さみしがり屋のヒョウ

マツダシバコ

第1話

 トイレの小部屋にさみしがり屋のヒョウが現れるようになったのは、いつ頃からだろう。

 気付くとそこにヒョウはいた。

 最初は小さな反発だった。

 トイレのドアを開いて中に入ろうとするとある一点で、風船に押し戻されるような抵抗を感じたのだ。

 僕はそのことを大して気に止めず、用を足した。

 しかしそれは、僕がトイレに行くたびに次第に大きくなっていき、やがてさみしがり屋のヒョウになった。

 でも、その姿かたちは定かではない。

 何故なら、僕にはさみしがり屋のヒョウが、はっきり見えるというわけではないのだ。

 にも関わらず、それがさみしがり屋のヒョウであることに違いなかった。

 まず第一にそれは柔らかく温かった。

 そして、さみしい固まりだった。


 さみしがり屋のヒョウは鳴かなかった。

 でも、泣いていた。

 もちろん、さみしくて泣いているのだ。

 僕がトイレに行くと、そのさみしい固まりは、柔軟な体躯をあらゆるすき間に滑り込ませて、僕にできる限りの場所を提供してくれた。

 親切な性格なのだ。

 ヒョウは最初うち警戒しているようだったが、僕が危害を与えないとわかると、次第に緊張の気配を緩めていき、僕の足にすり寄って甘えるようになった。

 僕は頭を撫でてやった。

 眉間に寄ったしわの間に指を滑り込ませて、その溝を撫でてやると、ヒョウは特別気持ち良さそうだった。

 さみしがり屋のヒョウは眉間に深いしわを寄せて泣いているのだ。

 僕はその眉間のしわに指を差し込むのが好きだった。

 何かノスタルジックな気分になるのだ。

 ヒョウは気持ちよさが頂点に達すると、不思議な匂いを漂わせた。

 それはうっとりとして何もかもを忘れさせるような、魅惑的な香りだった。


 ある日、僕は坂の途中で彼女とばったりと会った。

 それは僕の職場の近くの坂道で、彼女はひどく驚いた顔をして僕を見た。

 「びっくりしたわ」と彼女は自分の胸元に手を当てた。「だって、こんな時間よ?」

 時間は夜明け前の4時頃だった。

 「あなた、確か仕事は早いって言ってなかった?」

 その早い時間というのが4時だということに、彼女は思い当たっていないようだった。

 つまり、彼女にとっては遅い時間なのだ。

 「今から仕事なんだ」僕は言った。

 「ああ、あそこでお勤めね」

 彼女は坂の上の方に目をやった。

 「私は仕事が終わって、今帰り」

 彼女はおかしそうに笑った。酔っているのだ。

 僕は工員の制服を見られたことに気まずさを感じていた。

 彼女はコートの上から毛糸のショールを胸元に引き寄せて、パンプスのヒールを寒そうにコンクリートに打ち付けて足踏みをした。

 「ねえ、何か言って」

 酒臭い真っ白な息を彼女は吐き出した。

 「びっくりして…」僕は言った。

 「そうよ!私だってびっくりしたわ!」と、彼女はことさら大げさな表情を作って言った。「それにどうしたの?最近はぜんぜんお店にも来てくれないで」

 以前、僕は彼女が務める店に通い詰めていたのだ。

 お目当てはもちろん彼女だった。

 僕はいつも客の少ない早い時間に訪れて、ほとんど彼女を独占していた。

 その間に僕は何度か彼女をデートに誘ったが、彼女はまったく僕を相手にしてくれなかった。

 「君に嫌われているのかと思って」僕は言った。

 「そんなことないわ!あるわけないわよ!」

 「そうかな」

 「でも、あなたのことがまだよくわからないのよ。もっとお店にきて、もっとたくさんお話をしないと。嫌いも好きもないじゃない。そうでしょう?」

 彼女は僕に顔を寄せて、アルコールの匂い息を吹きかけた。

 「もう、行かないと」僕は腕時計に目をやった。

 「いいわ。じゃあ、こうしましょう。私はあなたとデートをする。そのあと、一緒に私の店に行きましょう。どう?」


 さみしがり屋のヒョウはときどきトイレから姿を消した。

 翌朝には戻っていることもあれば、数日姿を見せないこともあった。

 ヒョウはきっと元いた原野に帰って、狩をしているのだと僕は推測した。

 戻ってきたヒョウは、強い太陽に照らされた大地の匂いがした。

 そして僕に向かって大きく舌なめずりをしてみせるのだ。

 僕はその様子を想像する。

 茂みの中に身をひそめて待ち伏せをするときの、その息づかい。

 獲物を狙う視線。

 弓のようにしなる体躯。

 獲物の皮を破る爪の感触。

 喉元を食い破る牙。

 口の中に広がる生暖い血の香り。

 それらはリアルに頭の中に像を結び、僕を満足させた。

 僕は大きく舌なめずりをした。


 彼女とのデートは成功とは言えなかった。

 彼女は約束の場所に30分以上も遅れてやってきたし、食事の間は気詰まりで、僕はほとんど彼女と口をきくことができなかった。

 彼女はさっさと食事を済ませると、僕を自分の勤める店に連れていった。

 そして僕は、そのままずるずるとまた店通いをするようになった。

 僕にはいつもカウンターの隅の席が与えられた。

 ときどき彼女は僕に視線を向けたが、それは好意的なものというより、監視に近い冷ややかな目つきだった。

 僕は一定量のアルコールをこなすと店を引き上げた。

 

 そんな僕にもチャンスが訪れた。

 彼女が男に振られたのだ。

 その日の彼女は、誰彼構わず店の客に絡みついて相当に荒れていた。

 僕はクズ肉を狙うハイエナのように、閉店の時間になるのを待った。

 「何よ」

 店の裏口で彼女を待っていた。

 「雪が降っているから送っていこうと思って」僕は言った。

 「いらないわ。だいたい、あんたに私の部屋を教えると思って?」

 彼女は僕を押しのけて通りに出た。 

 坂道を下ろうとして、彼女はヒールを雪に滑らせて転んだ。

 「ほら、だいぶ酔ってるんだから」

 僕は彼女に手を差し伸べた。

 彼女はその手を払い落とした。

 「あんた、私が振られて弱ってるからって、ヤラセてもらえると思ってるんでしょ」

 彼女は酔って据わった目で僕を睨みつけた。

 「ねえ。あんた、私とシタイんでしょう?」

 彼女は尻餅をついたまま雪の中で、足をM字に開くとスカートの裾を持ち上げてみせた。

 彼女は下着をつけていなかった。

 それはまるで毛深いポピーのつぼみのように見えた。

 「いつまでもそんなところに座っていると風邪をひくよ」

 僕は彼女の体を抱き起こし、コートの裾についた雪を払ってやった。

 彼女は僕の腕に絡みつき、酒臭い息を僕に吐きかけた。

 「ねえ、これからどこかに行かない?」

 「仕事に行かないと」僕は言った。

 「ねえ、怒ったの?」

 「どうして僕が怒るの?」

 「わからないけど、私がからかったからかしら?」

 「怒ってないさ。ただ今は、時間があまりないんだ。でも、よかったら今度うちに遊びに来てほしい。君のために食事を作るよ」

 「それってどういう意味?」

 「どういう意味でもない。ただ、それだけのことさ」

 「私、シナイわよ」

 「君がそう言うなら、僕は絶対に手を出さない」

 「絶対に?」

 「絶対に」

 こうして僕はようやく彼女とのまともなデートにこぎつけた。


 さみしがり屋のヒョウは、いつの間にかトイレの小部屋から出て、居間に寝転んでくつろぐようになっていた。

 しかし、その耳は常にレーダーのように回転し続け、鼻は微細なものも嗅ぎ分けようとするようにヒクついていた。

 ヒョウは僕が立てるわずかな物音に敏感に反応した。

 それが面白くて僕はわざと音を立ててコーヒーカップを皿に戻したり、テレビの音量を急激にあげたりしてみた。

 さみしがり屋のヒョウは一定の時間を居間で過ごすと、またトイレの小部屋に帰っていった。

 ある時、蝶がやってきて、ヒョウの鼻先にとまった。

 蝶は飛び立つでもなく、忽然と姿を消した。

 また、飛んできたハエでも同じことが起きた。

 ヒョウが舌なめずりをしているのを見て、僕はヒョウが食べたのだと理解した。

 僕は市場に行き、血も滴るような生肉を買ってきて、トングに挟んだそれをヒョウの鼻先に押し付けてみた。

 ヒョウは牙を剥いて大きな口を開いた。

 僕の心臓は激しく高鳴った。

 僕は死にたいのだろか。

 しかし、さみしがり屋のヒョウは小さなクシャミのようなものをしただけで、それきり肉には興味を示さなかった。

 屍肉には興味がないらしい。

 僕はその肉をフライパンで焼き、半分ほど食べてゴミ箱に捨てた。

 

 

 日曜日。

 彼女が僕の部屋にやってくる日だった。

 僕はこの日のために念入りに準備をした。

 部屋は隅々まで清潔で、テーブルには高級な食材とワインを並べた。

 さみしがり屋のヒョウは、そんな僕の様子を居間の床に寝転がって眺めていたが、僕がトイレの扉を開けると、大人しく中へ戻っていった。

 約束の12時が過ぎて、午後の2時になっても彼女は来なかった。

 その間に僕は何度もワイングラスを白いナフキンで磨き直した。

 彼女は必ず来るはずだと僕は信じていた。

 夕方の4時を過ぎた頃、彼女はやっと来てくれた。

 「ごめんなさい。すっかり遅くなってしまって」

 彼女は悪びれもなく、赤い口紅を塗った厚い唇を横に広げた。

 「はい。これ、お土産よ」

 彼女はどこかの出店で買ったような湿気った紙袋を僕の胸に押し付けると、先に立って廊下を進んでいった。

 僕は彼女の後ろ姿を見つめた。

 「おいしいワインを冷やしてあるんだ」

 僕は彼女を席に座らせると、キッチンの冷蔵庫にワインを取りに向かった。

 ついでに土産の油の染みた紙袋をゴミ箱に捨てた。

 僕は彼女の前にグラスを置き、ワインを注いだ。

 彼女はそれを一息に飲み干すと、無遠慮に部屋の中を見回した。

 それから皿の上の料理を指でつまんで、口の中に押し込んだ。

 「すごいお料理ね」

 彼女は自分の扱いに満足したようだった。

 「君のためにバラの花を飾ってみたんだ」僕は言った。

 1本目のワインはすぐに開いた。

 僕は2本目に赤ワインを選んで、新しいグラスに注いだ。

 グラスはすぐに彼女の口紅と指紋で汚れた。

 「豚め」

 僕は彼女が料理を貪っている様子を眺めて、心の中でそう呟いた。

 「ねえ、ちょっとおトイレをお借りしてもいいかしら?」

 僕は彼女をトイレに案内した。

 扉を開けると、さみしがり屋のヒョウは彼女と入れ違いにトイレから出てきた。

 思った通り、彼女にヒョウの存在は見えていないようだった。


 「ねえ、何をしているの?」

 チーズを切っていると、トイレから出てきた彼女がキッチンに入ってきた。    

 「少しつまみを追加しようと思って」僕は言った。

 「部屋に戻ったらあなたがいないんだもの。寂しかったわ」

 彼女はそう言ってクスクスと笑うと、背後から僕に抱きついてきた。

 豊満なバストが背中に押し付けられた。

 僕は黙ってチーズを切り続けた。

 彼女の手が降りてきて、僕のペニスに触れた。

 僕はその手を押さえつけ、振り返って彼女と向き合った。

 それから上着のポケットに忍ばせておいた小箱を彼女に差し出した。

 「僕と結婚してほしい」僕は言った。

 彼女は上目遣いでちらりと僕を見ると、小箱の蓋を開いた。

 「まあ、すごい。これダイヤじゃない!本物なの?」

 彼女は悲鳴に近い声をあげた。

 「母の形見なんだ。結婚する女性にはこれをもらってほしいと思って」

 「ふーん。そう、お母様なの」

 彼女は箱から指輪を取り出し、自分の指に押し込んだ。

 指輪は窮屈そうに何とか彼女の指に収まった。

 「やっぱり、ぴったりだと思った」僕は言った。「君はどことなく母に似てるんだ」

 「あなたって、マザコンなの?」

 「母のことを尊敬している」

 「私、マザコンって嫌よ」

 「でも、母は本当に素敵な女性なんだ。君のように」

 彼女は薬指に食い込んだ指輪をじっと見た。

 「でも、やっぱりちょっと考えさせて。結婚なんてそう簡単に決められないわ。そうでしょう?それに今日は無理して贅沢をしているけれど、あなた工場の勤めなんでしょう?私を満足に養うことができるのかしら?私、貧乏な暮らしはごめんだわ」

 「確かに僕は工場勤めだけど、母が残してくれた遺産があるんだ。だから、君には不自由はかけないと思う」

 彼女はじっと僕を見た。

 「お母様って素敵な方なのね」

 「君のようにね」

 彼女はほくそ笑んだ。

 「でも、やっぱり少し考えさせて」

 「わかった。待つよ」

 彼女は冷蔵庫の扉を開けると、しばらく中を物色した後、3本目のワインとつまみになりそうなものをいくつか選んで、ふらふらとした足取りで居間に戻っていった。

 

 彼女が結婚の話に乗らないわけはなかった。

 彼女は豚のように太っていたし、年増の女を店は持て余しているのだ。

 そして何より彼女は、母親のように意地汚く身の程知らずな女に違いなかった。

 母は何事にも我慢が効かず、太って、男にだらしのない女だった。

 そのため、僕の父親は何度も変わった。

 不思議と母は、豚のような女を好む裕福な男を嗅ぎ分けるのに長けていたのだ。

 彼女は男たちの財産を食いつぶし、好き放題をして死んでいった。

 僕は母親を軽蔑していた。

 それにも関わらず、母親のような女しか愛せないのだ。

 僕は今までに3回結婚したが、その女たちはどれも豚のようで、見分けがつかないくらいよく似ていた。

 

 僕がつまみをのせた皿を手に居間に戻ると、彼女はすでに酩酊状態で、白いテーブルの上には歯型のついた黒オリーブの実が散らばり染みを作っていた。

 僕は彼女の隣に腰をかけた。

 彼女は僕の手に自分の手を重ね、濁った目で僕に微笑みかた。

 その指には図々しくも母の指輪がはめられたままになっていた。

 「ねえ、さっきの話しだけど。私、あなたと結婚してもいいと思ってるのよ」

 「本当かい?」僕は言った。

 「ええ。本当。でも、あっちの方の相性も確かめてみなくちゃ」

 彼女はそう言うと、太ももごと足を僕に絡めてきた。

 ワンピースの裾はめくり上がり、下着がのぞいた。

 さみしがり屋のヒョウは居間の床に寝そべり、特に興味もなさそうに僕らの様子をじっと見ていた。

 彼女は僕の唇に吸い付き、生暖かい舌を押し込んできた。

 辛抱できないほどの酒気が鼻先を覆った。

 僕は彼女の胸ぐらを掴み上げると、そのまま寝室に引っ張っていってベッドに放った。

 僕は彼女の服を脱がせ、明らかに僕と寝ることを想定して着けてきたいやらしい下着を剥ぎ取った。

 むせぶような汗と体臭が辺りに飛び散った。

 彼女の陰部はもう我慢できないというように、液体を溢れさせていた。

 僕は彼女の肥えた肉体に用意しておいたロープを巻きつけて、ボンレスハムのように縛り上げた。

 「あなたって、そういう趣味があったの?」

 息も絶え絶えに彼女は言った。

 返事をする代わりに僕は、女の尻を思い切り叩いてやった。


 女は裸のまま手足を広げ、腹を上下させいびきをかいて、ベッドの上で眠っていた。

 僕はそっと寝室を出た。

 テーブルの上を綺麗に片付け、キッチンの洗い物を済ませると、僕は再び居間のテーブルに戻り、自分のためにワインの栓を抜いた。

 何だかひどく疲れていた。

 さみしがり屋のヒョウは僕に近づいてくると、甘えるように足に顔をこすりつけた。

 僕はヒョウの眉間のシワの溝に指先を滑り込ませ、愛撫してやった。

 ヒョウは不思議な香りを部屋中に撒き散らせ、僕をうっとりとさせた。

 僕は立ち上がって、寝室に向かうとその扉を開いた。

 さみしがり屋のヒョウは静かにその中に入っていった。

 そのまま僕は居間のソファに横たえた。


 翌朝、目を覚ますとすべては終わっていた。

 僕は床に転がった指輪を拾い上げ、小箱にしまった。

 さみしがり屋のヒョウは僕を見上げ、大きく舌なめずりをしてみせた。

 僕は丁寧にヒョウを撫でてやると、トイレの小部屋に向かった。

 扉を開くと、ヒョウは大人しく中に入っていった。

 そして壁の向こう側に姿を消した。

 ヒョウはきっともう戻ってこないだろう。 

 僕はさみしかった。

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