た。「スマホ、防水で良かったわぁ」とか言いながら。


 今だ、謝るんだ私! 口を開こうとした私よりも先に、いつもの調子でアイツが言った。


「友達に電話したよ、『今日は行けない』って。ドタキャンなんて初めてだ」


 ポカンと口を開ける私に……アイツは、あの男は笑顔でこう宣言した。


「今日は、お前とここでノンビリする!」


「…………はぁ?」


 自然と出てしまった、呆れの言葉。なのにアイツは心底嬉しそうに「よいしょー!」だなんて声を上げながら、そのまま草地に寝転んでしまった。


 それから、私達は二時間近くも池のほとりにいた。


 大会に負けたのか? ユニフォームを何で捨てたんだ? そう訊かれると覚悟していたけれど、アイツは最後まで何も訊いてこなかった。


 代わりに、「この前のドラマ、録画していたら貸してくれ」とか、「二組の○○と三組の○○、付き合っているらしいぞ」と、ただの世間話ばかりを振ってきた。私もそれに答えている内に、何だか胸の奥が温かくなって、また涙が込み上げて来たから――。


「さっきは、ごめんね」


 震えた声で、アイツに初めて……心から謝った。


 けれどもアイツは「さっき?」ととぼけたように返して、手元の小石を池に投げた。


「馬鹿だから忘れたよ、そんなの。それより、腹減ったよな。ファミレス行こうや、自慢のクーポンコレクションが火を噴くぜ」


 クーポンコレクション、だなんて言葉がどうにも可笑しくって、思わず私は笑ってしまった。アイツは「何が可笑しいんだよ! 見て驚くな!」と財布を開き、大きな声で「ヤベぇ!」と叫んだ。


「……申し訳ありません! 思わぬアクシデントにより、クーポン、全滅であります!」


 余程に溜め込んでいたらしく、アイツは頭を抱えて辺りを転げ回った。その様子が面白くて、可笑しくって……私はお腹を抱えて笑いっ放しだった。


 ひとしきり笑った後、池に飛び込んだのはどう考えても私のせいなので、「今日は奢らせて」と提案した時のアイツの顔は、もう天にも昇る心地、という感じだった。


 アイツの家に行って着替えさせて(そのままで良い、なんてアイツは言ってのけたから驚きだ)、ファミレスでご飯を食べて、下らない話を楽しんでいればもう夜の七時。アイツは「送って行くよ」と格好付けた風に言うものだから、それがまた可笑しかった。


 結局送ってもらった私は、「また月曜日に」とドアを開けようとした瞬間……アイツは「なぁ」と、似合わない真面目な調子で呼び止めてきた。


 何となく恥ずかしそうに、でもその目は真っ直ぐ私を見つめていたから、私も変に緊張して「は、はい」と言葉を待った。


 アイツは――ズルいあの男は言った。


「言えよ……何かあったら。俺、頭が良い訳じゃないし、上手い事を言えないけど……でも、嫌なんだ。お前が辛そうにしているのは。……ごめん、忘れて」


 じゃあな、元気出せよ! 勢い良くアイツは自転車を走らせ、それ程遠くないアイツの家へと帰って行った。


 その日は……初めてが多かった。


 例えば、私は初めて、アイツが見えなくなるまで夜道に立ち、「無事に帰れますように」と祈ったのだ。




 私達の通う高校には、ちょっと不思議な風習があった。


 九月七日、好きな人の下駄箱に名前も書かずに手紙を入れる。内容はとてもシンプル、「いつもの場所で待っています」とだけ。それから手紙を書いた側は、自分の考えるで、日が暮れるまで待つ。


 夜が来るよりも早く、好きな人がやって来れば、その恋は必ず叶う……らしい。


 毎年、九月七日はクラス全体、いや、全校生徒が下駄箱を見に行ったり、「あの子があの人に手紙を書いたらしい」などと噂が飛び交った。


 どうして九月七日なんだろう……どうしてこういう遠回しな事をするんだろう……。だなんて、誰も気にしなかった。好きな人と付き合える――昔から伝わる、しかもよく効くおまじないという事で、それ以上気にする必要も無かった。


 今日。


 今日が。


 今日こそが。


 問題の九月七日だった。


 いつもなら友達と噂話で盛り上がるだけの、だったけれど……。


 今日、私は六時間目の後に学校を飛び出し――《まんまる池》に来ていた。


 今日、私は取っ手の無いボロい下駄箱を開き、要らないプリントの裏に走り書きしたものを投げ込んだ。


『用事があっても、必ず来い』


 可愛くない。本当に可愛くない文章だった。


 せめて、「絶対に行こう」と思わせるような手紙を書くべきなのに、私という頭の良くない女は、最後までツンツンとした調子でしか、自分を保てないのだ。


 今日――九月七日に、私はあの何処までもおちゃらけた男に、ウンと文句を言ってやろうと決めた。でも……顔を見た瞬間、何て言えば良いのかな。


 あんたね、どんだけ私を待たせるつもり?


 ……可愛くない。


 私、ずっとあんたの事を考えていたの。


 ……似合わない。


 そもそも、アイツはちゃんと来てくれるのだろうか。


 もしかすれば、他の女子から手紙を受け取っていて、そっちの方へ自転車を走らせているのかも――。


 考える程に、頭の奥がモヤモヤとして、鼻の奥がズキズキと痛む気がして。


 今年、だけじゃない。去年も一昨年も、ずっと前も……何処かで好きな人を待ち続けて、暗くなった頃に溜息を吐きながら、独りぼっちで帰る人がいたのだ。


 二人で同じ人を好きになったら、結ばれるのは片方だけ。


 一人は嬉しそうに笑っている、一人は……どんな顔をするのだろう。


 私なら――どんな顔をするかな。


 案外、笑う……かな。


 遠くでカラスが鳴いた。太陽はオレンジ色に染まり出し、を報せる夜の足音が、静かに……遠くからするようだった。


 やがて、私はあの日のように膝へ顔を埋め、寒くもないのに震える身体を抓った。抓っても抓っても、どんなに痛くても身体の震えは止まらない。


 出来る事なら、アイツを待つこの時間が永遠に続きますように――私は祈った。


 成功?


 失敗?


 私はどっちだろう?


 期待と不安に頭がグチャグチャになっている方が、まだ、明るい未来を考えていられた。


 廊下で擦れ違った時はいつもみたいに手を挙げて、帰りはたまに二人で帰って。行き馴れたお互いの部屋も、何だか新鮮に思えて。時々、一緒に街へ出掛けて、アイツの好みの服を買いたい。当然、アイツだって私好みにコーディネートしてやるんだ。


 私のクラスに一発芸をやりに来たら、今度からは笑ってやらないと。


 ……喧嘩もするだろう。昔からずっと一緒にいたのに、付き合う事で分かり合えないところが沢山、次々と出てくるだろう。その度に口論になるだろう。


 それで、良い。


 相手を傷付ける為じゃなく、理解する為にぶつかり合うのはとても素敵な事だ――何かの本に書いてあったけど、私もそう思う。


 心からそう思う。


 そして……アイツとそれが出来たのなら、何より、嬉しいだろう。




 馬鹿。あの馬鹿。早く来い。


 いつまで友達と喋っているのさ。あんたはすぐに自転車に乗って、私を迎えに来なくちゃ駄目なんだよ。


 待っているんだよ。ほら、夕方になって来たよ。


 ねぇ、遅いよ。


 もうちょっとだけ、待っているから。


 優しいんだ、私。


 あんたをこうして、一人で待っているんだから。


 ……。


 ……。


 …………明日、学校で会ったら何て言おうかな。


 普通に、「おはよう」で良いのかな。


 もうちょっと――優しくしてあげれば良かったな。


 馬鹿だな。私。







 よう。俺で間違っていなかったか? お前はドジだからなぁ。下駄箱を取り違えて……って、いや、ごめんって。そんな怒った顔するなよ……。


 もっと早く来たかったんだけど、ほら、これのせいで遅れちゃったんだ。


 駅前のシュークリーム、食べたがっていたよな。


 まぁ、ちょーっと高かったけどな! 今日は良いんだ。


 特別な日だからさ。ほら、お前の好きなミルクティーも買って来たぞ? いやぁ俺は気が利くなぁ! さすがだよ、俺!


 隣、空いているか? お邪魔しまぁーす。


 ……えーっとさ。


 ……その。


 ……俺で、間違ってないよな。


 …………そうか。


 は、はい!


 ……。


 ……。


 ……。


 …………え、ええ、ええっと……。


 はい……こちらこそ。


 よろしく……お願い……します――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

九月七日 文子夕夏 @yu_ka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ