エピローグ

最終話 幸せ

「それじゃあ、気を付けてね」

「うん」


 玄関先まで出てきたおばさんはエプロンを下げたままあたしを見送ってくれた。


 朝に食べたさんまの塩焼きのにおいがまだ残っている。空は快晴。心地のいい朝だった。


 少しだけ寒いが、スカートを履いていないことだけが救いだ。あの通り抜けていくような風が苦手だったので、こうしてジーンズで肌を隠せるのはありがたい。


 ただ、歩く時は前よりも窮屈になった気もした。それが衣服のせいなのか、それとも経過した年と世間の溝のようなものから来るのかは分からない。


 奥の方でおじさんが歯磨きしているのが目に入った。緑色の作業服は油で汚れている。その服で外を出歩くなとおばさんはよく注意していたが、これは俺の誇りなんだと言って聞かなかった。そんな出来事を思い出す。今はおばさんも諦めているようで何も言及しない。あたしはといえば、その真っ直ぐな志を羨ましいと感じていた。それは同時に、憧れでもあったのかもしれない。


 だからあたしが就職ではなく大学を選んだときはてっきり怒られるものだと思っていた。特に仕事に対する熱意があるおじさんには。


あたしの視線が気になったのか、おじさんは口に泡を付けたままおばさんの横に並んだ。

 

「お、これから大学か。どうだ? しっかりやってるか? といっても俺は大学に行かなかったからどういうものか分からないんだけど」

「うん。すごく勉強になるし、楽しいよ」

「そうか、ならよかったよ」


 快活に笑うおじさんは、あたしの意向に賛成してくれた。


 もちろんおばさんも同じだ。進学というものにはお金やその他諸々の事情もかさむものだが、むしろ嬉しそうに頷いてくれたのだ。


「お弁当はもういらないのかい?」

「大丈夫だよおばさん。大学には食堂もあるし」


 言うと、寂しそうにしわの寄った顔を綻ばせた。


 不思議だった。


 あたしは元々なにかが優れているわけでもなく、必要とされているわけでもない。手を差し伸べられる筋合いも、それに見合った努力や立ち振る舞いもした覚えはないのだが、どうしてかこんなあたしを大好きだと言ってくれる人たちがいる。


「気を付けてね。なんて、おばさんの余計なお世話かしら。ひよりちゃんももう大人なんだしねぇ」

「そうだぞ。ひよりちゃんはもう俺達がいなくたって生きていけるようになったんだから。ただ、必要な時は頼ってくれていいからな。俺達老いぼれにはもうそれくらいしかできることがないんだから」


 そうねぇ、とおばさんも同意のようで相槌を打つ。


 血は繋がっていないのに、どうしてここまで誰かに優しくできるのか。今なら少しだけ、分かる気がした。


 きっとこの人たちも、誰かのおかげで生きていられるのだろう。どこかの誰かが、生きる糧となっているのだろう。それがもし、なんの取り柄もないあたしなのだとしたら。


「今までありがとう、おじさん、おばさん。こんなあたしを育ててくれて」


 あたしにだって、そういう人がいるってことを誇ってもいいのかもしれない。


「あと、えっと・・・・・・これからも、よろしくお願いします」


 おじさんとおばさんは互いに顔を見合わせて、そのあとあたしを見た。


 ――当たり前だ。


 そんなようなことを言ったんだと思うけど、同時に喋ったからよく聞こえなかった。けど、いいか。聞こえなくても伝われば。好意ってきっとそういうものだ。


「行ってきます」


 かかとを踏み直して、道に出る。


 背後に聞こえる「頑張れー!」というおじさんの声に後押しされて、あたしは歩く。


 平日朝の歩道に似つかわしくない激励も、あたしは全然恥ずかしくなかった。


 大学に着くと、講義のある教室へと向かう。空いた席に座ってノートを広げた頃、隣に知った顔が腰掛けた。


「昨日の合コン、来なくて正解だったよ」

「そう」

「変な男ばっかだった。後で分かったことだけど全員彼女持ちだったし、一緒に行った子は帰りにどっか連れてかれたみたい。わたしは帰ったけどね」


 はぁ、とため息をつく。その子は大学に来てはじめて出来た友人だ。


 端っこが好きな性分らしく、そのせいであたしと隣の席になる頻度が多かった。他愛もない話をしている内に連絡先を交換し、仲良くなったのだ。


 その子は表情豊かというほど明るくもないが、口数は多く行動力も高い。よく飲みや合コンにも誘われたりするが、そもそもあたしは未成年なので断っていた。


「わたしも合コンは当分やめておこ。やっぱり運命の出会いが大事だよねー」


 言いながらも、運命なんて微塵も信じていなさそうな口ぶりだった。


「ひよりちゃんってさ、彼氏いるの?」

「いないよ」

「じゃあなんで毎回合コン断ってたのん? いや責めてるわけじゃないんだけどね、もしかして昔の男が忘れられないとか?」

「そんなとこかも」

「ひゅ~。いい女だねぇ」


 響いた口笛に誘われたかのように続々と学生が入ってくる。


 講義が始まり、小難しい内容に頷く素振りを見せながらせめて当てられないようにとノートを睨めっこをする。


 何事もなく終わりを迎え、教授が出て行くと隣から耳打ちされる。


「ひよりちゃんってさ、講義休まないし、真剣に聞いてるけど、あんまり興味なさそうだよね」

「そう見える?」

「うん。聞いてるだけって感じ」


 鋭いな。


「・・・・・・そんなことないよ。すごくためになる」

「経済の話が?」

「うん」

「わたしにゃ全然分からんね」

「そうなの?」

「入る学部なんてどこでもよかったからさ。ひよりちゃんもわたしと同じ人間だと思ってたんだけど、違うの?」

「・・・・・・同じかも」


 大学に入った理由なんて、決まっている。


 少しでも長くいられるように。できるだけこの場所で過ごせるように。


 そうすればいつか、有象無象に溢れたこの世界も鮮やかに色づく。その時をずっと待ち続ける。そのために、あたしは就職を拒んだのだ。


 当然、このことはおばさんとおじさんには言っていない。将来の役に立てたいとそれらしい理由をつけて納得させたのだ。


 あたしはあたしの好きな人のために、こうして周りを騙しながら生きている。


 そう思うと、あたしも立派な変人だ。

 

「あははっ、だよね」


 そう笑い飛ばして、その子は次の講義があるからと先に席を立つ。


 あたしはしばらく遠くを眺めて、バイトの時間まで暇を潰した。その一時は虚無なんかでは決してなく、夢や憧れを抱く少女のように輝かしく、嬉々としたものだった。


「お疲れ様でした」


 高校生の時に始めたバイトは今でも続けている。稼いだお金はおばさんおじさんに半分返して、残りは洋服などに当てている。


 ファッションなんて気にしたこともなかったけど、着目してみればなかなか奥深いものだった。


 今着ている服も最近買ったものだ。こうして外の温度に対応した服を買っていくと、季節の移ろいが楽しみでもあった。

 

その中でもあたしがこだわっているのは、胸元だった。


 胸元が見えるような服を選び、着る。最初は恥ずかしかったけど、窮屈になっていた自分の心を解放するような心持ちで次第に慣れていったのだ。


 バイトを終え、帰りは薄暗い路地を通る。換気扇の音がうるさく、流れ込む油が虹色に光る。幻想的とは言えない異様な光景も、あたしの中では乳母車のように安心できる場所だった。


「あれぇ、こんなところでどうしたのお嬢ちゃん。もしかしてひとりぃ?」


 ふと、背後から声をかけられた。路地全体を揺るがすような、低い声だった。


「俺と一緒に遊ばない?」

「・・・・・・はぁ」


 こういう場所にいると、薄汚い事情に絡まれることが多い。あたしは聞く耳なんて持たずに、肩に置かれた手を振りほどいた。


「おっと、ひどいなぁ。せっかく楽しいことしようって誘ってやってるのによぉ」


 見るとそいつは背の高い大柄な男だった。あたしに触れる腕は丸太のように太い、


「なぁいいだろぉ? ぜってー退屈はさせないからさぁ」

「・・・・・・・・・・・・」


 バカバカしい。


 あたしはその腕を掴んで、引っ張りあげた。


「あぁ? なんだぁ?」


 あ、あれ。


「急に抱きついて、なんだよぉ、そういうことなら早く言ってくれよぉ」

「ち、ちが・・・・・・きゃっ」


 次の瞬間、あたしは男に押し倒されていた。


「へへ、そうだよなぁ。こんな場所で、そんな胸元の開いた服着てよぉ」

「だから、違うって・・・・・・!」


 突き放そうとした。けど、ビクともしない。


 あたしの背負い投げも通じなかった。そもそも技術でなんとかできる体格差を越えているのだ。


 どれだけ抵抗しても、どれだけ叩いても、目の前の男は押し寄せる壁のように動きを止めない。


「どうせもう濡れてんだろぉ? もういいよなぁ?」


 ジーンズのベルトが外されて、金属が地面に当たる音がした。


「や、やめて・・・・・・ッ!」

「お、いいねえ。その顔。そっちのほうがやり甲斐があるってもんだぜぇ」


 ねっとりとした声が鼓膜をなぞっていく。


 い、いやだ。


 あたしはこんなところで穢れたくない。


 そんなことのためにこの場所で待ってたわけじゃないのだ。


「ギャハハハハ! 久しぶりの上玉だぁ」

「いや、離してッ!」


 こんなの、こんなのってない。


 助けて。


 誰か、助けて――!


「いいねー」


 ・・・・・・・・・・・・。


「嫌がってる顔、いいねー」

「は?」


 その時はじめて、男は素っ頓狂な声を出した。


 視線の先では、女の子が一人、膝を抱えて見学するようにこちらを眺めていた。


「自分の好きな人が知らない人に犯されるのっていいよね」

「なんだぁ?」


 男は目を剥きだしにしてその子を睨んだ。


「へぇ、よくみりゃテメぇもかわいいじゃねぇか。それにこのぺったんこよりも胸がある。俺好みだ」


 標的が変わる。


 男はあたしから離れてその子に近づいていく。


「ぺったんこ・・・・・・だと?」

「ああ、俺ぁデケぇほうが好きなんだ」

「そう。ならあなたは私とは相容れないね」

「安心しな。俺のはそんじょそこらの野郎よりも何倍もデケぇぜ?」

「いやあなたの大きさはどうでもよくて」

「???」


 男は意味が分かっていないらしく、一瞬首を傾げるもすぐに狂気を曝け出す。


「どうだっていい。テメぇもまとめて犯してやるよ!」


 あたしを圧倒した太い腕がその子に襲いかかる。


「に、逃げて!」


 その子は一瞬あたしを見て、そのあとすぐに男の腕を掴んだ。手首を握り、二の腕で固定し、腰に体を乗せて胸ぐらを掴む。


 そうしたらあとは。


 投げるよりも落とすように。


「ごふぁ!」


 男を地面に叩きつけた。


「ふー」


 その子は手の埃を払って、胸を張る。


「私に勝とうなんて百年早いね! 百年後は互いに生きていないだろうから、一生勝てないね!」

「な、なんだ。俺ぁ今・・・・・・」

「背負い投げ・・・・・・」


 思わずあたしは口にした。目の前で繰り広げられたあまりにも美しい技に、見惚れていたのだ。


「ふざけんな!」


 男は立ち上がりもう一度挑む。


 けど結果は同じだ。


 洗練された技の前では体格差なんて関係ない。あたしのようなまがい物とは違うそれに、男は翻弄され何度も体を地面に打ち付けた。


「はっはっは!」

「テメぇ・・・・・・」


 高らかに笑うその子を男は恨めしそうに見上げる。


 その視線が、その子のスカートの中に注がれた。


「あ! ちょっと! 今私のスカートの中見たでしょー!」


 それに気付いたその子が、スカートの裾を抑えて見下ろす。


「今ノーパンなのに!」

「変態じゃねえか!!!!」


 うわーーー!! と四つん這いで逃げていく男の背中を、あたし達は見送る。


 あたしもチラと、スカートの中を見てみる。本当に履いてなかった。


「・・・・・・えっと、ひよりちゃん。だよね?」


 その子は記憶と照らし合わせるようにあたしを見る。


「うん」


 頷くと、その子はパッと花のような笑顔を咲かせた。


「ごめんね。ちょっと時間かかっちゃった」

「うん」

「待った?」

「うん」

「怒ってる?」

「ううん」

「喜んでる?」


 返事の代わりに、あたしの頬を熱いものが伝っていく。


 そんな涙を見ても、その子はあたしを慰めることも抱きしめることもしなかった。ただ親指を立てて「いいね!」と賞賛する。


「ラブホとか、いっちゃう?」

「うん」

「マジか!」


 うおおおお、と目の前ではしゃがれるとあたしもくすぐったい気持ちになる。


 感動の再会も、感銘の一言もない。


 きっとそんな思い出、あたしたちには必要ないのだ。


 ただ目の前の形あるものだけをこの肌が覚えている。


「じゃ、じゃあ、行きましょうううううか」

「緊張しすぎ」

「でもでも、ラブホ、ラブホだよ!? ひよりちゃんは緊張しないの!?」

「しないよ。むしろ、ワクワクしてる」


 言って、ぎゅっと手を握る。


 間違いない。


 あたしも変態だ。


「行こ。タマちゃん」

「・・・・・・うん! うぇへへへ、ひよりちゃん」

「なに?」

「今日もエッチだね」

「・・・・・・どういたしまして」


 世間から見て、あたし達の生き方はきっと間違っている。外れている。ズレている。破綻している。理解できない。頭がおかしい。狂気じみている。変人。異常者。


 そうかもね。


 けど、いいのだ。


 純愛じゃなくったって、あたしはこうして幸せでいられる。


 それならそれで、いいじゃないか。


 どれだけ捻じ曲がった生き方だとしても、どれだけ歪んだ道だとしても。


 こうして大好きな人の手と繋がっていれば。


 ほら。


 真っ直ぐだ。

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純愛じゃなくたっていいじゃない! 野水はた @hata_hata

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