第6話

 ユカ、と彼女はぽつりと呟いた。


 その日は、外に出ると蝉たちがいよいよ夏の終わりに向けて、命を擦り減らすように叫んでいた。学校の図書室から戻るついでに夏休み用に設けられた自習室に行くと、予想通りそこにはサオリがいた。彼女は、私が頼むと快くうちへついてきてくれた。

 部屋にはクーラーの稼働音が断続的に流れていて、それ以外はなかった。蝉たちの数も減っているのかもしれなかった。

 ふと、首筋にサオリの細い指が這い、くすぐったくなった。私が軽く身を揺らすと、彼女は微笑みながら母親のように「だめ、ユカ、じっとしてて」と言った。目を瞑って彼女に身を委ねる。

 私は新聞紙を敷いた床に下着姿で三角座りをしていた。目を瞑ると気持ちがよくて、なんだか眠り込んでしまいそうだった。

 サオリはまず、長くなった毛先の部分を少しずつ切り落としてから、指を頭の丸みにそわせて、カット用のハサミとすきバサミとを交互に使って、髪の重さを全体的になくしていった。サオリの指はやさしく、暗闇の中でこうして彼女を感じていると、もう世界の何事もいらないような気持ちになってくるのだった。ゆっくりと海の中に身を沈めていく心地よさが血流となって末端までめぐっていった。頬や瞼の上に落ちた髪を取り除きながら彼女は言った。

「私、こうしてるの好きだよ。なんか落ち着く」

 ありがとう、と私は言った。

 大体の作業は終わったようで彼女は櫛と柔らかいブラシで私の髪を払っていた。

「ユカってさ、なんか色んな事を考えては吐き出さずに苛ついてるでしょう。苛ついて背負ってて。他の人ってそうじゃなくて、誰かに気持ちをぶつけたり、自分の気持ちを馬鹿にしたりして誤魔化してしまう。でも、ユカは全部ひとりで背負ってて、あんまり誰かを自分の中に引き込んで解決しようとしない。それってすごいことだと思うけど、近づけないから寂しくも思うの。でもね、私、こうしてユカの髪を切ってると、あっ、触ってられるって、ここにいてくれてるんだって安心するんだよ」

 私は、サオリからハサミを受け取って鏡を覗きこみ、自ら前髪を調整しながら言った。

「私はそんな存在じゃないよ」私の言葉を聞くと、サオリは後ろで自虐っぽく笑った。

「まあ、どう言ってもいいけどさ、なんか最近ユカが遠い気がしてさ」

 私は鬱陶しいと感じると同時に、どこか自虐に似た心地も抱いていた。

 頭の中にはマリがいた。マリの占める域は大きかった。けれど、私はそれ以前には、サオリに自分の心の多くを預けていたのだった。マリとは違うやり方だけれど、サオリは私をずっと受けとめてくれていたのだ。彼女は私を好いている。

 私は先程の、一緒にサオリと歩いた学校から家に着くまでの帰路のことを思い出していた。

 二人で並んで歩いていると、交差点のところでエナメルバックを軒並み抱えて喋り合ってる集団を見かけたのだ。それは部活帰りであろう私のクラスメイトだった。その方を、車道を挟んだ彼女たちの方を、私がぼんやり眺めていると、横にいたサオリが突然手を引いて私をぐいぐい引っ張って、その場から私を引き離した。

「私、あいつら嫌い」彼女はそう吐き捨てるのだった。一刻も早く私と二人きりにならなければいけないのだという風に。

 サオリは学校の中では平然としているけれど、基本的には他の生徒のことをよく思っていなかった。「だって馬鹿で、他人のことが考えられなくて、その上すぐ他人を見下して嘲笑って、自分たちは正義だと思い込んでいるんだもの。一緒にいたら、会話してたら、私たちまで取り込まれちゃうよ」彼女は口癖のようにそんなことを私に説いた。

 私自身、高校に入ってからというもの、すぐに見つけたサオリという友達以外とはあまり関わりを持とうとしなかった。そしてこれが最善の策で、安住できる唯一の居所だと思っていた。しかし遠くなっていくクラスメイトたちを見ながら、一方で私は中学以前のことを思い出していた。小学校や中学校のとき、私もああやって集団の中で息をしていたのだ。そこで私は気を使ったり、笑い合ったりしていたのだ。それをいつ私は見切ってしまったのだろう。いつから私はそれに飽きてしまったのだろうか。


「ねえ、ユカ」

 サオリの、雫が垂れるような呟きによって私の思考は中途になった。

「ユカ、ねえもっと近くに戻ってきてよ」

 彼女は後ろから私の首に手を回し、視線をぶつけると半ば強引に唇を重ね合わせた。やわらかな感触が脳に入り込んでくる。溶け合い、下に、下に落ちてゆくような酩酊感。

 クーラーの断続音に混じって、一匹の蝉がきんきんと鳴きだした。

「ねえ、私を離さないで」と彼女は私をまじまじと見つめながら言った。 

 軽くなった世界に潤んだ二つの瞳が焼きついていた。

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