インク瓶に金魚は泳ぐ

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インク瓶に金魚は泳ぐ

 スターマインの火花が名残惜しそうに消えていくところを、電車に揺られながら眺めていた。

 近所の川で毎年行われる花火大会は玉数こそ少ないが、地元の人からしてみれば一大イベントである。花火会場へ至る道には夜店も出て、地元の子供たちが押し寄せて大いに賑わっているのが電車からも見えた。

 夏の終わりを告げる花火だ。

 新しい季節を迎えるための花火だ。

 しかし私は用事を済ませるために出掛けていただけで、花火を見に来たわけではない。スターマインが見れたのも偶然で、今日という日に花火大会があることさえも把握してはいなかった。

 きっと次の駅で花火の観客がどっと乗ってくるのだろう。席に座れていて良かった。私の降りる駅は、山に程近い最果ての駅なのでまだしばらくは乗り続ける予定なのだ。

 開いたままの本を再び読み始めるが、眠くなってしまって文字を追ってはいても内容が頭に入らない。電車が駅に着き、遠くに人の気配と喧騒を聞きながら、うとうとと電車の揺れに身を任せて微睡みの中へと堕ちていく。



 バサリという音と、腕の中が軽くなった感覚に目を覚ます。表示を見れば着いたのは目的の駅で、もう自分以外は降りてしまったのか誰も乗っていなかった。ただ美味しそうなソースや甘ったるい綿菓子の匂いが電車に残っていて、空に残るスターマインの火花のような残り香に祭の後を思う。

 頭をもたげた瞬間、ぐらりと自分の意図しない方向に頭が傾いだ。はて、どうしたのだろう風邪なんて引くわけも無いし……と片手で頭を支えて立ち上がり、窓ガラスに自分を映す。

 電車の窓に映る自分。

 



□□□



「……で、なんで僕なわけ?」

 縁側で隣に座る彼は目を細めて不服そうに言う。朝から急に呼びつけてしまったので無理もないだろう。

「そう言わずに……頼りになるのがあなたしかいないのだ」

「僕しか頼る人のいない交遊関係見直した方がいいよ」

「幻想師!?」

 幻想師と呼ばれる彼は面倒くささを微塵も隠さずに、大きくため息を吐きながら組んだ腕の上で頬杖を付くのだった。

 山裾に位置する平屋の日本家屋は、森に近い場所に建っているためにセミの声がやかましい。セミの声を聞くだけで体感温度が上がるようだったが、今日は風が通るので幾分かましだった。秋がすぐそこに来ているのだろう。

 季節を近くに感ぜられる、慣れ親しんだ自分の家だ。今回の非常事態のために呼んだ彼は、私を見るなりあからさまに顔を歪めた。大方、面倒ごとに巻き込まれたとでも思ったのだろう。間違いではないので、立つ瀬がない。

「あなたは頼りになるのだから」

「言われて嬉しくない訳じゃないけど、複雑だな……」

 幻想師は見た目からすればまだ大人とは言えないくらいの年齢なのだろうが、妙に大人びた雰囲気のせいで年齢が不詳だ。

 表情をすぐに表に出し、思ったことをはっきりと言うところは、彼の場合は欠点というよりは美点と言えよう。必要なことはあえて口にし、言うべきでは無いことは決して言わない聡明さを持ち合わせていた。

「そう言わず、どうか助力を頼みたい。ワタシもこんなことは初めてなのだ」

「こんなことがそう何度もあってたまるか」

 コンコン、と私の頭を指先で叩く。ガラスなのに響かず、水が入っているせいで重く鈍い音がする。

「電車で寝てたら祭の金魚を頭のガラス瓶に入れられるとか、絶対宝くじ引くより確率低いだろ」

 泳ぐ金魚を追いかけるように、彼の指がガラスをなぞる。

「大体ーー神様自体、そう多くは実体化してないんだから」

 私は神様と呼ばれるモノであった。

 いわゆる九十九神と呼ばれる存在で、この世で長く大事にされてきた物に心が宿り形を成したものである。九十九神の形は様々だが、稀に異形の頭を持つモノが現れる。私は元々この家主であったおじいさんに大事にされていたインク瓶で、この姿を得たときには頭にインク瓶を携えていた。そのおじいさんも、昨年亡くなってしまったのだが。

「だからとっととインクを紡ぐおねーさんのところ行ってこいっつってたのに」

「居場所を聞いても『彼女は神出鬼没で補足できないから無理』と言ったのはあなたであろう?」

「分かんないものは分かんないもん。無理なら仮のインク入れときゃ良かったじゃん。それなら金魚も入れられなかっただろうに」

「それは少し抵抗があってなぁ」

 インク瓶という名の通り、私には元々インクが入っていた。セピア色の、懐かしさを感じる古い写真のような色。それでいて味わい深く飽きの来ない、綺麗なインクであった。丁度、私の着ている和服のような色だ。生前おじいさんがインクを使いきってしまったために、今は空っぽだった。

 しかしながらインク瓶にインクが無いというのは、些か居心地が悪い。モノとは使われてこそ意義がある。この姿でも大事にされているならばまだ存在意義もあったが、そういう御仁も今は無く不安定な状態にあった。だからといって仮のインクを入れるのは、理に反するような気がした。

 故に元々の色を入れるために、幻想師が“インクを紡ぐおねーさん”と呼ぶ方にインクを作ってもらおうと思っていた矢先に、この事件が起こったのだった。花火大会の日も、彼女の噂を聞き付けて向かったものの会えなかったその帰りだった。

「幻想師よ、金魚をどうすればいいであろうか」

「綺麗だし、しばらくはこのままでもいいんじゃない?こいつも居心地良さそうだし」

 幻想師の視線の先には金魚がいるのだろう、右に左にと彼の目が動いて魚の影を追っている。そしてピチャン、と返事でもするように水の跳ねる音がする。なるほど、確かに中の金魚の姿は見えないが、どうやらこの場所をいたく気に入っているらしい。

 人が自分の目で自らの顔や後頭部を見れないように、私の頭も自らのインク瓶やその中身を見ることは出来ず、鏡に映さなければ見れなかった。

「やった本人取っ捕まえたいしね。落とし物か不法投棄か、いずれにせよこんなことされちゃ堪まったもんじゃないでしょう」

「捕まるものであろうか……」

「どうだろうね?とりあえず頼まれたものは買ってきたから取り付けるよ。買い物っていまだに出来ないの?」

「驚かせてしまうからなぁ。近所には必要以上には出歩かぬ」

「日頃から人に会わなきゃ、慣れるもんも慣れないと思うんだがな。水、取ってくる」

 傍らに置いていたビニール袋から買ってきたものを縁側に並べていく。エサ、カルキ抜き、電池式の酸素ポンプ。最低限、金魚がこの場所で住めるためのものだった。

 水を汲みカルキ抜きを入れて瓶に足し、酸素ポンプを取り付けた。酸素ポンプの本体を置く場所が無いから、側面に透明な養生テープで瓶の側面にべたりと貼り付ける。いそいそと作業しているのを、私は縁側に座ってされるがままになっていた。

「ひとまずこれで必要な装備は揃ったかな。重くない?」

「ああ、十全だ」

 最後に彼は背伸びをして、瓶の中にエサを落としていた。

「鏡で見てきたら?多分想像通りの見た目だけど」

 玄関へ行って姿見で自らを映す。足元は革のブーツ、セピア色の着流しを着て、頭の代わりにあるのは直方体のインク瓶。瓶の底にはポンプの丸いフィルターが沈んでいて、あぶくが水面へと立ち上る。赤い金魚の色は鮮やかで、今は自分と同じように鏡を向いていた。試しに指でつつけば驚いたように一度跳ね、瓶の側面を濡らす。胸びれと尾びれを巧みに使い、赤い残像が残るように美しく優美に泳いでいた。

「ありがとう。この恩はその内返そう」

「いいよ、このくらい」

 縁側に戻り、幻想師に礼を言う。

 彼はトン、と縁側から庭に下りてこちらに振り向いた。

「じゃあ、行こうか」

「行こうって、どこへ?」

「散歩」

「……何故?」

「金魚にも日光浴は必要かろうと思ってね」

 ほら早く戸締まりして、と拒否する間もなく促され、言われるがままに私は幻想師と出掛けるのだった。

 家の前の道を十五分も歩けば、住宅地を抜けて街へと出る。人通りの多いところは苦手だった。この姿は、人を怖がらせてしまうから。物珍しそうにこちらを密かに窺う視線は、居心地が悪い。視線に気付いてそちらを向いても、すぐに目を逸らされてしまう。好奇の目に曝されるのは、誰でも嫌なものである。

 幻想師はそんな私の胸中を知ってか知らずか、私の隣を何とはなしに歩いている。

 看板に引かれて彼はカフェの前で立ち止まる。黒板になっている看板には、おすすめメニューが手描きの絵と共に書かれていた。

「あ、パンケーキ美味しそう。まぁお腹はすいてないんだけどさ。……それに君は食事が出来ないからねぇ」

「ご飯の話は出来ないわけではない。たまにおじいさんの食事を作っていたこともあった」

「そうなんだ。意外だな」

 彼は歩みを進め、私もその後を追う。

「書き物をする人であったから、片手で食べられるものを好んでいた。サンドイッチやバターを塗ったトーストなどを」

「意外とハイカラな人だったんだ」

「朝はパンを食べることが多かった。句を詠む人で近所の人と集まって詠むこともあったけれど、段々と集まりも減っていたな。また一人居なくなってしまった、と寂しそうな顔をしていることも多かった。おじいさんは長生きであったから」

 あるときに、おじいさんが倒れたことがあった。書き物机にいた私はすぐに倒れたことに気付いたが、ただの小さなインク瓶であったために為す術がなかった。家には頻繁に人がやってくる訳ではなかったから、このままではいけないと思ったのを覚えている。何か出来ないかと考えあぐねいていたら、私は体を得てこの姿になっていた。すぐに人を呼び、おじいさんは一命を取り留める。

 それから三年程の年月を、私たちはあの家で過ごしていた。

 あの人は集中すると食事も睡眠も忘れてしまうから、健康のために食べやすいものを作ってみたりした。私は味見が出来ないが、サンドイッチならばレタスやトマト、マヨネーズなど必要なものをパンに挟むだけなので味見をする必要も無い。

 私のことをこの姿になる前も後も大事にしてくれた人だった。若い頃に懇意にしていた方から貰ったインクを、大事に使う人だった。この姿になってからは、思い出話をしてくれることも多かった。

 優しさをくれた人だ、私はあの人に、何か返すことは出来ただろうか。そして、あの人がいないのになぜ私はいまだにこうして姿を保ち続けているのであろうか。

 過去を振り返れば、おじいさんの笑う姿ばかりが脳裡に浮かぶ。もう会うことは出来ないという事実に、寂寥ばかりが胸を渦巻く。

「うわっ」

 驚いた声の方向を向けば、女性が口を開け私の頭を見つめていた。こんな風に驚かせてしまうのも、本意ではない。だからあまり外には出たくないのだ。申し訳なく思い、小さく会釈をしながら通りすぎる。

「待って!」

 するとその女性は私の袂を掴み、引き留めた。三十代くらいの女性だった。小柄で長い髪を高い位置で一つに括り、丸い瞳が印象的な人だ。

「驚いてしまってごめんなさい!あの……こう言っていいのか分からないけれど、あなたの頭は素敵ね。良かったらなんだけど、そこに入れたいものがあるの。いいかしら?」

 丁寧な口調に、彼女の真摯に仕事に臨む姿が窺える。突然のお願いではあったが、私は快く頷いた。きっと悪い人では無いと直感で分かる。それは幻想師も同じのようで、一度店の奥へと戻った彼女を二人で「どうしたのだろうね?」と小声で話ながら待っていた。

「ホテイアオイという植物なの。きっとあなたに合うと思うわ」

 彼女は植物の入った水桶を持ってきてそう言った。茎の根本が丸く膨らんでいて、空気が入っているため水に浮くらしい。

「しゃがんでくれる?」

 手を伸ばし、瓶の中に植物を浮かべる。瓶の中が見えなければ入れた感覚も無いから、どこか不思議な感じがする。

「変、では無いだろうか」

「いいんじゃない?」

「いいと思うわ」

 二人に見せると、すぐさまそんな返事が返ってきた。

「写真一枚いいかしら?」

 彼女はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。写真など撮られたことのない私は棒立ちで、幻想師は隣で手を伸ばしピースをして撮ってもらう。

「お代は?」

「私が勝手に入れたからいらない。代わりに、また会いたいな」

「それでいいのなら……」

「良かった!バイバイ、金魚ちゃん」

 ガラスに顔を近付けて、彼女は金魚にさよならを言う。不意に彼女の顔が近付いて驚き、少し仰け反ってしまう。そんな私を見て、何故だか幻想師は隣で嬉しそうに笑っていた。



□□□



 おじいさんのように、私は日記を書いている。譲り受けた万年筆を手に、今日のことを文字を綴る。

 昨日あんなことがあったと言うのに、今日は悪い日ではなかった。

 頭の瓶に生き物がいるのは、怖い。生き物は私と違い、いつかは死んでしまうものだから。

 書棚にはおじいさんの日記が残っている。最近の日記を開けば、私とおじいさんの日々がセピア色で綴られていた。おじいさんの生きていた日々が懐かしい。日記を読み、思い出に沈むようにその日は眠った。

 言われた通り、私はそれから花屋に行くことにした。幻想師も、昨日の朝は面倒くさそうだったのに気まぐれに様子を見に来てくれた。彼はああ見えて面倒見がいいのである。

 ある日のこと。花屋で話し込んでいると、少年がやってきた。ぎょっとした顔でこちらを見て、無言で店の奥へと行ってしまう。その様子はいつかの彼女に似ていた。

「もう、挨拶しなさい!」

 彼女が少年の背に声を掛けるが、奥へと行ってしまった。

「ごめんなさい、私の子なの。今日は学校が早く終わったみたいで」

 少年は再び出てくることはなかった。少しすると客が増えて、迷惑になると思い私は家へと帰った。

 夕方に幻想師が来た。眠いのか、縁側に面した畳の部屋で眠っている。縁側に座り、夕日を見ていると足音が聞こえた。この辺に来るのは限られているので誰だろうか、と思いそちらを見やると、花屋の少年が玄関先に立っていた。

「こんに、ちは」

「こんにちは」

 小さく挨拶をして彼は私の前へとやってきた。緊張した面持ちで、言いにくそうに口を開く。

「……ごめんなさい。電車でその金魚を入れたのはぼくです。金魚が元気で、あなたに貰われて良かった。……バイバイ」

「あなただったんですね。金魚はここで元気にしていーー」

 ダン、とテーブルを強く叩く音がした。

 振り返ると、幻想師がテーブルの上で拳を強く握っている。彼は不快そうに鼻で笑った。

「虫酸が走る」

 彼が怒っていることがありありと分かる。感情を顕にして、髪をかきあげれば黒い瞳が覗く。立ち上がり、近付きながら彼は言う。

「浅はかだとは思わないか?興味本意で金魚すくいをして、欲のままに金魚を貰って、持って帰ったら怒られるからと親に聞きもしない内に見ず知らずの人に勝手に託して、見に来て金魚が元気なら『あなたに貰われて良かった。バイバイ』だ?馬鹿言うな。こっちはお前に押し付けられて迷惑被ってんだよてめぇで勝手に美談にすんじゃねぇ」

 半ば噛み付くように、幻想師は捲し立てる。その威圧感に圧され、少年は目に涙を溜めて立ち竦んでしまった。

「私は別に構わないのだ幻想師よ。若人にそんなに怒らずとも良いだろう?」

「結果は結果だ。結果オーライで大団円なんて許さない。それとこれとは話が違う。あんたはその甘さをどうにかすべきだし、お前は反省しろ」

 幻想師の瞳に鋭い光が宿る。少年の胸ぐらを掴み、右手で目を隠し耳元に口を寄せ、早口で囁いた。

 何をするか悟った私は「止めなさい!」と強く言ったが、幻想師は止めない。もう彼は始めているのだ。

 彼は“幻想師”。幻想を見せるのが男だ。

 時間としては三分も無かっただろう。

 一通り終わると、彼はニヤリと口角を吊り上げて満足げに少年を解放する。

 少年は放心状態で目を見開いたまま立っていた。

「ごめんな、さ、い」

 言葉を発すると同時に、堰を切ったように泣き始めてしまった。

「今、あなたは、何を見せた……?」

「別に。愚かな少年に最悪の結末見せただけですけど」

 おそらくーー私が金魚を捨てる場合や、すぐに死ぬ様子を見せたのだろう。幻想師のことだから、もっと酷い幻想も見せているかもしれない。

「お前の行いを悔いるがいい」

 突き落とすように彼は告げた。

「幻想師!!まだ子どもなのだから」

「子どもだからどうした。悪いことを悪いと言わないと繰り返すぞ」

 少年は袖で涙を拭う。ひっくひっくと嗚咽が漏れた。

「ぼくは、どうすればいいですか……?」

「このようなことを今後しないのならそれでいい。そうであろう?幻想師」

 幻想師はわざとらしくため息をついた。

「小遣いは?」

「四〇〇円……」

「なら十分だな。いいか、よく聞け。水槽はここにある。お前の金魚はここに泳いでいる。ならばやることは一つだ」

 ぽん、と少年の頭に幻想師は手を置いた。少年の肩がびくりと跳ねたが、その手は先程とは違い、ゆっくり動いて優しく彼の頭を撫でる。

「一日に二度、エサをあげに来い」

「ーーはい!」



□□□



「こんにちは!」

 ランドセルを背負った少年がやってくる。縁側にいた私が見えたのだろう。玄関のチャイムを押さず直接こちらへやってきた。

 私は彼の前にしゃがみ、金魚にエサをあげる。靴を脱いで畳に座ると、彼は「あのね」と話し始めた。

「今日の体育はドッジボールだったんだけど、最後の一人まで残ってさーー」

 彼は学校帰りにやってきて、今日のことを話してくれる。そうしていると幻想師もやってきた。

 少年は幻想師のことを、始めこそひどく怒られたために怖がっていたが、今はもう怖がっておらず懐いていた。彼は怒るために怒っただけだ。あれからは、むしろ少年を可愛がっている。

 もしかしたら最初からこうなることを予測して、幻想を見せて反省させたと言われても納得できる。やはり、彼は面倒見がいいのだ。

「少ししたら人が来るよ。もう要らないかもしれないんだけど、呼んだから会ってみて」

 しばらくすると、モノクロの服装のかわいらしい女の子がやってきた。歳は幻想師とそう変わらないだろう。

 彼女はニッコリと微笑んでえくぼを見せる。

「やっほー!幻想師ちゃん元気にしてたー!?」

 その快活な一言で、彼女自身の性格がカラフルなために彼女の服に色はいらないのだと分かる。

 彼女が“インクを紡ぐ人”だ。曰く、この世で視認できる色を移しとり、インクにすることが出来るという。

「はじめまして、お二人さん。依頼は聞いてるよ。けどもね、私はその依頼を聞けなさそうなんだ。思い出のインクと私のインクは違うものだからね。その着物と同じ色とは聞いてるけど、あまりオススメはしない。特に今のインク瓶くんなら、必要ないんじゃないかなっと思うわけですよ」

 縁側から彼女は部屋へと入り、私と対峙した。

「多分なんだけど、あなたがそのインクに拘っていたのはおじいさんのことを求めていたからでしょう?こう言うと厳しいかもしれないけれど、その人はもうこの世にいない。けれどおじいさんはそのインクで書いた文字にいる。だからやっぱり、もうセピア色のインクはいらないんだよ。セピア色のインクは、君の記憶の中で消えることはない。インク瓶はもう満たされているしね」

 彼女はポケットから透明な液体の入ったインク瓶を取り出した。

「だから!今回は!大サービスでお似合いのインクをプレゼント!!」

 私の頭をじっと凝視する。居心地が悪いが、多分動いてはいけないのだろう。

 よし、と何かが完了したようで彼女はインク瓶の蓋を開け、中に息を吹き掛けると、透明なインクの色は息に触れたところから徐々に変わっていった。全ての色が変わると、オレンジがかった赤いインクが出来上がる。

「金魚の色の、インクだ」

「そう。いやぁ我ながらいい色だね!私は色を記憶してインクにするんだ。今の君をインクにするなら、この色のインクかなと思ってね」

 インクを二つの瓶に分けて、私と少年に一つづつ手渡した。少年は嬉しそうに、インク瓶を光に透かす。

 胸の内に空いた空虚は、いつの間にか埋まっていた。あれはインクが無いことによる空虚ではなく、おじいさんが居なくなってしまった喪失によるものだったのだと今ならば分かる。

 思い出は美しいものだが、引きずるものではないのだろう。私とおじいさんの日々は、日記の中に紡がれた文字の中にある。

 今、空虚には幻想師や花屋の女性や少年の温もりが詰まっている。インク瓶には金魚が泳ぎ、返事をするようにピチャンと跳ねた。

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