君は、美しい【改訂版】

読み方は自由

僕は、君のすべてが好きだ

 僕達が美しさを好む最大の理由は、その存在自体が醜いからかも知れない。外面の器をどんなに着飾っても、その内面にある醜さが「それ」を段々と穢して行き、仕舞いには器の装飾すらも汚しきって、彼または彼女が本来持っている真の姿、人間の本性をすっかり曝け出してしまうからだ。


 洞察力の優れた人間が、相手の思考をすべて見抜いてしまうように。彼らが得意とする嘘偽りを意図も簡単に見破ってしまうのである。お前達のような人間は、決して美しくはない」と。そして……まあいい、これ以上の思考は無駄だろう。大事なのは、僕が通っている公立の高校、川上高校にも、それと似た風潮がある事なのだ。

 

 容姿の美醜から始まり、能力の優劣に続いて、最後に自分の影響力から、己の立ち位置が決められる風潮。それらの理不尽に苛立ちながらも尚、その慣習を受け入れなければならない風潮。そう言った風潮が、世代間の表層を越えて、今も脈々と受け継がれているのだ。


 僕のクラスにも、その伝統が立派に受け継がれている。クラスの中には半私的な階級制度が組み込まれていて、上位の集団は「それ」に特権意識を、中位の集団は安心ながらも不安な感覚を、下位の集団は底知れない劣等感を覚えていた。


 正に弱肉強力の世界。下位の集団はずっとビクビクし、一人かまたは少数で楽しめる娯楽を見つけては、上位の集団に何度も目をやり続けていた。アイツらに目をつけられたら、平和な学校生活を送れなくなる。僕の隣に座っている少女、桃原ももはら奈津なつも不安な顔で、そいつらの目を絶えず気にしていた。

 

 僕は、そう言う視線をまったく気にしなかった。それを気にした所で、あいつらの意識が変わるわけではない。それどこか(そんな事を続けていたら)、相手にますます目を付けられてしまう。


 桃原さんは華奢な体型が相まってか、他人よりも自分の容姿云々うんぬん(僕は、そんなのまったく気にしていなかったが)を気にしているらしく、僕が話し掛けた時は、やや赤面するものの「う、うん! そうだね!」とすぐに返してくれるが、僕以外の人と話す時は、なかなか上手く応えられず、ようやく応えられても、言葉の端々が何処かぎこちない、不器用な返事になる事が多かった。


「そ、そう、だね……」

 

 彼女はそう応えると、決まっていつも俯いた。

 

 周りの奴らは、特にクラスの女子達は、そんな彼女の事を嘲笑っていた。表面上ではただからかっているだけに見えても、内心では彼女の事を馬鹿にし、そして、その尊厳すらも踏みにじっていたのだ。ある日の放課後、中心となる女子の周りに集まって、彼女の事を「そばかすのお化け」と罵ったのである。「顔もぜんぜん可愛くないしさ。アイツ、一回生まれ変わった方が良いんじゃねぇ?」


 僕は、その言葉にカチンと来た。自分が教室の外に偶々居た事も忘れて、「そこから走りだそう」と思ったくらいに。だが、理性の自分が「それ」を抑えてしまった。「ここでそいつらを殴ったら終わりだ」と、僕の拳を引っ込ませてしまったのだ。


 そいつらの事を殴り飛ばせば、それ以上に彼女が苦しめられる。彼女の立場が、今よりもっと悪くなる。男同士の喧嘩にはほとんど怯まない僕だったが、彼女の事を考えると、その拳を振るうわけには行かない。拳は男子との喧嘩には有利だが、女子との喧嘩には圧倒的に不利なのだ。


 僕はぜる気持ちを何とか抑えつつ、暗い顔で学校の廊下を歩き続けた。それから現在に至るまで、この陰鬱とした気持ちは変わらず、今も周りの笑い声に苛々いらいらしている。「自分達が特別だ」と思い込む笑い声に、その笑い声に逆らえない苦笑いに、両手の拳を握り続けているのだ。「アイツらには、人の痛みが分からないのか?」と、そして……。


「くっ」


 僕は学校が昼休みになると、鞄の中から弁当箱を取り出して、隣の桃原さんに目をやった。「屋上に行こう」と言う合図だ。屋上には人がほとんど来ないため、二人だけで過ごすには絶好の場所となっていたのである。彼女はその合図に頷き、鞄の中から弁当箱を取り出して、自分の席から立ち上がった。僕達はそれぞれの手に弁当を持ちつつ、周りの視線を上手く掻い潜って、いつものように屋上へと向かった。

 

 屋上の空は、晴れていた。昨日は雲に隠れていた空も、今日は澄んだ空色を見せている。まるで現実の憂さを忘れさせてくれるように、一種の安息地を与えてくれていた。彼女の髪をなびかせ、僕の頬を通り過ぎて行った風も、僕達に気を遣ってくれたのか? 若干の肌寒さを感じさせただけで、それ以外の感覚をまったく覚えさせなかった。

 

 僕達は屋上の地面に座り、僕は胡座、彼女は横座りの姿勢を保ったまま、それぞれの調子で、自分の弁当箱を開けた。そして僕が「頂きます」と言うと、隣の彼女も続いて「頂きます」と言った。

 

 僕達は「ニコリ」と笑い合って、自分の弁当を食べ始めた。弁当を食べるスピードは僕の方が速かったが、彼女とはほとんど食べながら話すので、その感覚はほとんど同時に近かった。僕は自分の弁当を食べ終えると、弁当の蓋を閉じて、いつもの包みで弁当箱を包み直した。


「いやぁ、今日も食った、食った」


 僕は、自分の腹を叩いた。


 桃原さんは、その様子を笑った。女子特有の計算高さが無い、純粋な笑みを浮かべて。


 僕は、その笑顔がとても好きだった。


「可愛いな」


「え?」と驚いた彼女は……どうしたのだろう? 「信じられない」と言う顔で、その目を多く見開いた。「かわ、いい?」


 彼女は何故か、しばらく黙ってしまった。


 僕は、その様子を不思議に思った。


「桃原さん?」


 に応えてくれたのは、数分後の事である。彼女は何かを誤魔化したいのか、普段では考えられないくらいに饒舌になった。


 僕は、その話を唯々ただただ聴いていた。


 彼女は、急に押し黙った。理由は分からないが、(たぶん)自分の饒舌に驚いたのだろう。最初は「ハッ」としていた顔が見る見るうちに赤くなり、仕舞いには「う、ううう」と俯いてしまった。


「ご、ごめんなさい。その」


「気にする事はないよ? 桃原さんの話は、いつ聞いても」


 面白い、と言い掛けた直前。彼女は何を思ったのか、悲しげな顔で僕に何度も謝り始めた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


「もも」


「ごめんなさい、私だけ喋って。私の話、ぜんぜんつまらなかったでしょう?」


 僕は、その言葉に首を振った。


「つまらなくなんてない。桃原さんの話はおも、。それを話している

 

 彼女は、その言葉に泣き出した。僕としては、そんなつもりはなかったが、彼女にはたぶん辛い言葉だったらしい。彼女の両目から溢れた涙は、その澄んだ頬を伝って、地面の上にゆっくりと落ちて行った。


三城さんじょう君も」


「え?」


「本当は、嫌なんだよね? こんな私と話すのは」


「なっ!」


「たまたま話すようになったから、私にも仕方なく付き合っているんでしょう?」


 悲観的な言葉は時として、聴く側の心を抉り取る。


 僕はその感覚から、言い様のない悲しみを覚えた。


「そんな事、ないよ」


 本当に。


「僕は、君の話が聴きたいから聴いているんだ」


 彼女はその言葉に俯き、そして何故か、ポッと赤くなった。


「……そう」


「うん……」


 僕は、彼女の手を握った。別に下心があったわけではなく、ただ……。彼女の幼気な手が、初雪を感じさせる手が、その雪解けのような涙と相まって、どうしても握りたくなったのだ。


 冬の寒さから逃れられないのなら、せめてその身体に防寒着を着せてやりたい。寒さの現実を一時いっときでも忘れさせてやりたい。


 彼女と話すようになってからまだ二ヶ月くらいしか経っていなかったけれど、自分と同じような思いを抱く……ある意味ではそれ以上を感じる彼女の事は、僕の中ではどうしても放って置く事が出来なかった。それが「お節介だ」と言われたら、それまでだけれど。

 

 僕は彼女が多少怯んでも、その手を決して放さなかった。


 

 昼休みの終わりは、どうしていつも悲しいのだろう? あの時間がずっと続いていれば良いのに。そうすれば……。でも、現実は残酷だ。内心ではどんなに拒んでいても、時間は待ってくれない。休む事無く流れ続ける。だから気づいた時にはもう、二年一組の教室に戻っていた。教室の中は、みんなの声で溢れている。特に上位の集団はやかましく、周りの連中が席に座っていても、それを無視して、阿呆のように「ギャー、ギャー」と騒いでいた。

 

 僕達は、自分の席に座った。

 

 僕は机の中から教科書類を取り出して、先生が教室に来るのを待った。

 

 先生は、それから五分くらいで教室に来た。

 

 クラス委員は全員に「起立」を促し、そいつらが全員立った所で、また全員に「礼」を促し、数学の先生に「お願いします」と言った。周りの連中もそれに続いて「お願いします」と言い、数学の先生に頭を下げた。


 クラス委員は、周りの級友達に「着席」を促した。


 級友達は、その指示に従った。僕も「それ」に従って、自分の席に座り直した。僕達は、教室の黒板に視線を移した。


 先生は僕達に「何処々々のページを開いて」と言い、黒板にその内容を書き始めた。黒板に書かれたのは、基礎的な問題だった。昨日の授業で習った公式を使えば、簡単に解ける問題。一言で言えば、大抵の人が解けるサービス問題だった。普段は教室の隅っこでブルブル震えている連中にも。それに唯一震えているのは、僕の隣でオドオドしている桃原奈津だけだった。


 先生は、僕達の顔を見渡した。たぶん、問題の回答者を探しているのだろう。最初は教室の全体を見渡していたが、ふと僕の隣に目が行った瞬間、悪戯を仕掛ける子供のように笑って、その生徒をじっと見つめ始めた。


「桃原」


「は、はい……」


「この問題を解いてみろ」


 教室の空気が変わったのは、決して偶然ではない。すべては必然に、それも悪意を持って起こった事だった。先生がさっきニヤリと笑ったのも、これを裏付ける立派な証拠である。先生はすべてを分かっていながら、あえて桃原さんに問題の回答を頼んだのだ。


 桃原さんは自分の席から立ち上がると、不安な顔で僕の事をチラッと見、それから黒板の前に行って、その白チョークを握った。


 僕は、その光景に胸を痛めた。彼女の事を哀れんだからではない。クラスの全員が、彼女の苦手科目を知っていたからだ。それがどうしても腹立たしい。ある日の昼休み、屋上で自分の苦手科目を打ち明けた彼女は、まるで自分の無能さ(彼女は決して、無能ではない)を呪うように、数学への劣等感に苦しんでいた。


 僕は今でも、その光景を覚えている。


「桃原さん」


 僕は不安な顔で、彼女の背中を見つめ続けた。


 桃原さんは黒板の問題を眺めたまま、その場にすっかり固まってしまった。


 先生は、その光景に溜息をついた。


「桃原」


「は、はい……」


「分からないのか?」


「はい……」


 周りの奴らは、その返事を笑った。


 僕は、その光景に眉を寄せた。もう見ていられない、彼女が周りに苦しめられる姿も。そして、そんな彼女を嘲笑う奴ら、そこら中で「クスクス」と笑っている女子達の顔も。僕は周りの反応などおかまいなしに、真面目な顔で自分の右手を挙げた。


「先生」


「ん? なんだ?」


「この問題、僕がやっても良いですか?」


「え?」と驚いたのは、先生だけではない。それを聞いていた奴らも同じだった。


「お前が、か?」


 先生は不思議そうな顔で、僕の顔を見て来た。


 僕は、その視線に驚かなかった。


「いけませんか?」


「い、いや。なら、三城。この問題をやってみなさい」


「はい」


 僕は、黒板の前に行った。黒板の前にはまだ桃原さんが立っていたが、僕の意図がイマイチ分かっていないらしく、僕が彼女に微笑んだ時も、不思議そうな顔で自分の席に戻って行った。


 僕は真面目な顔で、黒板の問題を解いた。



 それがきっかけだったのか? 正確な所は分からないが、クラスの中である噂が流れ始めた。「僕と桃原さんが付き合っている」と言う、実に不思議な噂が。その噂に寄れば、「あの時、僕が彼女を助けたのは、僕が彼女に好意を抱いていたからだ」と言う。「自分の好きな人が周りから馬鹿にされ、挙げ句先生からも呆れられているのを見れば、彼女の彼氏である僕は、当然に黙っているわけがない。すぐさま助けに入る筈だ」と、僕にわざと聞こえる声でそう言い合っていたのである。


「あの二人、いつも話しているからね。付き合っていても、別におかしくないんじゃない?」


 彼女達は勝手な憶測を言い合っては、楽しげな顔で「クスクス」と笑い合っていた。


 桃原さんは、その声に俯いた。おそらくは、女子達の心無い言葉が原因で。恋人でもないのに「恋人だ」と思われるのは、どんな暴言よりも辛い言葉なのだ。彼女は両目の目尻に涙を溜ながらも、それが決して流れないようにしていた。


 僕は、その様子に胸を痛めた。僕達の関係は、彼らが考えるような下衆な関係ではない。もっと大事な、そう言う形容では言い表せない関係だ。


 僕は彼女の手を引いて、学校の屋上に向かった。


 彼女は、その行動から逃げなかった。

 

 僕達は無言で、屋上の地面に座った。丁度、僕が左側に。そして、彼女がその反対に。何も決めていない状態で、ただ地面の上に腰を下ろしたのである。僕達は何も喋らないまま、自分の足下をしばらく眺め続けた。

 

 桃原さんは突然困ったように笑い、自分の両手を静かに組み合わせた。


「変な事になっちゃったね?」


「うん」と返した僕だったが、内心ではまったく悔やんでいなかった。あそこで彼女を助けなければ、連中はもっと……嫌な言い方をすれば、彼女の事を馬鹿にし、また嘲笑っていただろう。彼女は、イジメに近い(と言うかもう、「既にイジメだ」と思うが)扱いを受けている。数学が出来ない事を笑われたり、運動が苦手な事をからかわれたり。僕の知る限りでは、大抵の女子が桃原さんに対して陰口を言っていた。


 僕は、その陰口がどうしても許せなかった。


「桃原さ」


「三城君」


 彼女の声が、震えた気がした。


「ありがとう」


「え?」


「私の事を助けてくれて。あの時」


「そんなの当たり前だよ」


「え?」



「……友達」と呟く彼女は……何故だろう? 理由は分からないが、とても悲しそうだった。彼女は静かに俯き、そしてまた、少し寂しげな顔で「ありがとう」と笑った。


 僕は、その「ありがとう」に笑い返した。



 景色自体は、変わらない。でも、その季節は変わって行く。まるで紙の上に絵具を垂らすかのように、ある時には夏を、またある時は秋を描いて行った。秋の景色は美しいが、そこには小さな憂いが潜んでいる。学校の校庭を彩る銀杏いちょうも、町の道路を駆け抜ける秋風も、夕暮れの空を舞う赤とんぼも、月夜の晩に聞こえて来る合唱も、みんな、初冬に対する最後の抵抗を見せていた。

 

 僕達はその抵抗に震え、また同時に「クスクス」と笑い合っていた。10月の屋上は、少し寒い。9月の頃はあれ程暑かったにも関わらず、今は11月の姿が見え隠れしていた。


「あとふた月で、二学期も終わりか」


「そうだね。夏休みが終わった時は、あんなに憂鬱だったのに」


「気づいた時にはもう、折り返し地点だ」


「本当。時間の流れって、本当に速い」


「まったく。これから冬が来ると思うと憂鬱だ」


「どうして?」


「雪道を歩くと、ズボンが濡れるから」


「スカートじゃないだけマシだよ。コレ、本当に寒いんだから」


「アハハ」と笑う僕だったが、内心では「確かに」と頷いていた。「それは、常々思うよ」


 僕は、隣の彼女に微笑んだ。


「女子は、大変だ」


「……うん」


 本当に大変だよ、と、彼女は言った。


「女になんか、自分になんか、生まれなきゃ良かった」


 彼女の声が震えたのは、それが彼女の本心だからだろう。桃原奈津子を否める……人間は余程の事がない限り、自分自身を認める事が出来ない。他人が「それ」に関わって来る以上、自分に「大好き」とは言えないのだ。だから、他人に「大好き」を求める。承認欲求の名の下に下らない上下関係を作るのだ。今の教室を見ても分かるように。あそこに居るのは、承認に飢えた悲しい獣達なのだ。


「そんな事はない」


「え?」


「そんな事は、ない。自分に生まれなきゃ良かったなんて。僕は」


 僕は、両手の拳を握り締めた。


「桃原さんが桃原さんとして生まれなければ、僕はこうして桃原さんに出会えなかった」


「さんじょ」


「桃原さん」


「は、はい!」


「君は、美しい。他の奴らが、なんて言おうと。僕は世界で一番、君が美しいと思っている」


 桃原さんは、その言葉に悶えた。どうして悶えたのかは分からなかったが、桃色に染まった頬を見ると、僕も何故だかくすぐったい気持ちになった。


「わ、わたしは、その、ぜんぜん、美しくない、よ?」

 

 僕は、その言葉に首を振った。本当に美しい女性は、自分の美しさに気づかない。「自分は、不細工な女だ」と、自分の顔に溜息をつくのだ。本当は、宝石のように輝いているのに。それに気づかないまま、大抵の人が持っている価値観、美的感覚の物差しに計られて、自分の宝石を「単なる石だ」と思い込んでしまうのだ。だから、その宝石がどんなに輝いていても、石ころのように蹴飛ばしてしまう。宝石の入れ物だけに目をやって、肝心な宝石その物を粉々に砕いてしまう。


 僕は、その行為が死ぬほど嫌いだった。


「いや。君は、本当に美しい。


 桃原さんは、その言葉に赤くなった。それもどう言う理由でなったのかは、分からないが。とにかく今までぽうっとしていた顔が、急にパッと明るくなったのである。彼女は両手で自分の顔を覆うと、地面の上に座ったまま、その両足の間に顔を埋めて「う、ううう」と悶えたが、急に立ち上がると、僕の目をじっと見て、何度も深呼吸した。


「さ、三城君!」


「なに?」


「わ、私も、あなたのすべてが好きです! だ、だから」


 の続きは、聞けなかった。それを聞こうとした瞬間、彼女がまた俯いてしまったからである。彼女は何かを呟いて、それからまた、僕の目をじっと見始めた。


「三城君!」


「ん?」


「今度の日曜日はその、予定はありますか?」


「うんう、無いよ。日曜日は、基本的に暇なんだ」


 彼女は、その返事に喜んだ。それも普通では考えられないくらいに「やった!」とはしゃいでは、「え?」と驚く僕を無視して、僕の身体に抱き付いて来たのである。


「三城君と一緒に」


 僕はその言葉を聞き流し、ただ彼女の身体に戸惑い続けた。彼女の身体は儚く……この手を放せば、今にも壊れそうだった。どんな割れ物よりも割れやすいガラス細工。彼女の身体が離れた瞬間には、その残り香も相まって、何とも言えない感覚に襲われてしまった。


「あ、う」


「ふふ」


 桃原さんは僕の顔を見、そして、照れ臭そうに笑った。


「良かった」


 僕はその言葉に笑い返し、彼女と日曜日に遊ぶ約束をした。



 結論から言うと、その約束は無しになった。朝、自分の家を出る時までは良かったが、そこから待ち合わせの場所に行ってみると、何組かのカップルが楽しげに話しているだけで、いくら待っても……たぶん、40分くらいだろうか? 彼女は、そこに現れなかったのである。


「おかしい」


 僕は妙な胸騒ぎを感じて、彼女のスマホに電話を掛けてみた。電話はすぐに繋がったが、そこから聞こえて来たのは、僕が考えていた物とは大きく掛け離れていた。「お掛けになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない所にあるので繋がりません」と言うアナウンス。アナウンスの声はそれから何度も繰り返され、僕がその度に掛け直しても、また同じ文言が繰り返し、繰り返し、僕の耳を何度も打ち続けた。


 僕はスマホの通話を切り、ポケットの中にスマホを仕舞って、その場にしばらく立ち続けた。彼女に何かあったのか? 僕の頬を通り過ぎて行った風、町の景色に吹き付ける秋風からは、その不安を仰ぐ何かが感じられた。……考えていても仕方ない。彼女との連絡が途絶えてしまった以上、自分から彼女の事を探すしかなかった。


 僕はあらゆる手段、自分が行えうる手段を使って、彼女が今、何処に居るのかを調べた。彼女が今、居た場所は病院だった。それも霊安室の、線香の香りが漂う薄暗い部屋の中で、何処か悲しげに眠っていたのである。


「桃原、さん」

 

 僕は茫然自失、目の前の現実を上手く飲み込めないまま、彼女の横に立っている二人、おそらくは両親の前にゆっくりと、だが何処か急ぎ足で歩み寄った。

 

 彼女の両親は、僕の方に目をやらなかった。僕の気配自体には気づいているようだったが、僕以上に状況の異常性を飲み込めないらしく、僕が二人に「あ、あの?」と話し掛けるまでは、二人とも悲痛な顔で娘の遺体を見つめていた。


「君は?」


「三城と言います。彼女の友達の」


「そうか。

 

 二人は加害者でもないのに、暗い顔で僕に何度も謝った。


「すまないな」


「い、いえ、その」


 僕は二人の気持ちをおもんぱかりながら、できるだけ傷つけないように、二人から事故の経緯を聞き出した。


 ……彼女が飲酒運転の車に轢かれたのは、自分の家を出てからすぐの事だった。事故の現場は、交通量の多い交差点。彼女はそこで横断歩道の信号が青になるのを待っていたが、信号が青になるのと同時に車道から突っ込んで来た車、それもよろよろ運転の車に跳ね飛ばされてしまい、そのまま地面に叩き付けられてしまったのだ。


 車はその後も暴れ回り、彼女以外の数人も巻き込んで、コンビニの店内に勢いよく突っ込んだ。それでようやく止まったようだが、すっかり地獄絵図と化していた周りでは、やれ救急車を呼べだの、やれ警察の方が先だの、数多の怒号が飛び交って、まともな感覚な感覚の人間は、ほとんど見られなかったらしい。

 

 桃原さんの近くに偶々居合わせた女性も、本能的な義務感から救急車を呼んだに過ぎなかったらしいが、桃原さんが浮かべていた表情の事は鮮明に覚えていたようで、彼女曰く、「お嬢さんはその表情が無くなるまで、嬉しそうに『三城君、三城君』と笑いながら、天に向かってその手を伸ばしていた」と言う。

 

 桃原さんは朦朧とする意識の中、救急車の中に入れられて、それから近くの病院(つまりは、今居る病院だ)に運ばれたが、ぶつかって来た車がとんでもない速度だった事に加えて、地面の上に叩き付けられた時の当たり所が相当悪かったらしく、病院の救急医達が治療を施そうとした時にはもう、既に手遅れの状態だった。

 

 彼女の両親は、その現実に絶望した。特に彼女の両親は、あまりの悲しさに涙すら忘れてしまったのか、娘の頭を何度も撫でては、壊れた人形のように「奈津、奈津」と呟き続けていた。

 

 夫は、そんな妻の背中を何度も摩り続けた。

 

 僕は、その光景に胸を痛めた。僕も、この二人と同じ。掛け替えの無い存在を、世界にたった一つしかない宝石を、この世で最も美しい宝を、粉々に砕かれてしまったのだ。


「桃原、さん」


 僕は頭の中が真っ白になったが、「ここから逃げ出したい」と言う衝動だけは忘れず、彼女の両親に「ごめんなさい」と謝って、霊安室の中から逃げるように抜け出した。

 


 彼女の居なくなった世界は、死にも等しい世界だった。彼女は僕の、魂の片割れだったのに……。今の僕に有るのは、底知れない闇と、それを取り巻く空っぽな空間だけだった。


 僕は空っぽな心で目の前の現象を眺め続ける、ただの抜け殻になってしまった。彼女の葬儀が行われた時も、そこに僅かな変動が生じただけで、虚無感自体はまったく変わらず……いや、まったく変わらなかったわけではない。彼女の葬儀にはクラスメイトが全員来たが、そいつらの顔を見ると、忘れかけていた怒りが沸々と蘇った。彼らは複雑な顔……つまりは、「別に悲しくはないが、何となく気持ち悪い」と言う顔で、彼女の葬儀に加わっていたのである。


 僕は、その態度が気に食わなかった。


 人がひとり死んだんだぞ?


 それなのに、その態度はなんだ?


 彼らの中にあるのは、等級で人の命を計る心と、今の状況を面倒臭がる腐った性根だけだった。「ブスのくせに調子こいてんじゃねぇ。お前は、ケータイ小説のヒロインか?」や「葬式代の所為で、今月の小遣い無くなったんだぞ?」と言った台詞が、何よりの証拠。彼らは自分の立場を脅かす者、例えば、彼女の両親には愛想良く振る舞ったが、斎場の中から出て行った後は、いつもの顔に戻って、桃原さんの死とは関わりない話題を、あるいは、その死を思い切り愚痴り合っていた。

 

 僕はその光景に苛立ったが、彼女の両親が居る手前、その不満は決して表には出さなかった。彼女の両親もそれを察していたのか、最後まで残っていた僕にただ「ありがとう」と言って、僕の右手に簡素な紙袋を渡しただけだった。

 

 僕はその持ち手を握り締めつつ、彼女の両親にまた頭を下げた。


 それからの日々は、本当に孤独な日々だった。クラスの連中が(僕に気を遣っているのか、それとも単に「かわいそう」と思っているのか)何かしらの話題を振って来ても、その話題がちっとも面白くない。中でも恋愛の話になった時は、底知れない嫌悪感を覚えてしまった。


 この世は所詮、恋愛がすべてなのだ……そう何度も訴える。恋愛至上主義の素晴らしさを語り続ける。「人は他人を愛し、他人を生み出して、他人に命を繋いで行くのだ」と、そして、「それを至上に考えないのは、生き物として何処かおかしい」と、人間社会の根幹を嬉々ききとして話して来るのである。


「恋愛アンチとか、マジで終わっているでしょう?」


 彼らは本能の赴くまま、恋愛の快楽を必死に貪り続けた。


 僕はその光景に憤り、学校が昼休みになるとすぐ、いつもの屋上に行って、その地面に腰を下ろした。地面の上は、冷たかった。彼女と居る時はまったく感じなかったが、冷気に当てられたコンクリートは、僕が思う以上にずっと冷たかったのだ。


「だから、人間は温かいんだね」


 そう呟いた瞬間に視界が潤んだのは、決して偶然ではないだろう。それから両目に涙が溢れ、その涙が頬を伝って行った感触も、彼女が残してくれた宝石の所為に違いない。その宝石は今も尚、僕に彼女の幻影を見せていた。


 僕は両目の涙を拭い、彼女の幻影に《すが》縋った。

 

 もう二度と触れられない幻影に。

 

 とても美しい幻に。

 

 僕はその二つを感じながら、目の前の幻にこう呟いた。


「君は、美しい」と。

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