第8話

 私は始業式の朝、学校に向かう途中、なぜあのときミスドにマリを呼びだそうと思ったのかを思い出していた。おそらく、私はどうにかなるような気がしたのだ。普段ならあんなこと他人には決して言わないし、言えなかっただろう。同級生や通院先の医師に深刻な話なんかしてどうする、と思っていたのだ。次から気を使われるのを想像すると胃が痛んでくるのは、心配や気遣いというのは恒常化すると大抵の場合、お節介にしかならないためだ。その点でマリは例外的に気軽に接することができた。マリは所在も身元も不明だったし、私との関係だって切ろうと思えばすぐに切れる位置にいた。

 私はふと電柱の下に花を見つけた。露に湿ったその花は私の心の底をくすぐって、なにがしかの懐かしさや苦痛や甘い感傷を呼び起こした。涼しげな風が朝に舞い、その花の健気なまたたきは、私の瞳に目を逸らしたくなる光を植えた。

 学校に着き、まだ人気のない廊下を歩いて誰もいない教室に入ると、サオリが愛想よく私を迎えた。

「おはよう、ユカ」

「……サオリ、もうやめよう」

「えっ?」

 私は口元を固く引き締めて彼女の近くまで行って、見るからにおろおろしだしたサオリの髪を撫でた。

「今までごめんね、ありがとう。……でももういいの、終わりにするって決めたの」

「な、なんで? なんで、嫌だよ」

 サオリはあからさまに私の言葉を嫌がった。私はこうなることを知っていた。なぜなら彼女は私のことが好きだから。私が、私に好意を向けるように仕向けたのだから。かつての私は懸命になってサオリをつくったのだった。決してその存在が揺らがないように。決して私が他人への羨望に飲み込まれてしまわぬように。私は思念の力を充分に酷使して、じっくり、慎重に、ぬかりのないように想像の産物であるサオリを今生に独立させることに成功したのだった。もう一年半も前の話だ。別の人格を外に立てることで、私は泥のような安寧にずっと閉じこもることができた。閉じこもってさえいれば、何をしててもサオリが私を褒めてくれていた。私はそうすることで、孤独であっても、決してひとりになることはなかった。

 しかしそれももうほどかなくてはならない。その決心がようやく私の中で固まったのだった。私はここから始まらなくてはならない。

「嫌だよ、好きだよユカ! 好きだよ……、好きだよ……」

 悲痛な叫びを上げるとサオリの相貌はみるみるうちに、紙が燃えるように、醜く時空に捩れ、そして溶けていった。私は心の内にその最期を、彼女の悲しい目を刻みつけながら、言った。

「私が弱くて本当にごめんね」

 いつしか私は何が好きかも分からなくなって、嫌いなものばかりを積み上げて、蛹を内側から破るような、身につけてきた重たい鱗を落とすような、そんな衝動をどこかに忘れてきてしまったのだ。それが私であったというのに。それにこそ私は在ったというのに。

 不意にそのとき、後ろのドアががらりと開いた。彼は一瞬、しきいのところで足を踏みとどめたが、やがて気まずそうな様子で教室に入って来た。

 私は手のひらを強く握った。未来の私も過去の私もない。息をして、何かを思い、何かを目にするのはこの私なのだ。手の中に、夏が溶けたような汗を感じる。

 ――ねえ、マリ。未来はどんなところだろうね。

 私は飛び出しそうになる胸を必死に隠し、なけなしの勇気を手に秘めて、席に着いた関内くんの前に立って、にっこりと笑った。

「おはよう」

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光に何度も手を振って 四流色夜空 @yorui_yozora

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