第5話

 マリとの一件があって以来、数日は私は楽しい気分でいることができたのだが、それも次第に色を失っていくのだった。部屋に籠もってテレビを見てても、外で夕暮れを歩いてみても、どこか頭がぼやけて胸がつかまれたように、少しずつ押し潰されるように苦しくなっていくのだった。ふと去年からそうだったことを思い出すと、私は夏に対して絶望的な感傷に浸り、打ちひしがれるほかなかった。私は気を紛らわせるために、ある日父を眠らせてから夜の街を歩いた。

 商店街に出るとシャッターはどこも閉められ、電燈だけが冷たく白さを路上に投げかけていて、アーケードはまるで人類が滅亡した世紀末を映しているように思えた。私は端に設けられた石のベンチに腰を下ろした。

 でも、私は昼間よりこちらの方が安心する。私を突き刺す人の目がなければ私は平気なのだ。非難も批判もされなければ私は大丈夫に決まっているのだ。けれどこの孤独感はなんなのだろう。私は電燈にぶつかっては跳ね返る虫を見て悲しくなった。暗闇に私しかいない孤独。誰の目にも決して見えない心の孤独。何ひとつにも私の指先が触れられない孤独。誰も声も仕草も拾ってくれない私の孤独。

 気がつくと私はサオリに電話をかけていた。昨年はよく彼女に頼ったものだった。彼女はいつでも電話に出てくれる。サオリは私が好きだから。だから私は頼ってしまう。案の定、サオリはすぐに私に答えた。

「どうしたの、久し振りだね、ユカ」

「なんか悲しくなってきて」

「うん、知ってる。私に電話するときは大体そうだからね。大丈夫だよ、人生にマニュアルなんてないんだから、悲しいときは誰かによりかかればいいんだよ」

 そうして私は時々黙りながらも、なんて自分がだめな性格かを言葉を替えながら几帳面に説明した。サオリは私の言葉にいちいち頷いて、それを受けとめてくれた。こんなことしても何にもならないと思っても、私はやめることができなかった。サオリの存在は私にとってべたついていて、とても甘いのだ。毒であることを知りつつも、私はその粘っこい交わりを求めてしまう。

 私は「好き?」と彼女に訊ねた。

 彼女は「もちろん、好きだよユカ」とすぐに最上級の愛情をもって私に答えた。

 私は満足して電話を切った。


 しかし日常的に考えるのはマリのことばかりになっていた。白昼夢のように私はマリが私の前に訪れることを幻視した。私は彼女に嫌われるのを恐れ、時をおいて電話をかけ、その中でも機会が合うときに行動を共にした。マリとの日々はまるで光を駆けていくようだった。次々と眩い経験が私にぶつかっては後ろに飛び散っていった。マリも丁度いい遊び相手を見つけたような様子だった。私たちはなんでもない喫茶店に通うこともあれば、神社や街外れのダムにも足を運んだ。彼女の場所選びは謎で、本当にそのときの気分で物事を決めているようだった。その結果が失敗に終わったときも、彼女は後悔する素振りを見せなかった。それに触発されてかマリといると私も忌むべきはずの疲労や緊迫感すらも気持ち良く感じられるのであった。彼女の言うことはいつも普通から少しずれていたが、根本にはしっかりとした信念があることを窺わせた。彼女は好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言った。嘘を吐くことはあっても、見て見ぬ振りをすることはなかった。

 盂蘭盆に近づいた頃のこと、夕方にマリは私の家に訪れた。その夜にベランダから花火が見えることを言ったら、彼女も暇だし来ることになったのだ。

 花火は八時からだったが、マリが姿を現したのは六時を過ぎた頃合いのことだった。

 家にあがるなりマリは言った。「シャワー借りていい? 今日めっちゃ暑くてさ、身体がべとべとなの」

「いいよ」私は冷房の効いた部屋に一日いたから分からなかったが、テレビでも確かに本日が猛暑日であったことを告げていた。

「でも、今日外で何かやってたの」

「湖でバス釣りの大会があったから行ってきたの。賞金があったから一攫千金を狙ったんだけど、素人にはきついね。惜しいとこまでいったんだけど。あ、あとタオルもお願い」

 私はバスタオルをシャワーカーテン越しのところに置きながら、彼女に関心の基準という概念は存在しないのだろうかと考えていた。

 そうすると私は手が空いたので、簡単にトマトとレタスとツナ缶でサラダをこしらえた。シャワーから彼女が出ると、彼女の髪にドライヤーを当て、冷蔵庫から買ってきたできあいの刺身を出して、二人してチューハイを飲みながらそれをつついた。子供っぽいなあと思いながらも、やっぱりサーモンがおいしかった。

 私たちは色々な話をした。マリの前であれば私は好きな話題を気にせずに出せた。そしてテレビを見て、くだらないねなんて言い合いながらも、そこでやってるクイズを本気で考えたりした。そのうちに巨人が布団を叩いたような音が窓の外から聞こえてきた。

「おっ、始まったっぽいね」とマリが言って、私たちはベランダに出た。

 花火は正面の山際で行なわれる。小さい球がひゅるると空まで泳いで大きな光を炸裂させ、一瞬遅れて爆発音がこちらに届いた。その色は鮮やかなだけではなく緑や赤、黄や青など多彩で華やかだった。私たちは室外機に並んで座り、花火が打ち上げられるごとに遠くで人が囃し立てるのを聞いた。

「これは豪快で気持ちがいいね」マリが言った。

「いつもはあんまり見ないんだけどね」私ははにかんでそれに答える。

「どうして?」

「ひとりで見ても楽しくないから」

 私の声は花火の音より小さくてマリに聞こえたかどうかは分からなかった。そうして夢でも見るように私たちは花火を眺めていたが、やがて私は思い出してガラスを開けて部屋に戻り、冷やしておいたスイカを二切れ皿に乗せて、彼女の元へと戻った。

 彼女はそれを見ると感心したように呻いた。「これは、夏だね」

「うん、間違えようのないほどに夏」私はにっこりと笑った。「塩は適当に振ったけど大丈夫かな」

 彼女は早速てっぺんのところにかぶりつくと「いい感じにスイカが甘くなってる」と頬を緩めた。

 しばらく私たちはしゃりしゃりとスイカを齧りながら、打ち上げられては消えてゆく花火の雰囲気に身を浸せていた。誰かが花火を人の一生に喩えていた気がする。いつか一発でかいのを打ち上げてやるんだって。私なんかにもそんなことが起こりうるのだろうか。そんな大事なチャンスが平等に人に与えられているのだろうか。私がそんなことを口走ると、マリは花火を見ながらそれを諌めた。

「平等なんて考えちゃいけないよ。神様や他人から何かを与えられると思うことは、それらに責任をなすりつけることにしかならない。人はひとりで生きてひとりで死ぬ。大事なのはその経過をどう感じるかだよ。神様でも他の人でもなく自分の肌とか心に願いを託すんだ」彼女は食べ終わると煙草に火をつけた。花火よりもよっぽど規模の小さなその火薬の匂いが最もリアルに鼻腔を刺した。

「でも、人ってそんなに強いかな。誰にも頼らずに生きていけるものなのかな」私が愚痴ると彼女はいたずらっぽい眼差しをこちらに向けた。

「それが人の一番の課題なんだよ。人はひとりで生きることを目指してゆくんだ。生活という二文字は命より重いんだよ」

 私は不意に前々から思ってた疑問を彼女にぶつけた。

「そういえば、ずっと援交は仕事として続けるの?」

 そうだなあ、と少し考えて彼女は言った。「飽きたらやめるよ」

「ちなみに赤ちゃんができたら?」

「堕ろす」即答だった。「でも、金は男に出させたいな。そのためにも、相手にシャワー行かせてそのうちに財布とかよく覗いたりしてるんだ。個人情報を控えておけばいざってとき役に立つしさ。まあ、責任取りたくないやつが多いから、脅しても避妊しないのなんて滅多にいないけどね」

 彼女は確かに遣り手っぽかった。

「でも、そういうことになったら罪悪感を感じるだろうなとかは思わないの?」

「思う、かもしれない。思わないかもしれない。心なんていつだって、そうなんないと分かんないよ。だからそれについてあたしは悩まない」

 彼女は涼しげな顔でそう言い放った。彼女が言うと何でもそれが当たり前のことのように聞こえるのだった。

 部屋に戻ると、ほどなくして玄関の扉が開いた。そこには案の定、酔い潰れた父親の姿があった。父親は私に気づくと「おう、犀果じゃないか!」とがなった。私はそれを宥める。

「私はお母さんじゃないよ、ほらこっち来て」私が三和土でしなだれた父の肩を抱えようとすると、彼は目を見開いた。

「そ、そうだ。犀果はもういないんだ、もう死んでしまったんだ。俺のせいで……、俺のせいで! ああ、ユカ、お前は幸せか? 母さんはもういないけれど、でも俺は母さんがどこかで見ていてくれると信じてるんだ。だから寂しくない。だからユカはどこにも行かないでくれるか?」靴を脱がせて、寝室へと運ぶとき大きな涙が私の身体に落ちて、湿らせた。彼も大変なのだと私は思った。

「大丈夫だよ、私はここにいるから」

「そうか、そうか、そうか……」彼は横になると、すぐに意識を失って寝息を立て始めた。私が寝室のドアを閉めて、今に戻ってくるとマリが新しい缶をプシュッと開けたところだった。マリは小さな声で訊いた。

「え? 今のはなに?」

 私はソファに座って身をうずめた。「仕事で疲れてるんだよ」そしてテーブルの上にある自分の缶の残りを確かめ、それを啜った。「二年前に母さんにフラれて、それをいまだに引き摺ってるの」

 彼女は感嘆した声を上げた。「へえ……、ってことは犀果さんってのは死んでない?」

「うん、隣町で元気にしてる。時々手紙も来るし」

「はあ……」マリは寝室の方を一瞥した。「それにしてもなんか霊感強そうな感じだったな、ユカの父さん。お盆の時期だしなんか降りてそう」

 そんなこと考えたことがなかったので、私は失笑した。「確かに、言われてみれば」

「あっ、そういえばさ。霊感で思い出したんだけど」彼女はスナックをつまみながら切りだした。「来週の木曜日って空いてる?」

「来週の木曜日っていうと二十八日だね? 何かするの?」

 私が訊くと、マリは嬉しそうな顔をした。

「うん、ちょっと見たいものがあって」

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