第四章 「悪夢」

 玄関のドアを開け、真っ暗な室内にからだを入れる。後ろ手にノブを持ち、自分の気持ちを代弁させるように、ばんっ! と、乱暴にドアを閉めた。

 ルナは手に持っていたカバンを放り投げる。玄関から自室へ続くアプローチに落ちたとき、化粧ポーチの中身がぶつかり合う騒々しい音が聞こえた。

 顔を手で覆い、地団駄を踏みながら、衝動に任せて大声を上げる。

「あぁああぁっ! あぁー!」

 靴の収納棚の天板にこぶしを振り下ろす。鈍い音がした。

 天板の上に敷いてあったクロスをつかみ、上に載っていた小ぶりなカゴごと強引に引っぱる。

 クロスが反対の壁に当たって、はらりと落ち、カゴが軽い音を立てて、足もとに転がってくる。

 ルナは足を振り上げて、カゴを蹴り飛ばす。勢いよく飛んだカゴは、壁や扉に数回当たり、床に落ちたようだった。

「……っはあ……」

 一度、ため息のような深呼吸をする。息といっしょに、黒く暗い気持ちが出ていく感覚。吐き出しきったたあと、少し冷静になれた気がした。

 暗さに目が慣れてきて、玄関のようすがうっすらと見えてくる。

 たった今、アプローチの上に散らかしたものを避けながら、自室に向かう。扉を開けて、いつものように左手でルームライトのスイッチに触れた。ようやく、室内に灯りがともった。

 部屋の隅にある姿見が目に入る。

 アイドルとして注目されるにふさわしい、しなやかで健康的なからだ、お義母様ゆずりの切れ長の瞳。身長は他の候補者と同じくらいだが、からだの鍛え方や容姿は誰にも負けていない。

 制服を脱ぎ、ブレザーとスカートのしわを几帳面に伸ばすようにして、ハンガーにかけ、上下ともにスウェット生地の部屋着に着替える。

 ――「正しい」とか「間違い」に何の意味があるの?

 一次審査の最後で、リンが言い放った言葉が、頭の中に響く。それがきっかけとなって、脳裏に次々とリンの言動が再生されていく。まるで、耳元で聞く虫の羽音のようだった。

「ある! 意味があるのよ!」

 鳴り響くリンの言葉をかき消すため、大きな声で否定する。追い払うように頭を振って、かきむしる。

(これまで、誰かとあんなに意見が対立したことはなかった。それは、自分の考え方や意見が世間の常識に合っていて、「それが普通で、正しい」からだ。

 リンもその常識がわかっているはず。そこをあえて、アタシとは正反対の意見や価値観をぶつけてくるなんて、ただの嫌がらせだ。リンに、これ以上巻き込まれないようにしないと……)

「アタシは正しい……」

 なぜなら、代々責任ある将校として国に奉仕してきたアルグレイス家の一族だからだ。

 ルナは本家の人間ではない。しかし、「お義母様」と呼んでいる現当主である伯母から未来のアイドルとして期待されていた。

 国の正義を守ってきた厳粛な一族。ルナは、そんなひとたちに育てられた。

「だから、正しいんだ。だから、自分と意見や考え方が違うのは、間違いなんだ。だから、リンがおかしいんだ!」

 口に出すと、頭の中に焼き付いて、繰り返し再生されるリンの動画がすっと消えていった。

(由緒ある家のものとして、何事にも動じず、しっかりしないと……)

 ようやく心が落ち着いたルナは、ふと机を見る。

 一次審査のために勉強していたテキストやノートが出しっぱなしになっていた。片付けようと机の前に立ち、机の上の整頓を始める。

『世界情勢概論』、『アイドルのちから』、『イドラの生態』という三冊のテキスト、プリントアウトした、ISCIが毎月発行するアイドル活動のレポートなどを、まとめて本棚やファイルに収めていく。最後に、テキストのエッセンスをきれいにまとめたノートに触れた。

 ノートには、一週間前にまとめなおした『アイドルのちから』の内容が書かれている。ぱらぱらとめくると、聖杯についてまとめたページに目が留まった。


〈聖杯とは何なのか〉

 この問題は、CIACによる研究が続けられています。

 現在の有力な仮説は、「脳構造の変化によって形成された脳の新領域」というものです。

 アイドルと、そうでない人の脳構造を比較したとき、アイドルの脳はそうでない人に比べて、容積が約〇.〇一%増加しているのです。

 脳構造が変化(ほとんどの場合、肥大)している箇所は、前部帯状回、偏桃体などの意識や感情をつかさどる部分に集中しています。アイドルがアドミレーションを蓄積したり、アドミレーションを励起したりするとき、この脳の肥大した部位の電気信号や化学信号の量と速さが増大しているという観測結果が報告されています。

 しかし、なぜ信号の量と速さが増大しているのか、という問いには、いまだにはっきりした答えがありません。また、電気信号や化学信号が、どのようにアドミレーションの発現につながるのかという問いにも、答えが出ていません。どちらも、研究中のテーマとなっています。

 CIACに提出された論文に、聖杯にのみ存在する未知の物質がある、と主張するものがあります。さまざまな観測データを解析した結果、理論値と観測値のつじつまが合わない箇所があり、この矛盾を埋める未知の物質があるのだと主張しています。

〈脳構造の変化の原因〉

 多くの人は、後天的に聖杯が形成されます。(産まれたときから聖杯が存在する人もいます)

 その人の幼少期に、心に対する大きな負荷がかかったとき、それに対処するために、脳構造を変化させて、五感や認知を制御しようとします。このときに、脳構造が肥大した箇所が聖杯に変化すると考えられています。

 それは、アイドル経験者の中に、虐待やネグレクトなど子どもにとって耐えがたい過酷な状況を切り抜けてきた人が多い、という傾向があることで裏付けられています。

 しかし、まったくそのような状況になかったという人もアイドルとなっています。

 これは、「負荷」の種類が違うということで説明できるとされています。身体的、精神的な苦痛を伴う負荷なのか、その人の成長を刺激する適切な負荷なのかという違いです。

〈聖杯の性別差〉

 現在、ISCIに所属する公式なアイドルに男性は存在しません。

 これは、男性の聖杯に、アドミレーションを蓄積する「聖杯の深さ」やアドミレーションを励起する「輝化力」が備わっていないからです。

 この二つの性質がないと、イドラと最前線で戦うことができません。男性は、主に他の聖杯とアドミレーションを媒介にしてつながる「聖杯連結力」を用いてアイドルをサポートします。

 この聖杯の性別差にも、明確な答えは出ていません。

 母親から女性の子どもにのみ受け継がれる物質があり、それが聖杯の形成に影響しているという仮説があります。前述した、「聖杯にのみ存在する未知の物質」と関連付けられ、現在もCIACの主導で研究が進められています。


 これまでに読んだどんな本にも、ルナが一番知りたいことは書いていなかった。

 ルナが知りたいのは「アドミレーションの色」について。

 アイドルが発現するアドミレーションには、固有の色がある。キャメロット・メンバーであれば、ナタリーが黄、ルーティが青、クレアが深紅だ。

 そのアイドル固有の色が何によって変わるのかが知りたいのだ。

 ルナのアドミレーションは、灰色だった。灰色というのは、珍しい色のようで、ISCIに登録されたアイドルの中に、それに近い色の人はひとりもいなかった。

 この事実が、ルナをどうしようもなく不安にさせた。

 しばらくノートを読みふけっていると、喉の渇きを覚えた。ノートを引き出しにしまって、机から離れ、引き戸を開けて、となりのダイニングに入った。

 部屋からの明かりで充分に見通せる。食器棚からマグカップとティースプーン、インスタントコーヒーのびんを取り出し、コンロの近くにある調理台に向かった。

 電気ケトルを取り出し、ふたを開ける。ストックしてあるミネラルウォーターの封を切り、ケトルにすべてを注ぎ、スイッチを入れた。

 薄闇の中、ぼうっと浮かぶ湯沸かし中のランプを見ながら、一次審査の内容を振り返る。討論の方はリンに調子を乱されたけれど、面接の方は想定通りに受け応えができていた。でも、一つ良くなかった点は、

「イドラ化……」

 ――そう、イドラ化です。キャメロットのメンバーとなり、最前線でイドラと戦えば、イドラ化するリスクが高くなります。ルナルクスさんは、これをどう考えていますか?

 キャメロットのプロデューサー、マーリンの声が脳裏で再生される。

(アタシは、どう答えたんだっけ……)

 思い出そうとした瞬間、動悸がした。からだを動かしてもいないのに、心臓がはげしく胸をたたく。呼吸が浅く、小さくなった。足のちからが抜け、調理台に手をつく。

(そうだ。面接のときもこんな感じだった)

 イドラ化という言葉を聞いたと同時にからだの異変を覚え、部屋から立ち去りたいほどの不安と恐怖におそわれた。

 大事な面接中だ、と自分に言い聞かせ、やり過ごしたつもりだった。

 ――怖いです。不安です。……だから、自分の力を知り、対峙するイドラの力も見極めたいと思います。仲間と力を合わせて、アイドルとしてできるだけ長く戦い続けられるような行動をします。それがアイドルの責任です。

 ルナはその答えを行動で示していた。

 二週間前。プロダクションへ侵入したイドラをキャメロットとともに撃退したときだ。

 資料室から部屋へ帰る途中、正門付近を通ったとき、三体のイドラが門をこじ開け、中に入ろうとしているのを発見した。

 とっさの判断で飛び出し、輝化をしてイドラと対峙したとき、放送でキャメロットの招集がかかった。そのため、無理をせず、正門に足止めすることに専念していた。

(一次審査、合格できるだろうか……。面接も討論も完璧とは言えない内容だった。それが原因で落選ということになれば、お義母様の期待を裏切ってしまう。

 アタシは『正しく』ないということになってしまう……)

 電気ケトルの水が沸いてきた。細かい泡がいくつも水面にあがってくる。

(アタシが正しくないということは、アタシの中に正しくないことがあるのだ)

 それは、きっと……。灰色のアドミレーションだ。

 知りたい。アドミレーションの色は、どうやって決まるのかを。

 灰色は、もっとも黒に近い色。黒はイドラの色。だから、灰色はイドラの仲間なのだろうか?

 そうじゃないと否定したい。だから知りたい。

 お湯が、ぼこぼこと大きな泡を立てる。

 動悸が収まらない。めまいがする。からだを支えきれない――


 気がついたとき、ルナは床に倒れていた。

 ルナは頭を振って、意識をはっきりさせる。

 立ち上がろうとしたとき、視界の隅に、黄色く光る丸いものを見つけた。

 それは、光が届かない、ダイニングの隅にある。まるで、闇に浮かび、あやしく輝く、獣の瞳のようだ。その周りには、いちだんと濃い闇が堆積している。

 やがて、闇に輪郭が現れる。

 黄色い光が途絶え、大きな人が後ろを向いてうずくまっているような姿が現れた。

 その闇から目を離せずにいると、闇は完全な人の形になり、立ち上がった。

 盛り上がった背中と肩の筋肉。丸太のように太く、すらりとした体幹。筋骨隆々という言葉がふさわしい体躯。イドラだ。それも人の形を持った人型イドラ。

 アドミレーションの励起を開始する。輝化武具であるナイフを両手に生成し、構えた。

 すると、ルナのアドミレーションを察知したのか、人型イドラが振り向いた。

 後ろ姿から想像できる通り、逆三角形の分厚い筋肉をまとった巨人だった。額の両端には、前に突き出した二本の角がある。威圧感のかたまりのような存在だった。

 角の下には、黄色く光る丸い瞳。あれは、イドラの瞳だったのだ。その瞳がルナを見つめ返す。じっと見つめ合うルナとイドラ。

(どこかで見たことがある……)

 そう思った直後、イドラの目が細められ、口角が吊り上がる。まるで、あざ笑うかのように。

「ひっ……」

 恐怖ですくみあがり、全身から力が抜けた。ナイフが両手からこぼれ、床にへたり込む。

 ぼこぼこ、ぼこぼこぼこ……

「……うっ、……くっ」

 のどが何かでせき止められている。呼吸がつかえて、息が上手くできない。

 座っていられなくなり、床にうつ伏せになる。

 遠くから誰かの声が聞こえてきた。幼い女の子の声。絞り出すように小さくかすれている。

 ――く、るし、い……ごめ、んなさぃ……ゆるして、ください……おねが、い

 この子も苦しんでいるのだ。もう一つ、音が聞こえてきた。

「ひゅっ……かひゅっ……かはっ!」

 自分の声だった。空気を求めて無理に呼吸する音。むせてせき込む音。

 窒息の恐怖に涙があふれ、呼吸困難で頭がもうろうとしてきた……

 そのとき、お湯が沸いたことを知らせる電子音がダイニングに響く。

 まるで、夢から覚めるように、苦しさから解放された。思いっきり息を吸い込み、吐き出す。

 顔を上げると、まだそこに、巨大な人型イドラが立っている。

 ルナは涙とよだれで濡れた顔のまま、獣のようにうめきながら、床に落としたナイフを拾い、悠然と立つ人型イドラに飛びかかった。

 背後に回り込み、腕をひねって背中で固定、脚を払って床に倒す。

 イドラの背中に馬乗りになり、両手のナイフを逆手に持ち、躊躇せずに背中に突き立てた。ぐっと押し込み、えぐるように引き抜く。すると、身震いしたあと、イドラの活動が停止した。

「わあぁぁぁぁああ!」

 錯乱したルナは、イドラの全身をナイフで切り裂きつづける。

 イドラのからだに光沢がなくなり、ぼろぼろと崩れはじめた。全身ずたずたの切断面からイドラ・アドミレーションが砂のようにこぼれていく。

 ルナは、肩で息をしながら、ダイニングの片隅で消滅していくイドラを見下ろしていた。

「こんな、ものに、負けたりしない……。アタシは、正しいんだ!」

 灰色のアドミレーションは正しい。灰色は、白に近いもっとも尊い色!

「アタシが特別な存在だった。きっとそれだけだ!」

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