マリーゴールド

明里 好奇

マリーゴールド

鼓動よりゆっくりとした時間が流れていく。

満ちては渇き、欠けては隠す。

いつか触れた旋律がよみがえり、視界を燻らs--。




 そこまで書いて家人が私を呼んでいる声が階下から聴こえた。窓の外から咽かえる様な密度の熱気が流れ込んできている。扇風機を回していても、流れ落ちる汗は止まらない。この場所から逃れることはできない。だから、きっと手を伸ばしても。

 呼ばれたから来てみたもののあまり冴えた知らせではないようだ。いつもの調子に内心、ため息をつきたくなった。実際には曖昧に笑ってやり過ごしてしまうのだけれど。


 簡単に言えば「体よくお遣いに出された」のだが、それでも息の詰まるような家の中に引きこもっているよりは幾分ましだと思った。お気に入りの日傘を持って玄関先で子気味良く広げる。少し光沢を持った生地が気に入って、素敵な淑女になれやしないかと使い込んでやるつもりで買ってからは役に立っていると思う。

 つっかけてきた足元は履き潰しかけているスニーカーである。見栄を張ってヒールを履いても、みっともないと自虐的に考えて思考を切り替えることにした。真夏の路上に突っ立っているだけでは、太陽に溶かされているだけだ。

 髪の隙間を縫って額、頬を伝って、顎まで至る汗のひとしずく。ガーゼ地のハンカチでそれを拭って、強い日差しに目を眇めた。


 跡形もなく溶けてしまいそうな夏に、うんざりしながらバス停までの道のりを歩いていく。それだけできっと私もなくなってしまえ。

 バスは出てしまってすぐらしかった。こんなことなら家を出る前に時刻表を確認しておくんだった。でもあの時は一瞬でも早く逃げ出したかった。逃げだしたって行ける場所なんて多くはないのだけれど。

 バス停の時刻表を見るでもなく眺めていたら、視界に色が飛び込んできた。それは今日みたいな真夏の濃度の高い、皮肉なほどに青い空に映えるオレンジ色だった。

「綺麗に咲いたでしょう?」

 目を奪われてぼんやりと見ていたら、それが人の声なのか誰に向けられたものなのか、認識するまでに時間がかかっていた。

「あらあなた、まっかっかね。大丈夫? ちょっと待っててね?」


ご婦人に勧められるまま、彼女の家の玄関先に座らされる。彼女は庭先のプランターや花壇の世話をしていたようだ。そこに顔を真っ赤にした私が通りかかった、ようだった。

 玄関の板間が火照っていた体に心地よく感じられた。外気は相変わらずむせ返るようだったが、影となっている玄関の中は比較できないほど涼しく感じられた。

「ごめんなさいね、麦茶しかないんだけど」

 そう言って彼女は木製の丸盆に麦茶の入ったグラスを二つ運んできてくれた。グラスには薄く結露で曇って見える。

 盆の上には一緒に小皿に入った梅干しもいくつか載っている。赤くつやつやとして、果肉が柔らかそうに見える。しおしおになっている赤しその端っこに塩の結晶が見て取れて、確実に塩分を多く含んでいるのが見てわかった。

「あなた、きっとちょっと熱中症なんじゃないかしらと思って、お茶請けにしては向かないかもしれないけれど嫌いだったら残しておいてね」

 ご婦人は隣室から扇風機を引っ張ってくると、玄関に置きなおして私の横にゆっくりと腰を下ろした。

「すいません、気を遣っていただいて」

 会釈をしてから、グラスの麦茶に口をつけた。唇に触れる冷えたガラスの感触が、心地よい。確かにご婦人がおっしゃるように、熱に浮かされていたのかもしれない。

「いいのよ、私も丁度休憩をしようと思っていたから」

 グラスを手に取った彼女は、一気に麦茶を飲み干した。赤くつやつやとした梅干しを一口で含んで、顔をしかめて急に席を立った。

 帰ってきた彼女は、麦茶の入った冷水筒をそのまま持ってきて、一気にグラスに注いで、もう一度麦茶を飲んだ。どうやら梅干しが酸っぱくてしょっぱかったようだ。

「ごめんなさいね、騒々しくて。庭いじりしているとどうしても熱中症対策に一個は食べておかないと、なんだかこわいのよね」

 ゆっくりと足を伸ばして、くつろぎだした彼女に倣った。梅干しは昔ながらのものらしい。それなりの覚悟をするべきだろう。


「何も真似をすることもなかったのに」

 ご婦人に笑われながら梅干しを丸ごと食べて、案の定塩味と酸味の衝撃に麦茶を一気に飲み干したところを、楽しそうにわらってくれた。

「私も熱中症がこわかったので、昔ながらの梅干し好きなんです!」

 取り繕うようにそう言うと、ご婦人はまたひとしきり笑って庭の方を見た。

「あなた、とてもかわいいわ。あの子たちみたいね」

 玄関から見える庭先にはオレンジの花がたくさん見えた。他にも黄色や赤も見えるが、オレンジが際立ってたくさん見て取れた。

「花ですか?」

「そうよ、あのオレンジの子たち」

 熱でややぼんやりとしている頭で花の名前を思い出す。あのオレンジの花の名前は。

「マリーゴールド、でしたっけ」

 ご婦人は嬉しそうに小さく笑うと「そうよ」と満足そうだ。

「あの子たち、あなたみたいにね、ちいさくて、けれどはっきりと可憐で、とても素敵よ」

 私はご婦人の言葉に、返すことが出来なかった。私はかわいくもなければ可憐でもない。ましてご婦人から、やわらかく慈しむように微笑んでもらえるような人間ではないのだ。

「そんな私、あんなにかわいくないですよ」

「そうかしら、素敵だと思うわ」

「ありがとう、ございます、すいません、なんか」

「あら、どうして? かわいいものあなた、自信持って、ね?」


「さあ、そろそろ熱は冷めてきたでしょう? また時間があったらあなたが良かったら来てくれない? あなたとお話するのが楽しかったの。そこのバス停でよくバスを待っているでしょう?」

 ご婦人は立ち上がった私に、また会いたいと言ってくれた。

「だからそうね、何かのついでに寄ってくれたら私がとても楽しいわ」

 玄関から出て、彼女が似ていると言ってくれたマリーゴールドたちに目を向けた。背の高い花ではない。小ぶりで豪華な部類ではない。それでも、青空が圧し掛かる様な今日みたいな日には、彼らのオレンジが映えると思った。

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マリーゴールド 明里 好奇 @kouki1328akesato

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