暗く狭い地の底で

――なあ、知ってるか?


――……何をだ?


――この世界には、どんな傷も呪いも癒しちまう薬があるってよ。


――馬鹿馬鹿しい。子供騙しのお伽噺だ。


――おいおい、余裕が無いな余裕が


――……うるせえよ



〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃



──夢を見る事は悪い事じゃないさ──


 何時か誰かがそう言った。そう、夢見るだけなら、それは悪ではない。そう、それだけなら悪ではない。

 誰だって、夢見るだけならする。

 悪は、その夢に他者を巻き込み、破滅する事だ。


 ──そうだ。俺には夢を叶える権利がある! ──


 夢を叶える権利なら、誰にでもある。

 叶えられるかどうか、それを別にしても、叶える権利だけなら、誰にだってあるのだ。


 ──じゃあ、君の夢を教えてよ──


 …………


 ──分からない。覚えないんだ──


 …………ト


 ──なら、一緒に見つけよう──


 …………ーと


 ──ああ、くそ……。どうしてなんだ……──


 ……ート


 ──そんなのは間違ってる……! ──


 ……ロート


 ──だから、俺の経験値の為に死ねよ、人形◼️◼️C共! ──


「クロート!」

「……ヤシリツァ、か。何の用だ?」

「何の用だじゃないよ。あんなに魘されてさ」

「魘され? ……ああ、そうか」

「クロート、今日は休もう?」

「……ヤシリツァ、魘された程度で……」

「いや、違くて。クロートが昼寝してる間に、セーィフが店仕舞いしてた」

「なに?」


 換金屋のセーィフは、中層やもしやすると上層とも、何らかの繋がりがあると噂される翁だ。そして、そのセーィフは守銭奴でも知られ、クロート達の稼ぎになりそうな話には、必ずと言って奴の名がある。

 そのセーィフが理由も無く、昼間から店仕舞いをするとは考え難い。

 だが、


「奴も年だ。急に体調を崩したとかはどうだ?」

「ん~、なら市場が寂しい理由が無いよ」

「市場もか?」

「ついでに酒場も、というか酒場は穴蔵以外ほぼ全部」

「上から、は無いな」


 上層の貴族が、態々下層に降りてくる時は、必ず〝先触れ〟を出してくる。連中にとって、この下層に住まう下民なぞ、人でもなければ獣ですらない。

 穢らわしい、人の姿をした何かだ。


「ねー、クロート。その前言ってた〝先触れ〟ってヤバいの?」

「セーィフに聞いただろうが」

「あの爺、アタシだと雑に話すもん」

「それはお前が嘗められてるからだ」


 寝起きだというのに、頭を回す事になったクロートは、不機嫌を隠す様子も無く、巻いていた包帯を解き、愛用の防毒面で爛れ裂けた顔を、器用に片手で覆い隠す。


「クロート、ほい、腕出して」

「……一人で出来る」

「一応言っとくけど、顔色マジで悪いからね? あと、マスクも外して。顔にも薬塗っとくから」

「…………すまん」

「いいよ別に」


 クロートが防毒面を外す。その間に、ヤシリツァは棚から普段とは違う革手袋と、小さな丸い缶を取り出し、前の日に洗って干していた布と、さっき沸かした湯を桶に満たす。

 普通の人間より、指と爪が長く、鱗もあるヤシリツァ専用の革手袋を、特に引っ掛かる事も無く、スルリと嵌めると、缶の蓋を開く。

 薄く白濁した、半透明の軟膏が詰まった缶だが、開けた瞬間、ヤシリツァは顔をしかめる。


「相変わらず、スゴい臭いだよね」

「だから、オレがやると言った」

「クロート。はい、腕出して」


 自分でやるなら、それはそれで構わない。しかし、今日の様な日には、クロートはかなり雑に薬を塗布する。


「この間、疲れたからって傷を洗わず、雑に薬の塗って、傷が化膿して、唸ってたクロートを医者に運んだのは誰?」

「……すまん」

「いいよ別に」


 布を湯に浸け、しっかりと水気を絞る。

 色の付いていない水気が、滴となって桶に張った水面に落ちていく。

 手の中で、捻くれた布の皺を取る様にして、一度二度布を軽く叩く。そしてまた湯に浸け、水気を落とす。

 二回やる意味は無い、こうした方が布が軟らかくなる気がするだけだ。


「ほーい、じゃあ拭くよー」

「ああ」


 火傷の痕に指を触れると、何時もと同じ僅かな強張りが伝わる。左腕と裂けた左頬と半分、ヤシリツァが物心つく頃には、既にあったその傷は、塞がっていなければおかしい筈なのに、いまだに完治する気配を見せない。


「気にするな。治るものじゃないが、これ以上は悪化するものでもない」

「トラヴァー先生から聞いてる。バカみたいに強力な、魔力の塊か何かで焼かれでもしないと、こんな事にはならないって」

「あの医者も余計な口を……」


 傷痕を拭う布を、また湯に浸けて汚れを落とす。薬かまだ染み出す膿か、桶の湯は薄く汚れていた。

 軟膏を手に取り、まずは己の手に塗り広げてから、クロートの傷に染み込ませる様に、あまり力を入れず塗布していく。


「クロート、昨日薬塗った?」

「ああ」

「……また雑に塗ったね」


 トラヴァーという医者が、ほぼ無償で渡してくるこの軟膏はよく効き、クロートの傷を本当に僅かにではあるが、塞ぎつつある。

 しかし、あまり塗り過ぎると、強い効き目が反って毒になる。余程雑に塗布しなければ、そうはならないのだが、クロートはそれをたまにやる。


「取り敢えず、腕はよし。次、顔ね」

「ああ」


 手袋に着いた軟膏を、汲み直した湯で一度洗い落とし、手袋の水気を切る。クロートの傷は、出来る限りは生身で触れない方がいいと、医者からは何度も言われている。

 何故かと問うと、


「ああいった、強すぎる魔力で出来た傷には、目には見えない……、なんと言うか、そうだね……、〝呪い〟の様なものが残る事がある。一度触って平気でも、二度三

 度と続けば、〝呪い〟が伝染する。そんな事があるんだよ」


 だから、この特別製の革手袋でしか、クロートの傷には触れられない。

 それは別に構わない。しかし、ヤシリツァが気になるのは、何故にトラヴァーがほぼ無償で、この軟膏を提供しているのかだ。

 以前に、それとなく聞いてはみたが、はぐらかされて結局は分からず仕舞いに終わった。

 怖いという訳ではないが、あまり良い気配はしなかった。


「まだか?」

「待って。というかさ、雑に塗り過ぎだって。ほら、髪にまで付いてるじゃん」


 顔は裂けた頬の内側に、薬がはみ出ない様に塗り込みつつ、腕以上に力加減には気を使う。


「んで、セーィフの話はどうなった?」

「わ、急に喋んないでよ。その話だけど、コーシカが言うには、外から変な奴が来てたって」

「コーシカ? 〝噂好き〟のコーシカか」


 クロートの口の動きが止まってから、またゆっくりと軟膏を塗り込む。顔は腕以上に傷が深く、軟膏を塗る指に嫌な柔らかさが伝わる。

 滑る、軟膏を塗る指ではなく、ヤシリツァの指がなぞる動きで、クロートの皮膚が滑る。


「誰かを捜してるみたいな話だったらしいよ」

「捜す? ……嫌な予感しかせん」


 皮と肉の間に、まだ何かがある。間違いなく、膿だ。

 顔だけは、いくら軟膏を塗り込んでも、膿が消える気配が無い。

 ふと、力を入れすぎると、膿で肉から皮が剥がれて、落ちてしまうのではないか。そんな有り得ない不安に駆られる。


「……終わったか?」

「終わったよ」

「なら、腕と上着を取ってくれ。一応、セーィフに話を聞きに行くぞ」


 防毒面で顔を覆い隠し、不釣り合いな左腕を取り付け、ベルトで固定する。

 堅牢な外殻に覆われ、強靭な鉤爪と幾つかの機能を備えた腕。

 あの日、紅蓮の炎の中に沈んで、目が覚めた時には、これがあった。


「ついでに、お前がちょろまかされた上前も回収する」

「え、嘘?」

「早く金勘定を覚えろ」


 謝罪と贖罪と共に渡されたのは、温もりの欠片も無い腕と、己を苛み続ける傷。

 死のうとしたが、何の因果か。中々死ねず、果てにはこの迷宮水路の片隅に居座っていた。


「話聞いてどうすんのさ?」

「面倒事なら籠る」

「面倒事じゃないなら?」

「無視だ」


 今の生活は気に入っている。

 余所者に余計な真似はされたくない。

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