第十一章 「聖杯浸食」

 ナイフを鞘に納めたあと、同じくベルトに吊ってある細長いケースを開けた。ガラス細工に触れるような繊細で、中に入っているものをつまんだ。

 刺すような冷たい触感。慎重にケースから引き抜いて、目の前にかざす。

 聖杯連結補助器〈コーヌ〉。細長い円すいのかたちをした黒い結晶。

 倒れたリンの眼前に突きつけた。

「これが何だかわかる?」

 リンの反応はなかった。相変わらず怖い顔をしてルナをにらんでいる。

「……これは、イドラを召喚するアイテム。ここみたいなスポットの近くで地面に突き立てると、遠くからイドラを呼び寄せることができるの」

 リンの表情に、少し恐怖がにじみだす。

「そんなもの、どこで……」

「今、キャメロットと戦っているマリアさんからもらったの」

「先輩たちと戦っているのが、そのマリアって人なの? 襲撃のこと、ルナは知っていたの?」

「知っていたよ」

「それがわかっていれば、準備できたのに! どうして報告しなかったの?」

「だって、アタシはリンを倒したいのよ。倒してイドラ化させたいの。マリアさんがその機会を作ってくれるのなら、協力するわ」

「そんな……あなたは、アヴァロン・プロダクションのアイドルなんでしょ?」

「うるっさいな! 自分の大事なことなのよ? これを逃したら後悔するのに、それを優先して何が悪いのよ。

 リンだって……いえ、、リンこそ、アタシと同じことをするはずよ! あと四年しか時間がないんでしょ? 自分のことを優先する気持ちを誰よりもわかっているんじゃないの?」

「だって、それは……」

「うっざいな、偽善者! お前なんかがアイドルになれるわけがない!」

 リンが動揺している。言葉を継ぎたくても、出てこないようだ。口が震えている。

「やっぱり、お前は汚れるべきよ」

 コーヌで、リンの右ほおをぺちんと叩く。

 先ほどまでの凛々しい瞳は、一転して、ぐらぐらと揺れ動く。不安にさらされて、すがりつく希望を必死に探しているように見えた。いじめたくなる顔だ。

 リンの反応を自分の思い通りにできる。彼女の未来を手に入れた気分だった。誰かの上に立っているという実感に、背中がぞくぞくする。

 ルナは、立ち上がり、リンから少し離れる。

 黒い結晶を地面に向かって投げ放つ。ざくっと、三センチくらい地面に埋まった。

 その直後、結晶がとろりと溶けた。黒い液体が円形に広がる。そして、液体が通った箇所は、地面が消失していく。まるで、ぽっかりと穴が開いたようだった。ひとが余裕を持って出入りできる大きさにまで広がった。

 穴の奥に気配。黒い物体がうごめいている。その物体が次第に大きくなっていく。

 淵に手がかかる。人間と同じ大きさ。しかし、真っ黒な手。もう一本の手も淵をぐっとつかんだ。続いて、黒く丸い物体が出てきた。頭だろうか。這いずり出るように、ずるずると長く、太いものが続く。

 やがて、黒い物体のすべてがこちら側に現れた。それは、人型イドラだった。

 大きさは成人男性と同じ。全身がマネキン人形のようにつるつるとした質感。顔は、のっぺらぼうで、口のようなくぼみがあった。手足の造形はしっかりしているが、ときおり動く様子は、機械のようにぎこちない。

 人型イドラが振り向いて、召喚者であるルナを見た。不自然にしか見えない動きでルナに近づいてくる。それが一歩動くたびに、違和感と嫌悪感が積み重なっていく。

 ルナの目の前でイドラが止まる。顔を近づけてルナを観察する。

「近寄るな! 気持ち悪い!」

 そこにいるだけで顔をしかめてしまう。何かをするだけで、一歩引いてしまう。心の中は、イドラを否定する言葉で満たされていた。

 ルナは思わず、ナイフを抜き放ち、右から左に振りぬく。イドラの腹を切り裂いた。

 人型イドラが腹の傷を確認する。ぎぎゅううぅっ! と奇声を上げて、ルナに対する敵意をむき出しにした。ルナを遠ざけるように腕を振る。風を裂く重々しい音。ルナは上体を後ろに反らして避けた。

「怒るなよ……お前が襲うのはアタシじゃない」

 ルナが両手のナイフにインフルエンスをまとわせた。リンから吸収したアドミレーションを注ぎ込む。そして、ぐっと身を縮めるように構えた。

「これは、その準備だ!」

 ばねが解放されたように飛び出す。思いつく限りの型で、目の前のイドラを切り刻む。違和感と嫌悪感を、イドラに対してぶつけていった。

 全身に五十を超える傷が刻まれると、人型イドラはひざをつき、呆けるように上を向く。

 イドラは、がたがたと震えていた。ナイフの傷口からものすごい勢いで灰色の斑点が広がっていく。やがて、全身に広がりきると、もともとの黒色と混ざり合って黒くなった。

 次の瞬間、人型イドラの全身がぼこぼこと醜く膨れあがる。傷口は、内側から盛り上がったアドミレーションのかたまりで消えてしまった。風船のようにぱんぱんに膨らんでいく。

 膨張が落ち着いたあと、収縮をはじめた。しかし、元の姿には戻らなかった。

 目の前に現れたのは。ぶくぶくに太ったイドラだ。

 二メートルを超す巨漢。突き出た腹や、指先まで太った手が嫌悪感をさらに増幅させる。

 全身をぶるぶる揺らしながら、イドラが立ち上がる。どしっ、どしっとルナの元にやってきて、膝立ちになる。頭を下げ、手を組み合わせた。ルナに恭順を示すように見える。

 目の前の豚のように醜悪なイドラに命令した。

「お前が聖杯浸食をするのは、あそこで倒れている少女だ」

 人型イドラがリンの方を見やる。興味を引いたのか、顔をリンの方に向けたまま立ち上がり、彼女の方に向かっていく。

 ひっ、とリンが息を詰まらせ、倒れたまま後ずさる。

 必死な形相だった。懸命に手足を動かしているが、たいしてイドラから離れていない。

 人型イドラの歩みは止まらない。リンとの距離が縮んでいく。

(ああ、もうムリ! ムリムリ……。あんなに大きく膨れた醜いかたち。吐き気がする。

 見るに堪えない! なんなの? あの存在は! あんなに汚くて、気持ち悪いものが、この世にいて、いいの? あんなに間違ったものは、ここから消してしまうべきよ!

 でも……あの豚みたいなイドラを見ていると、アタシが正しいんだっていうことが、わかる。そして、これからリンがあれに聖杯浸食される。そうなったら、リンはあれ以下の存在だ。そう思ったら……)

「ムリだけど……最高の気持ちだわ」

 人型イドラが重そうなからだを揺らして、リンの方に一歩ずつ近づいていく。

 リンは、うつ伏せになり、手足を虫のように動かして、這うよう逃げている。

 ルナがその光景を目に焼き付けながら、ぶつぶつとつぶやく。

「四年前、アタシは誰にも助けてもらえなかった。捕まった。聖杯浸食された。汚された。違うものにされた。同じ四年前、リンもイドラに襲われた。でも、彼女はキャメロットに助けられた、らしい。アタシは汚された。お前は汚されなかった。どうして? アタシとお前で何が違うの? 実力? アタシにはそのときまでの一年間、アイドルとして戦ってきた経験があった。お前はただの子どもだった。ほら、違う。これまでの行いの差? これも違う。アタシは、あのくっだらない母親の言うことや、あいつの『お願い』という『命令』に、従順だった。いい子にしていた。これが悪かったの? そんなことない。そんなのおかしい。じゃあ、運、なの? リンが襲われた場所は、近くに大手のプロダクションがあった。たまたまキャメロットが派遣された。でも、アタシがいた場所はそうじゃなかった。街を襲ったイドラが、たまたま強力な個体だった。誰にも止めることができなかった……。そういうこと、なの?」

 ルナの中で、憤りが爆発する。

「何よそれ! 不公平よ! 理不尽だわ!」

 人型イドラが、リンに追いついた。彼女を真上から見下ろしながら、最後の一歩を踏み出す。

「リンが、イドラに聖杯浸食されるのは、仕方ないことよね! だって、四年前に、リンには良いことがあった。アタシには悪いことがあった。だから、今ここで、リンには悪いことがあって、アタシには良いことがあるの。それが当然のことなのよ。本当は、どこかでアタシたちを見ている神様がすることよ。でも、いくら待ってもやってくれないじゃない! だったら、アタシがするしかないでしょ! ねえ! どこか間違ってる? アタシが正しいよね。アタシが正しいなら、お前は間違っているということよね? そうよね、リン!」

 リンが後ろを振り返った。間近に迫り、イドラの姿がはっきりわかったのだろう。驚いたように、目を見ひらき、口をわななかせる。

「四年前と同じ……変質者〈ディヴィアント〉」

 リンの恐怖にふるえた声。

 四年前ということは、リンが絶望と希望を同時に味わうきっかけとなったイドラだろうか。再びそれに襲われるという因縁は、ルナの行いが正しいという証明なのかもしれない。

 リンは、仰向けのまま、後ずさる。

 いよいよ、人型イドラの大きな手、太い指が、リンの足首に巻き付いた。

 リンの悲鳴。耳をつんざくように強く、痛々しい。

 懸命に腕と背中でふんばっている。イドラの手を振りほどこうと、蹴りを入れる。

 しかし、人型イドラはびくともしない。何事もなかったように、リンの脚を引っ張り続けた。

 イドラが膝をつく。上体を倒し、リンにのしかかる。

「いやぁっ! やめてっ! やめてやめてやめてぇぇっ!」

 リンの恐慌。絶望を臨み涙で濡れた顔。死に物狂いの抵抗。両手、両足で、イドラをめちゃくちゃに打つ。まったく効いていない。

 太くて丸い両ひざが足枷となった。節のない五指で両腕を押さえこまれた。

 膨れすぎてしまりのない、黒くて大きい肉塊。それがリンを抱き込むように覆いかぶさる。完全に組み敷かれた。

 黒いかたまりの下から、言葉にならない声。くぐもって聞こえる。

 リンが人型イドラの胸を腕で押し、顔をこちらに向けて、言葉を発した。さきほど以上に苦痛で歪み、切羽詰まっている。

「どうしてよっ! なんで、ここまでされなきゃいけないの! わかんないよっ! 全然わからないよ! わたしがルナに何をしたっていうのよっ!」

 リンがイドラに襲われる様子に見入っていたルナは、夢から覚めたような面持ちで答えた。

「なんでって……。アタシが、アタシを救うために必要なことだから。しょうがないよね」

 イドラが自分の重さでリンの腕を押し返す。リンの苦悶の表情。ううぅぅっ! っという悲痛なうめき声をあげる。

 リンは、抵抗する力も、生成できるアドミレーションもないようだった。リンのうめきさえもも、イドラ越しではまったく伝わってこない。

「ほら、もっと力強く、もっと速く、駆け抜けないとっ! 先に、あぁ、未来だっけ? 進めないよぉ? あははははっ!」

 人型イドラが別の動きをはじめた。

 リンの上にのしかかったまま、腕を突っ張り、上半身をのけぞらせて震えている。

 イドラの垂れ下がった胸から、先のとがった黒い円すいのかたちをした角が現れる。ちょうど、コーヌと同じ形状だが、こちらの方が太くて長かった。

 あれが聖杯浸食を行うときに出てくる「イドラの角」だ。

 ――イドラの角を知るためには、イドラが持つ「疑似聖杯」について知らなければならない。

 疑似聖杯とは、イドラの体内にある、固く凝縮したイドラ・アドミレーションである。ほとんどが器の形状をしており、「杯」と名付けられた所以となっていた。

 そのイドラがそのかたちであるために必要なもので、言わば、イドラのコアだ。

 疑似聖杯は普段、イドラの体内に隠されているが、死を迎える直前に体外に露出される。アイドルのイドラ退治は、この現象を利用している。すなわち、アイドルはイドラにダメージを与え続けて、コアを露出させ、それを破壊してイドラを消滅させるのだ。

 そして、疑似聖杯が体外に露出されるもう一つのタイミングがある。それが聖杯浸食のときだ。ただし、そのときは、器ではなく、角のかたちになる。からだのどこかから、角を露出し、浸食の対象となるアイドルに突き刺し、そこから聖杯に侵入するのだ。

 そして、聖杯浸食が完了したあとは、そのアイドルの顔を覆う「イドラの仮面」となる。

 仮面は、イドラとアイドルの聖杯が、浸食直後で完全に融合していない証であり、時がたち、聖杯が融合して一致を始めると、仮面がだんだん小さくなっていく――

 一次審査で学びなおした聖杯浸食。それを目の当たりにしていた。異様さにおぞけが立つ。

 リンは目の前に現れた黒く鋭い角を凝視していた。それがゆっくりと自分の胸に降りてくるのを見つめている。角から逃れるために、腕に力を込めようとした。からだを動かそうとした。アドミレーションを生成しようとした。しかし、ルナとの戦いで力尽き、アドミレーションも底をつき、イドラに組み敷かれているのだから、どれもできないはずだ。

 リンがうめく。感情と思考に、からだついていかないもどかしさだろうか。

 逃げたいのに、逃げられない。よくわかる。ルナが母親にセル・フロスを無理やり飲まされたときと同じだ。

「やだ、やだやだやだっ! お願い、やめてぇっ!」

 リンの懇願の言葉。イドラには、もちろん届かない。言葉を理解するような存在じゃない。ルナも無視をした。これはルナにとって大事なことだ。止めるわけがなかった。

 イドラの角が、ついにリンの胸に突き刺さる。

「ぐっ! うううぅぅぅぅぅっ」

 胸に杭がうまっていく。その激痛に耐えるような苦悶の声。やがて、がまんの限界を超えたのだろう。彼女の口から叫びが決壊した。

「いやぁあああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ああ……今、リンの大事な何かが侵害され、望みが絶たれたんだ。

 あまりのうれしさに脳がしびれる。ようやく、リンを自分と同じように汚すことができた。

 常軌を逸した光景に吐き気がする。イドラがうれしそうに、気持ちよさそうに震えている。

 抑えられない悲しみが襲ってきた。これが聖杯浸食……自分もこの辱めを受けてしまった。

 それと同時に、憤りが胸をよぎる。こんなに不快で最低最悪な行為を、自分もされたんだ。

 異なる感情が激しく入り乱れ、渦巻く。自分の心の中でさえ、現実感がなかった。

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