蛇髪

田所米子

蛇髪

 お前は本当に、髪だけは綺麗だな。

 男がそう褒めると、妻はいつも困ったような、控えめな笑みを浮かべる。どこに出かけるでもないのに、桜色の口紅が塗られた唇の端がおっとりと持ち上がる様を、男はもう何度も見てきた。そして、そのたびにつくづく思う。これの見てくれにもう少し華があったら、俺の人生ももう少し張りがあっただろうか。仕事のし甲斐もあっただろうか、と。

「ありがとうございます、あなた」

 しかし、微笑み同様に控えめな妻の囁きを耳にした途端、いつも思い直すのだ。たしかに妻の顔立ちは小作りで平凡だが肌は白く、染みや皺も少ない。それゆえ妻は実年齢よりも若く見える方だし、何より所作には品がある。それに、いつも夫である俺を立てて、でしゃばらない良い妻ではないか、と。

 男が出会った中で、妻よりもいい女は沢山いたし、実際そういった女たちと過ちを犯したことも一度ならずある。しかし男がいつも妻が待つ家に帰ってきたのは、結局のところ伴侶として人生を共にするのは、妻のような女が一番だから。華やかさも面白みもない女の方が、安心して家と子を任せられる。実際妻は、二人の息子を立派に育て上げた。

 母の従兄の妻の二番目の弟の娘だとかいう、縁があるのかないのか分からない間柄の妻と見合いを経て結婚してから、もう二十年以上経つ。振袖を着るのではなく振袖に着られていた妻を選んだのは、大人しくて従順そうなところがよいとの、母の勧めに従っただけではない。

 まだあどけなさが抜けきらなかった妻には似合っていなかった結い髪。あのつやつやと輝く射干玉ぬばだまの髪を崩して、己の指で梳いたら。さすればどれだけ心地良く指の間を流れるだろうと、まだ若かった男はほんのしばしとはいえ魅了されたのだ。つまり男は、妻ではなく髪を娶った。もしくは、髪のおまけで妻を手に入れたのである。

 若かりし日の過ちとも呼べる選択の理由を、妻の耳に入れるのは流石に憚られる。けれども妻は自分が選ばれた理由を察してか、息子たちが腕白盛りの時分でさえ、日に一時間はかけて髪を梳いていた。

 嫁入り道具の一つである柘植つげの櫛を、妻は週に一度は必ず椿油で手入れする。ゆえに、下ろせば腰を越すほどの長い髪は益々艶やかになるのだ。男のそれに混じる白い筋を、そろそろ誤魔化しきれなくなっても、なお。


 息子たちが巣だった後の、夫婦二人だけの食卓で喋るのは、テレビの中のアナウンサーぐらいである。結婚当初はあまり口に合わなかった妻の手料理も、今では男の母の味にかなり近づいていた。特に今晩のおかずの肉じゃがなど、母の肉じゃがそのものだと言ってもよいのではないだろうか。

「今日の肉じゃが、美味いな。もしかして、昔よくあったみたいに、母さんが乗り込んで作っていったのか?」

 すると妻は、薄化粧を施した顔をふんわりとほころばせた。野に咲く花のようと例えれば聞こえはいいものの、華やかさに欠ける顔を。

 いつかの帰省の際に、妻の料理が不味いとぼやいたのを聞きつけたのか。長男が中学校に上がるまでは、母はよく遠路はるばる料理を作りに来てくれていた。

 突然の義母の訪問に、最初は妻も肝を潰していたが、幼い子供を抱えていた身だ。義母の加勢は何よりの助けになったに違いない。妻が母の味を習得するにつれ、母の突撃は稀になったが、それでも母は折につれ妻をよく指導していた。

 そんな大恩ある義母の話題が出たのだから、料理を褒められた礼を言うついでに「そういえばお義母さんはお元気にしてらっしゃるかしら?」ぐらいは口にしても良かろうに。つくづく気が利かない妻だが、この程度の短所は我慢できる。男はこれからもずっと妻と連れ添っていくのだから、余計な波風は立てない方がよいのだ。

 視線を妻の顔から再びテレビの画面に移すと、丁度ニュースが終わった所だった。次に始まるのは、夏にはよくある視聴者の体験談を寄せ集めた心霊番組。幽霊の類は一切信じない男にとっては、何よりくだらない話題だ。これ以外ならなんでもいいと、リモコンに伸ばした指がしばし止まってしまったのは、低俗だと見下してならないインチキに興味を引かれたからでは断じてない。

 ――これから調査するのは、蛇に呪われたという……。

 最近よく見るようになったお笑い芸人が口にしたのは、極めて月並みな言葉だった。狐と蛇、ついでに猫は祟ると、昔から言われているのだから。ただ男は一つだけ、蛇に関する、科学では説明しきれない体験をしたことがある。否、現在進行形でしている。だからつい、蛇という単語に過剰に反応してしまったのだろう。

 男の些細な変化をこんな時は目ざとく見つけた妻に、こんなくだらない番組に関心があると思われたら恥だ。慌ててチャンネルを時事問題を扱った番組に変えたが、いまいち内容に集中できなかった。

「今日は、調子が悪いみたいだから」

 実際は健康そのものだったのだが、男が早々と布団に潜り込んだのには理由がある。

 男は若かりし頃――それこそ、妻と結婚したての時分から、今に至るまで、同じ夢を見続けている。多くて週に二、三回。少なくても月に一度は必ず見るその夢で、男は必ず蛇に首を絞められるのだ。

 普通に考えれば、気味の悪い夢だと眉を顰めたくなるだろう。男も、これが他人の身に起きた出来事だったらそうしている。ただ、夢路を渡ってやってくる蛇のひんやりとした体は、絹のごとく滑らかで。できるのならばいつまでも、触れ合っていたくなってくるのだ。しかし捕まえようと手を伸ばしたら、するりと逃げられてしまう。

 何度も繰り返し同じ夢を見るのには、突き詰めればきっと科学的に説明できる原因があるに違いない。例えば、ストレスとか。

 下の息子が大学進学を機に家を離れ、それと同時に夫婦の寝室を離してから、蛇の夢を見る頻度は以前よりかは減っていた。だから、これが最もあり得るだろう。子育てと仕事の負荷は蛇という形をとり、眠りの中でなお男を苛めていたのだ。

 だとしたら俺は、あと何回この蛇の夢を見れるのだろう。

 微睡む男の願いが通じたのか。もしくは今日も今日とて物覚えが悪い若手の世話に疲れ果てて帰宅したからか。念願の蛇は、今宵男の夢に訪れてくれた。

 極上の絹。いや、絹をも越える肌触りの蛇は、いつものごとくしゅるしゅると男の首に纏いつく。変温動物らしい冷たい身体が与える圧力は強く、時に息苦しさを覚えるほどだが、それがまた心地良かった。現実の蛇ならば切っても切り離せない、生臭さがないのも良い。

 直接姿を見てしまったら二度とこの蛇は己の元に訪れなくなるのでは、と危惧して、今までは固く目を閉ざしてきた。夢の中だというのに。己に纏わりつく蛇が二目と見れないような化物で、驚いて叫び声でも上げてしまったら、と。しかしよくよく考えれば、これほどの快楽を与えてくれるのだから、神々しいほど美しい蛇に違いない。それに、正体を見極めてこの蛇を御せば、男は思うがままに望む夢を見られるようになるのではないだろうか。

 意を決して目蓋を開いたのは、夢の中でかうつつでか。遠い遠い日の初恋の相手以上に焦がれた蛇は、僅かに残る一抹の不安のように醜くはないが、期待していた美しさを備えてもいななかった。

 カーテンから透ける月光に照らされ朧に浮かび上がるのは、見慣れた白い面と、男の首に絡む長く艶やかな妻の黒髪。

「まあ、あなた。起きてしまったんですね」

 そうして妻ははんなりと、いつもと変わらぬ笑みを浮かべたのだった。

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蛇髪 田所米子 @kome_yoneko

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