第43話

「当たり前じゃないですか」


 記憶の中の奈那先輩は、捨てられた子犬みたいに怯えていて、多分、後にも先にも、あんな奈那先輩を見ることなんて他にはないだろう。


 あの話をしてくれた奈那先輩が、どれ程勇気を振り絞ったのか。


 想像することしかできないが、多分、俺なんかが思うよりもずっと勇気がいることだったんだと思う。


 そんな奈那先輩を励ましたくて、元気付けたくて、俺は奈那先輩の頭を撫でて、抱き締めたくなったのを覚えてる。


 実際にはやらなかったけど。


「根性なし」


 奈那先輩にはそう言われたっけ。




 ああ、そうだな。


 俺は根性なしだ。


 根性なしで、馬鹿で、約束の1つも守れない、最低な男だ。


 俺なんかを、奈那先輩が好きになってくれる訳がない。


 そんなの、俺だって、ずっと思ってた。


 でも、俺はそれでも諦められなくて。

 奈那先輩を取り戻したくて。


 俺は。



 気付けば、俺は真っ暗な空間にいた。


 いつかの夢の中みたいだ。

 いや、また夢の中なのかもしれない。


 あの時は、奈那先輩が膝枕をしてくれていたっけ。


 そんなことを思い出しながら、1歩、足を前に出した。



 その瞬間。


 その横を、奈那先輩との記憶が過ぎていった。


 それはすごい数になって、どんどんと通りすぎていく。


 そして、すべてがパズルのピースのように、少しずつ、組み合わさって、世界が色付いていった。


 真っ暗な空間が、色とりどりの記憶で染まっていくように。


 歩けば歩く程、世界は染まっていく。



 奈那先輩と笑いあった。


 奈那先輩と世良たちと一緒に遊んだ。


 奈那先輩のお母さんにはからかわれて、お父さんにはすごく睨まれて。


 奈那先輩の秘密を知って。


 世良が殺されて。


 奈那先輩を消した。


 楽しい記憶も。

 苦しい記憶も。

 消したい記憶も。


 すべてが、この世界を色付けていく。


 そんな世界の中で。

 遠くに、見えたのは奈那先輩。


 背中を向けていて、こちらを見ようとしない。


「奈那先輩っ!」


 叫んで呼ぶ。


 奈那先輩はこちらを見てくれない。

 あれが、本当に奈那先輩なのか、俺の夢の中の妄想なのか。


 そんなのはわからなかった。

 そんなのはどうでもよかった。


 俺は走る。

 奈那先輩に向かって、走る。


 その道を、記憶のパズルが埋めてくれる。

 明るく照らしてくれる。


 しかし、俺よりも早く遠くに行ってしまう奈那先輩。

 その距離は、どんどん離れていってしまう。


「くっそ! ふざけんなっ!」


 負けてたまるか。

 こんなのに、負けてたまるか。


 今度こそ、俺は奈那先輩を助けるんだ。


 早いなんて、関係ない。

 遠いなんて、関係ない。


 限界なんて越えて、足を前に出す。

 体が壊れたって構わない。


 ただ前へ。



 ずっと、前へ!



「奈那先輩!」


 手を伸ばす。

 あの時のように、奈那先輩は手を伸ばしてくれない。


 でも、もういい。


 伸ばしてくれないのなら、もういい。


 俺が奈那先輩の手を無理やり引っ張ってやる。

 それでいいはずだ。


「俺、馬鹿だから! 奈那先輩のこと、忘れちゃいけないこと、全部忘れてた!」


 聞こえているのかもわからない。


 それでも言わなきゃいけなかった。


 謝らなきゃいけなかった。


「本当にごめん! 奈那先輩は、俺のことを、ずっと頼ってくれていたのに!」


 弱い部分を見せようとしない奈那先輩が、俺に見せてくれた弱い部分。


 それは、それだけ俺を信じてくれていたってこと。頼ってくれていたってこと。


 なのに、それなのに。


「助けられなくてごめん! 救えなくてごめん!」


 一度の失敗で、すべてが失われる。


 それが人生なのかもしれない。

 運命なのかもしれない。


 奈那先輩は、そう思っていたのかもしれない。


 でも、奈那先輩は、一度、死ぬ運命だった。


 それでも生きたいと願った。

 普通に生きたいと願った。


 それは龍神様も叶えられなかった奈那先輩の本当の願い。



「俺、馬鹿だから、あの時、何が正解だったのか、今でもわからない!」


 またもう一度、あの時のように、選択に迫られたら、俺はどんな選択をするのだろうか。


 多分、同じ選択をするんだろう。


 正しいかどうなんてわからない。

 それでも、多分、同じ選択をする。



 馬鹿だから。



 でも、だからこそ、俺は馬鹿なまま、真っ直ぐに奈那先輩を求めるんだ。


「今度こそ、奈那先輩を助けるんだ! 何があっても、どんなことをしても、奈那先輩を助ける!」


 奈那先輩のお母さんは言っていた。


 果たして、俺のやろうとしていることで、奈那先輩を取り戻すことができるのか、と。


 俺の知る奈那先輩を助けることはできるのか、と。


 考えた。


 よく、考えた。


 考えた。


 けど。



 そんなのわからない。


 ただ。


 本当に、ただ、俺は。



「俺はっ! 奈那先輩を、助けたいんだっ!」


 叫んだ。


 単純なことだ。

 俺は奈那先輩と約束をした。


 奈那先輩の体を元に戻すために協力するって。


 その約束を果たせる時が来たんだ。


 遅すぎるのかもしれないけど。

 今さらかもしれないけど。


 それでも、俺は奈那先輩を助けたい。


 ただそれだけ。それだけでいい。


 だが、奈那先輩までは、まだ遠い。

 まだ手が届かない。



 ああ。


 そうだな。


 まだ、全部、言えてないからな。


 正直に、すべてを、言えてないからな。



「嘘です。それだけなんて、嘘です」


 奈那先輩の足が止まる。

 不意に、奈那先輩が下を向いた気がする。


「奈那先輩を助けたい。本当です。でも、それだけじゃない。それだけなはずがないじゃないですか!」


 奈那先輩を好きになった。


 どんなに忘れても、奈那先輩を求めた。


 その気持ちに、嘘なんかつけない。



「俺は、ずっと、奈那先輩と、一緒にいたいんだっ!」  


 変わるか変わらないかなんて、そんなの知るか。

 その気持ちだけで、十分だ。



 もう少し。


 もう少し!


「奈那先輩!」


 右手を掴んで、引き寄せる。


 奈那先輩は、何の抵抗もしないで、俺の方に倒れてくる。


 俺の胸の辺りに顔を埋めて。

 その肩は、少しだけ震えていた。


 顔は見えない。

 それでもわかる。

 わかってしまう。


「奈那先輩。泣いてるんですか?」


 すすり泣く声が聞こえる。


「そんなことを聞くなんて、君は野暮だね」


 呆れたように言う奈那先輩。

 そして、奈那先輩は顔を上げた。


 その目には涙が浮かんでいて、鼻も赤くなっていて、それでも、奈那先輩は笑っていた。


「やっと、抱き締めてくれたね」


 あの時できなかったことを、夢の中で叶える。


 格好なんてつかないかもしれないけど。


「今度こそ、約束を守ります。だから、また、告白をさせてください」


 あの時、誓った思い。


 口に出して言うと、奈那先輩は、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せながらも、余裕そうな笑みを浮かべた。


「また、私のことを忘れちゃうかもよ?」

「それでも、好きになりますよ」


 だって、奈那先輩だから。


「元の私じゃなくなるかもよ?」

「それでも奈那先輩は奈那先輩ですよ」


 だって、奈那先輩だから。


「意味わかんないよ」


 言いながらも、奈那先輩は二へっと笑った。


 その笑顔は、今まで見たことないくらい、隙だらけの、腑抜けた笑顔だった。


 それが俺は、途方もなく嬉しかった。


「また会えます。また好きになります。また告白します。今度こそ守ります。一生守ります。一生、隣にいます。今ここで、誓います」


 確かに伝わるのは、奈那先輩の体温。


 奈那先輩は、ここにいる。

 夢だろうと、記憶の中だろうと、今、この瞬間は、俺の目の前にいる。


 だから誓う。


 俺は、奈那先輩を、取り戻す。


「私が君を忘れても?」

「上等です」


 トン、と、奈那先輩が、俺の胸に顔を埋めた。


「嘘だよ。私も、きっと好きになる、君を。忘れても、絶対」


 奈那先輩が俺に顔を近づける。

 吐息がかかるほどに。


 唇が微かに触れた頬。

 俺がハッとして奈那先輩を見ると、奈那先輩は、少しだけ顔を赤くして、目を細めていた。


「それじゃ、またね」

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