第六章 「わたしが駆ける理由」

 三日後。リンはレッスンコーチから実技審査の結果通知を手渡された。

 最終審査に進むのは、三人。ルナ、ジェシカ、そして、

「わたし……」

 本当に信じられなかった。ルナがクレアに勝利したことや、その戦いの様子を伝え聞いたことで、自分の実力不足を痛感し、意気消沈していたからだ。

 さらに、不安で落ち着かないことがあった。

 たしかに、キャメロットの一員になることを心から望んでいた。しかし、それがここまで現実的になると、不安になってくる。果たして、自分にその資格があるのだろうか。

 ――大丈夫。リンは選ばれた子なの。何でもできるんだから。

 心に、「彼女」の声が響く。

 また聞こえはじめた。不安を感じることがきっかけなのかもしれない。とにかく、この声を聞くと、落ち着くことができない。

 結果通知には、最終審査の内容が記されていた。

 最終審査は、一週間後。キャメロットの遠征先で行われることになった。

 遠征先は、隣国の北方にある山間部。そこでイドラが頻繁に目撃されるという情報があり、ISCIからアヴァロン・プロダクションに対して、現地調査とイドラ掃討の依頼があった。

 隣国のプロダクションとの合同ライブとなり、キャメロットとリンたち候補者の合計六人が参加することになった。候補者が参加することに関しては、ISCIや隣国と調整済みで、候補者たちの行動の責任は、すべてアヴァロン・プロダクションが負うことで合意したそうだ。


 最終審査の準備を進めているとき、マーリンから呼び出された。

 遠征準備の一環で、実技審査の合格者がひとりずつキャメロットと交流し、互いの人となりや能力、思いを共有するミーティングを行うらしい。

 集合場所は、講義棟の一階の端にある談話室だった。

 リンは、集合時間ぴったりに少し緊張してドアをノックした。部屋の中から「どうぞ」という男性の声。プロデューサーのマーリンだ。

 リンは、名乗ったあと、部屋の中に入る。ドアのそばにマーリンが立っていた。

「どうぞ、中に入ってください」

 笑顔で迎えるマーリンに会釈をして、部屋の中を見渡す。

 味気ない講義室とは違い、カーペットが敷かれ、安楽いすが五脚、車座に配置されている。明るさを落とした柔らかい照明、暖炉のかたちをしたストーブ、それを囲むマントルピース。くつろいで話ができそう雰囲気だった。

 部屋の奥側にある三脚の安楽いすにキャメロットが座っていた。残りの二台がマーリンと自分のものということだろう。

「リン・トライストです。よろしくお願いしますっ」

 真ん中の席にいるナタリーと目が合った。彼女は柔らかく微笑み、リンに向かって手を振る。

「改めて、自己紹介するね。ナタリー・セレネスです。楽しい戦いだったね」

 リンも笑みを返した、つもりだったが、緊張でどんな顔をしていたのかがわからない。

 他の二人に視線を移す。

 左側に座るルーティは、背筋を伸ばしていすに座り、澄ました表情でリンを見ている。

「ルーティ・ブルーム。よろしく」

 右側に座るクレアは、ちらとリンをうかがったあと、顔を伏せた。

「クレア・アトロンです。よろしく、お願いします……」

「空いている席にお座りください。今、お茶をいれますね」

 マーリンがそう言って部屋の隅に置かれたテーブルの上で、お茶の準備を始める。

 リンは、正面に向かって左、ルーティの右側のいすに座る。

 右隣りにあるサイドテーブルに、マーリンがティーカップを置く。

「ありがとうございます」中身は紅茶だった。

 新鮮な香りに、ほっと落ち着いた気持ちになる。カップの隣には、ショートブレッドが添えられていた。バターの甘い匂いに食欲をそそられる。

 マーリンもソファーに座り、紅茶を一口すすったあと、さて、とあらたまる。

「まずは、先日の実技審査の様子を交えて、遠征時の戦い方を検討しましょう。

 リンさんには、遊撃手というポジションが最も輝けると考えています。

 ドライブでステージを駆けまわり、三人それぞれの行動に合わせて支援攻撃。そして隙あらば、束ねた投げ槍で渾身の一撃をお見舞いする。

 遠征時に、このような連携ができるように準備をしたいのですが……。リンさんは、何か希望がありますか?」

 チームの中で戦った経験がないリンはどう答えればいいのかわからなかった。

「あのっ、マーリンさんが提案した戦い方で、問題ありません。えっと、遊撃手だから……みんなとともにとか、みんなのためを考えながら戦うってことですよね」

「そうです! キャメロットは、チームワークがコンセプトのユニットですからね。

 では、リンさんを含めたチームの戦術を考えていきましょう。ナタリーさん、リンさんと勝負して、どんな感想を持ちましたか?」

 ナタリーは、実技審査のときを思い出して、小首をかしげる。

「コンクエストスキルはすごかった! 車と同じくらいの速度だったんじゃないかな。それを目の前で見せられて、とてもびっくりしたよ。たった三歩でトップスピードっていうのもすごいところ。でも、止まるときに不自由するのは、何とかしないとね……。

 あとは、アドミレーションを聖杯に留めておくことが苦手なんじゃない? 輝化の光が真球状にならず、炎のように燃え上がっていたのが気になった。今のところ、問題はなさそうだけど、アドミレーションを無駄に消費してしまうのがもったいないね」

 ルーティがナタリーの話を引き取った。

「それって、リンのアドミレーション生成量がとても多いからだと思う」

「ああ、そうだった! 私もそう思って、聞こうと思っていたんだ」

 ナタリーも同意した。しかし、リンにそのような自覚はなかった。

「わたしのアドミレーションは、どれくらい多いんですか?」

 ルーティが答える。

「尋常じゃないほどよ。おそらく、私たちの誰よりも、アドミレーションの生成量が多いわ」

「そんなにっ? 自分の聖杯に気づいた時から、ずっと今と同じ状態でした」

 ルーティは、少し考えた後、さっぱりとした顔でリンに応える。

「リンのアドミレーションのこと、気になるわ。……でも、今考えることじゃないわね。とにかく、アドミレーションを無駄に消費しないように輝化に慣れる必要があると思うわ」

「アドバイス、ありがとうございます。いろいろ教えてください」

 リンが応えたあと、マーリンが、クレアに問いかける。

「クレアさん、何か気づいたことはありましたか?」

「えっ? えーっと……槍の使い方に慣れると、もっと強くなれるかも……。リン、さんは、投げ槍を接近戦で使っているので。槍なら、わたし、教えることできます」

「ぜひっ、教えてください!

 あと、リンって呼んでください。クレアさんは十七歳ですよね? プロフィールで見ました。わたしは十六です。ナタリーさんとルーティさんは十八歳なので、わたしが一番年下です。よろしくお願いします! 先輩!」

「せ、先輩!? はじめて言われた……なんか恥ずかしい……」

「クレアも、先輩らしくなったよ!」ナタリーがクレアを励ます。

「ナタリー、あなたは、もっと落ち着いて先輩らしくなってほしいんだけど」

「えーっ? マジで! そんなに落ち着いてない?」

「そういうところよ」ルーティがため息をつく。

 リンは、思わず吹き出してしまった。

「あははっ! みなさん仲が良いんですね! うらやましいなぁ」

 キャメロットの三人は、照れて赤くなった顔を見合わせて、笑い合っていた。


「実技審査の終了後、ナタリーと何を話していたんですか?」

 マーリンのことばをきっかけに、リンは大切なことを思い出した。

「たしか、『故郷を救ったアイドルのお姉さんは、どこ?』だったかな……」ナタリーが応える。

「はい、そうです。今日、わたしが一番話したかったことです」リンは姿勢を正す。「四年前、モイトゥラという街でイドラの襲撃がありました。キャメロットが駆けつけてくれたのですが、そのときの遠征メンバーを教えてください」

 マーリンがサイドテーブルに置いてあったタブレット端末を起動した。

「四年前、モイトゥラ……。当時の報告書を確認してみるよ」

 彼は、慣れた手つきで操作を続ける。

「あった。そのときの遠征メンバーは、『キリア・エクスフィリエンス』さんですね」

 マーリンの言葉に、ナタリーとルーティが驚く。二人とも「キリアさん」とつぶやいた。

 キリア・エクスフィリエンス。四年前のキャメロット・メンバーの中で最年少だった。

 誰もが彼女のことを「優等生」と評し、レッスンや任務に対して真摯に取り組むすがたがそれを裏付けていた。実力、人気ともに次世代のエース候補と呼ばれていた。

 その評判通り、キリアは、着実にランクを上げて、わずか数年でトップアイドルとなる。

 その後、キャメロットを卒業。国際的にアイドルのスカウトやイドラの討伐を行う、ISCI直属の聖杯探索ユニット〈ワールドツアー・ユニット〉「カリス」に所属した。

 しかし、一年もしないうちに任務中に行方不明となる。当時のカリス・メンバー全員が行方不明となっているので、生死も定かでない。

 マーリンが補足する。

「キリアさんが卒業を決める直前、私がキャメロットの担当プロデューサーになりました。ナタリーさんとルーティさんも同じタイミングでキャメロットに加わっています」

 ルーティがうなずき、難問に取り組むような険しい顔になる。

「彼女がトップアイドルになったとき、プロダクションですれ違ったの。キリアさんはとても楽しそうだったわ。

 でも、キャメロットを卒業するときは、悩んでいたのかな……。思い詰めた表情だったの。キリアさんに何があったのか誰もわかっていないのよ」

「わたしを助けてくれたアイドルは、キリアさん。今は行方不明。なんですね……」

 ナタリーと目が合った。

「リンは、キリアさんに会いたかったんだ?」

「はい。彼女は、わたしにとって大切な人です。命の恩人で、思いの出発点になった人です」

「四年前のモイトゥラで、二人の間にどんなことがあったのですか?」

 マーリンに尋ねられ、リンは自分の思い出の世界に足を踏み入れる。そこに行くたびに、ありありと心に浮かび上がるのは、キリア。そして、彼女への憧れに強く結びついた、今は亡き母親のことだった。


 *

 今から六年前。十歳のある日。リンは、モイトゥラの総合病院にいた。

 一か月前、激しい頭痛と動悸で緊急搬送された。症状は三日で治まったものの、原因不明だったため、一週間の検査入院をした。今日はその検査結果を母親といっしょに聞きに来たのだ。

(もうどこも痛くないのに……。早く遊戯室に行きたいよ。みんな待ってるのに……)

 ようやく診察室から自分の名前が呼ばれた。

「呼ばれたよっ。お母さん! 早く入ろうよ」

「リンはここで待っていて。お母さんだけ聞いてくるから。お医者さんのちょっと難しい話なの。聞いたあと、リンに教えてあげるからね」

 リンはしぶしぶ理解して、中待合のベンチで母親を待つことにした。

 友達といっしょに遊ぶために持ってきた、おもちゃのマイクをもてあそびながら静かにしていると、医者と母親の話す声が聞こえてきた。

 医者の声は落ち着いていた。しかし、母親の声がだんだん大きく激しくなっていく。リンが悪いことをして怒られるときと少し似ていた。

 やがて、母親がすすり泣く声が聞こえてくる。

 いつもと雰囲気が違う、切羽詰まったような口調。そのような母親と接したことがなかった。

 いったい診察室で何が行われているのか。リンは言いようのない不安に襲われた。

 何が起こっているだろう。診察室の扉に手をかける。開いた途端に、母親の叫びを聞いた。

「どうしてっ! どうしてリンが二十歳で死ななくちゃいけないんですか!」

 その言葉は、リンのからだとこころを貫いた。その衝撃でおもちゃのマイクを落としてしまう。床に触れ、転がるときの乾いた音。空回りする思考のようだった。

 こちらに振り向いた母親と医者の二人の顔には、驚き、焦り、罪悪感が浮かんでいる。母親の顔は、涙で濡れていた。

「わたし……二十歳、死?」

 意味を理解しようとつぶやく。

 母親が、立ち上がり、リンのところにやってくる。そして、ぎゅっと抱きしめられた。

 まるで母親がリンの存在を確かめるようだった……。

 リンが抱えた病は「聖杯肥大症」と呼ばれていた。

 脳内の、前部帯状回と呼ばれる領域に存在する「巨大紡錘神経細胞」。その密度が通常のヒトよりも高く、その細胞から形成されるニューロンネットワークが過密になり、脳が肥大し、梗塞や炎症を引き起こすという病だ。

「聖杯」という言葉が使用されているのは、巨大紡錘神経細胞が聖杯機能をつかさどっているという仮説があるためらしい。

 リンの場合、十歳から、脳内の細胞密度が過度に高まっていき、二十歳となる時点で脳が耐えきれないと診断されたのだ。

 それからの二年間、リンに待っていたのは、検査と治療の毎日だった。

 聖杯の存在が確認されてから、症例が非常に少ない病気だった。

 精密検査をして、考えられる仮説を検証し、確定した治療法を続けて様子を見る。リンは入退院を幾度も繰り返しながら、それを続けていた。

 しかし、調べれば調べるほど、試せば試すほど、リンが二十歳になるころには、脳の働きと心臓が止まることが確かなものになっていく。


 今から四年前。リンが十二歳になったばかりのとき。

 その日で、計画された検査のすべてが終了した。最終的には、病の進行を遅らせる対症療法で時間を稼ぎ、医療と聖杯研究の進展を待つ、ということになった。

 リンは、母親とともに病院を出た。二人とも何も言わずに歩き出す。いつもと同じように最寄りの駅で鉄道に乗り、帰宅するのだ。

 検査と薬漬けの毎日がやっと終わったことはうれしかった。しかし、残り八年の命だと確定したこと、もうすぐ死んでしまうことをどう理解すればいいのかがわからない。

 十二歳のリンにとって、あと八年という時間は長すぎて、二十歳の自分が想像できなかった。それでも、これまでに出会った先生や医者のような「大人」になることができないのだと思うと、寂しさを感じることはできる。

 母親は、この二年間で笑うことがなくなった。さらに、普段の生活をしているときに突然泣き出すことが多くなった。リンの顔を見ただけで泣いてしまうこともある。今も、この曇り空がよく似合う顔だった。

 母親を見ていると、自分が彼女を苦しませているような気分になる。だから、最近は顔も合わせないし、話しかけることもなくなった。

 まるで、この世の終わりを見てきたような表情。先に何もないことを確信し、努力が徒労に終わることに慣れきった表情だ。母親のそのような姿は嫌いだった。

 最寄り駅が近づく。

 そこには、いつもと同じ光景が……

 待っていなかった。視界が開けたとき、そこには、絶望の光景が広がっていた。

 駅前の広場に、四体の人型イドラがいた。

 くもの子を散らすように逃げ惑う人々。それをイドラが後ろから追いまわしている。

 中年の男性に近づき、容赦なく腕に付いた鋭利な爪で彼の背中を切り裂いた。

 男性の絶叫。背中には、傷口が真っ黒の大きな裂傷ができていた。その傷口から、黒い煙のようなアドミレーションが流れ出てくる。イドラは、嬉々としてその煙をむさぼる。口に似た器官を使って吸い集めて、飲み下す。

 次第に黒い煙が細くなり、途絶える。男性は動かなくなった。

 母親が鋭い口調でリンに伝える。

「リン、ここから早く逃げて! 病院まで戻りなさい!」

「お母さんは?」

「私は、リンの後を追いかけるから。先に行って! さあ、早く!」

 リンは母親の言う通りに、来た道を引き返す。「走って!」と急かされるが、母親のことが気になって進むことができず、振り向いた。

 母親の大声に気づいたのか、イドラが顔を上げた。リンや母親がいる方向をじっと見つめたあと、母親に向かって迫っていく。

「お母さん! あいつが来てる! 早く逃げて!」

 リンは必死に叫んだ。しかし、母親は動かない。それどころか、彼女はイドラの前に立ちふさがった。そのまま抱き留めるにように抑える。

「お母さん!」リンは母親の行動に驚く。

 しかし、イドラは、軽々と母親を引きはがし、なんの危害も加えずに道に置き去る。そして、真っ直ぐにリンの方に向かってきた。

 怪物の背中越しに、母親の叫びが聞こえてくる。

「何でっ! 私を殺してよ! もうどうしようもないの。殺されて楽になりたいのよっ!」

 その言葉がリンの心に突き刺さる。しかし、意味を考える暇はなかった。イドラが迫ってくる。リンは回れ右をして、病院に向かって走りはじめた。


 追いつかれまいと懸命に駆けた。しかし、病院までの道半ばで、ついにイドラに追いつかれ、行き止まりに追い詰められてしまう。

 もうだめだ、と抵抗をやめた、そのとき。

 朝日のようなまぶしいアドミレーションをまとったキリアが降り立った。

 きらきらと光る長剣を掲げて、イドラを一刀両断した彼女の凛々しい姿。

 それは、まるで天使のように見えた。

 キリアが手を差し出す。その手をつかむと、ぐっと手を引っ張って立たせてくれた。

 きっと何気ない行為だったと思う。しかし、リンにとっては、イドラに襲われたこと、余命間近であること。それらの二つの絶望から救い上げてくれる手だった。

 彼女と別れたあと、母親が追いついてきた。リンの姿を見た途端に泣き崩れる。「ごめんなさい」と何度も言って、リンを強くつよく抱きしめた。その力は、少し苦しかった……


 リンと母親は、総合病院にたどり着いた。

 病院内に設営された避難所。リンは毛布にくるまり、母親とともにからだを休めている。

 からだは疲れ切っていたが、心は奮い立っていた。

 目の当たりにしたアイドルの強さ、凛々しさ、優しさが心に焼き付いている。イドラに襲われた恐怖を上書きしてしまうほど、「わたしもそうでありたい」という熱い気持ちがどんどんあふれてくる。止めることはできなかった。

 その燃え盛るような衝動を、隣で打ち沈んでいた母親に伝えた。

「お母さん」

「……なに?」

「わたし……アイドルになりたい。そのために残りの八年間を使いたい」

 母親は、リンの言葉に驚く。顔がゆがみ、目にたくさんの涙が溜まっていく。喜ぶような、悲しむような、どちらともいえない表情だった。

「リン……あと八年だなんて、少ないよね……。つらい思いをさせて、本当にごめんね……。

 何とかしてあげたかったの……お母さんのすべてを賭けて、あなたをもっと生かしてあげたかった。でも、できなかったの……」

 母親が大粒の涙を流して、子どものように泣きじゃくる。リンはふるえる母親の手をぎゅっとにぎり、支えるように見守った。

「私は、リンの余命を知って、ただ罪悪感と絶望感に浸っていただけだった。リンが残りの時間をどう過ごすかなんて、考えることができなかった。

 リンはえらいね。これからどんな未来を望むのかを考えていたんだね」

 母親がリンの手をにぎり返す。

「わかった。リンのやりたいこと、全部やってみよう!」

 心から湧きだした熱い気持ちが、全身に伝わっていく。世界のすべてが輝いて見える。

 リンは、大きくうなずいた。

 母親は真っ直ぐリンを見つめて、誓いの言葉を告げた。

「お母さんにまかせて。あなたの希望をすべてかなえてみせるわ。お母さんのすべてをかけて、絶対にぜったいに約束する……」


 それからの二年間、リンはアイドルになるために、生活のすべてを捧げた。

 リンの命の恩人は、アヴァロン・プロダクションに所属する世界的に有名なユニット「キャメロット」の一員だということがわかった。

 リンは、そのアヴァロン・プロダクションに入所するための活動を開始した。

 病院通いで衰えたからだを徹底的に鍛え直しながら、アイドルの必須条件である聖杯も育てなければならない。

 アドミレーションの生成、聖杯連結と輝化の習得。聖杯に関して知識のないリンには、手に余ることだった。そのため、国営のアイドル養成機関に一年間入校し、睡眠以外の時間すべてを訓練に費やした。

 同じように母親も、リンをサポートするため、生活のすべてを投げうった。

 複数の仕事を掛け持ちして昼夜を問わず働き、リンのトレーナーとして、時間、食事、身体、精神、それぞれの管理を行い、養成機関への入校が決まってからは、リンと共にアイドルについて学び、学費を賄うため、さらに仕事を追加するなど、寝る間もない日々を過ごしていた。

 彼女のすごいところは、これらのすべてを誰にも頼らず自分ひとりで行っていたことだった。

 両親は、親戚の誰からも望まれないかたちで結婚をした。リンが五歳のころに父親が病気で亡くなると、母親は親戚一同からつまはじきにされてしまう。さらに、近所づきあいも乏しく、友達と呼べる人もいなかったため、ひとりぼっちで、ただひたすらに、リンの未来に奉仕を続けていた。

 そのような生活がいつまでも続くわけがなく、彼女のからだに膨大な疲労が積み重なっていく。母親は、次第に痩せ細り、病気がちになっていった。

 しかし、からだとは逆に、心はさらに充実しているように見えた。

 痩せて削げ落ちたほおのまま、瞳をらんらんと輝かせている。アンバランスな顔。母親が見せるその表情がきっかけになり、母親のサポートは異常なのだ、と思いはじめた。

 それを裏付けたのは、母親が口癖のように話す、あの言葉だった。

「大丈夫。いつも言っているでしょ? リンは選ばれた子なの。あなたならできる。何でもできる。お母さんは信じているから! もっと早く、もっと高く、もっと輝いて!」

 最初はこの言葉に勇気をもらった。

 でも、日ごとに急かされ、縛られている、と思うようになっていた。

 養成機関において、いろんなことに挑戦した。

 全部できると信じて挑戦した。しかし、思い届かずに失敗した。

 挫折感と周囲の冷めた視線。それが続き、エスカレートして、いじめに発展した。

 服や持ち物が汚れ、全身に擦り傷を作り、泣いて帰宅した日。それでも母親は、まったく同じ言葉でリンを励まし、応援した。

 リンは、わけがわからなかった。

 今の生活ができるのは、大好きな母親が身を粉にして働いたおかげであるのは紛れもない事実だった。感謝してもしきれない。しかし、つらい気持ちが無視される「怒り」や気持ちをわかってもらえない「悲しみ」がそれを邪魔する。

 そして、そのように母親を疑い、憤ることに強い罪悪感を覚えていた。


 母親に対する思いが、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、渦巻いたまま、リンは養成機関における一年間のカリキュラムを終えた。

 死に物狂いの努力と、母親の「奇妙な」サポートの甲斐があって、リンはアヴァロン・プロダクションへの推薦状を獲得することができた。

 目指す場所に近づいた喜びに浸り、次のステージに思いを馳せ、満ちあふれた希望をつかんだその日。帰宅したリンを待っていたのは……

 ベッドに横たわり、息をしていない母親だった。

 まるで若返ったかのような、つやのある健康的な肌で、ゴールにたどり着いた瞬間を切り取った笑顔のまま、穏やかに目を閉じている。声をかければ、目を覚ましそうだった。

 母親に対するぐちゃぐちゃで名前のつけようのない気持ちを抱えたまま、リンは置いていかれてしまった。


 *

 リンは、キリアとの出会いとそれに強く結びついた母親との別れを話し終えた。どうしても、キリアとの思い出よりも、自分の母親との記憶を多く語らざるを得なかった。

「ごめんなさいっ。話すぎ、ですよね。とにかく、キリアさんと会いたい。会ってお礼を言いたいってことです……」

 キャメロットの三人は、うつむいて目を合わせてくれない。

「わたし大丈夫です! 他の人より時間が少ないだけです。薬を欠かさず飲めば、体調も他の人と変わりありません!」

 キャメロットの三人に向かって、おどけてみせた。しかし、表情は暗いままだった。

 固くにぎったこぶしを見つめる。

「……病気や余命のことで、みなさんだけでなく、世界の誰にも、絶対に迷惑かけません。すべて自分で後始末つけます。

 キャメロットが背負った重い責任はわかっているつもりです。それに応える力があることを、このオーディションで、必ず示して見せます!」

 リンの手が、温かい手で包み込まれる。マーリンの手だった。

「リンさんの努力の結晶を、しっかりと確認させていただきます」マーリンは優しい瞳をリンに向ける。「ナタリーさんたちは少しびっくりしているだけです。リンさんの言葉は、ちゃんと届いています」

「ありがとうございます」

 キリアや母親に対する思いを話すことができて本当に良かった。

 マーリンの手が離れた。

「リンさんと話すことができて良かったです。これまでの審査のようすを見ていましたが、急いでいるような感じがして、心配だったんです」

(急ぐ……)

 余命は、あと四年。今回のオーディションで、合格できなかったらどうしようという不安はある。しかし、これまで急いでいるつもりはまったくなかった。

「当たり前だと思っていたんです。アイドルになるには、限られた時間でたくさんのことをしなきゃいけないのは当然で……。そんな時間を母親といっしょに過ごしてきました。でも……

 ときどき目まぐるしくて、くらくらして、いらだたしくて。自分が今どこにいて、何をしているのかが、わからなくなる瞬間がありました。

 それを感じたときは、どうしようもなく不安になっていました」

「アイドルになるために、がんばってきた四年間は、充実していただけではなく、自分を見失って不安になるときがあったのですね……。それは、いつ、どんなときが多かったですか?」

「すごくがんばったあと……、みんなできることがわたしにはできなかったとき……。そういうときには決まって、声が聞こえるんです。今でも聞こえます」

「声……。誰の声ですか?」

「母親です。母親の『あなたならできる』という声が聞こえてきて、心を埋め尽くすんです。そして、その声に応えなきゃ! ここで止まっていてはダメ! って思うんです」

「そうなると、自分がわからくなってしまうんですね……」

 リンは大きくうなずいた。

「母親の愛情に応えるために、わたしはアイドルにならないといけない。だから、母親の言うことを聞かなきゃならないんです。

 でも……怖かった。ううん、今でも怖いです。心を母親に支配されて、これからずっと止まることができない呪いにかかったようで……」

 のしかかる不安に押しつぶされそうだった。目の前にキャメロットの三人やマーリンがいるのに、ものすごく寂しかった。

「自分で、これまでの四年間を否定しているみたいです。母親の愛情を、自分の努力を、無意味にしているようで……。わたしは、どうしたいんだろう……、あと四年しかないのに!」

 衝動的に飛び出してしまいそうな、強い焦燥感に襲われる。ぶるぶると震える手。

 そのとき再びマーリンの温かい声が耳を打った。

「リンさん、おちついて」マーリンの穏やかな顔。「大丈夫。ゆっくり思い出しましょう。リンさんの『アイドルになりたい』という思いは、いつ、どこからはじまりましたか?」

「それは……」今話したばかりだ。「四年前、キリアさんと出会ったときです」

 マーリンの顔がほころぶ。それにつられて、リンのこころとからだも緩んでいくようだ。

「キリアさんとの出会いは、リンさんが未来へ進むための『いかり』です。そのいかりは、リンさんの心の底にしっかりと沈んでいます。その気持ちがあれば、迷うことはありません」

 言葉が心にしみて、不安と焦燥が気にならなくなった。

「そう、ですね。キリアさんとの出会いに、母親は関係ありません。

 わたしが、キリアさんのことをかっこいいと思いました。やさしいと思いました。そして、わたしがキリアさんのようになりたいと思いました」

「その気持ち、ぜんぶ信じて、大切にしよう!」

 ナタリーが大きくうなずき、元気な笑顔を見せる。

「心の『いかり』か……。いい考え方ね。それがわかっていれば、迷わないわ」

 ルーティは、納得するようにつぶやく。

「良かった……やっぱり、リンには、はつらつとした笑顔が、似合っています」

 クレアは、リンをいたわるように、とつとつとゆっくり話す。

「未来を目指すリンさんは、すごく素敵です。でも、そんな自分に疲れたり、苦しくなったりしたときは、『今の自分』を確認してみてくださいね」

 リンはマーリンの手をつかみ、座ったまま頭を下げる。

「はいっ! ありがとうございます! みなさんと話すことができて本当に良かったです。これで心置きなくいっしょに戦えそうですっ!」

 マーリンがちらりと置時計を見る。

「そろそろ時間ですね。リンさん、今日はありがとうございました。大切なお話も数々聴かせてもらえて感謝しています」

 リンが立ち上がる。マーリンとキャメロットも立ち上がったあと、その場でおじぎをする。

「ありがとうございましたっ」

「リンさん、今度の遠征、がんばりましょう!」

 はいっ、と元気よく、応えてマーリンと固く握手をした。

 ミーティングルームを出るとき、リンは鎧を一枚脱いだような爽快さを感じた。肩が軽い。なぜか、自分の見える世界も少し明るくなったような気がした。

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