第二話

 加藤家のリビングには融解した高志の死体が転がっていた。

 学は家を飛び出し、住宅街を逃げるように走っていた。

 N市八十三(やとみ)町の閑静な住宅街だった。彼が生まれ育った八十三町は、十年ほど前からN市のベッドタウンとして栄えてきた。町の北と南に国道一号線と二三号線が走っていて、駅はJRと名鉄、近鉄のみっつもあり、町内には無料の福祉バスが走っている。ベッドタウンというだけあって交通の便はいい。

 学はぜいぜいと荒い息をしながら住宅街をよたよたと走った。十六年間ひきこもりの生活を続けた彼の筋力は走ることもままならないほど低下していた。

 学の目には、彼の姿に好奇の視線を向ける通行人たちが見えた。その通行人たちの姿もまた、高志のように化け物のように見えたり、人間に見えたりする。蝙蝠男、さそり男、かまきり男、蜂女……。

「一体何だってんだよ……。どうなってるんだよ……。町中化け物だらけじゃないか……」

 電柱にもたれて、彼はつぶやいた。

「高志くんも化け物だった……高志くん……殺した? 俺が? 殺さなきゃ俺がやられてた……」

 電柱のそばでうずくまっていると、彼のそばに巡回中のパトカーが停まった。

「ちょっと君、いいかな?」

「その格好何? コスプレ?」

 パトカーから降りてきた警察官ふたりに学は職務質問を受けるはめになってしまった。

 警察官もやはり化物だった。カメレオン男とコブラ男だ。

「モラトリアムトリガー!

 キュイキュイキュイキュイキュイ!

 サマーサンシャインバースト!」

 ふたりの警察官の死体が溶解する。

「くそっ、おまわりまで化け物かよ……!」

 学はその場を走って逃げ去った。




 壁も天井も床も家具もすべて真っ白な美しい部屋。

 ノートパソコンで住宅街に設置された監視カメラの映像を観ているスーツ姿の女は部下に指示を出していた。

「加藤学は現在、N市八十三町内の住宅街を通過中。

 彼が帰宅するまでに、橋本高志の死体を処理しろ」



 学はコンビニにたどり着いた。

「指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱い……。何か飲み物……」

 しかし、コンビニの入り口には「フルフェイスでの入店お断り」の張り紙があった。

「入れない……」

 学は再びその場にうなだれて座り込んだ。




 数時間後、学は県立朝日ヶ丘高校近くの公園にいた。もう夕方だった。

 ブランコに腰掛け、うつむいてぼんやりしている彼に、好奇の視線を向ける公園の利用者たち。

 彼らが化け物のように見えたり、人間に見えたりするのにはもう慣れてしまった。

 自分がひきこもっていた十六年の間に、世界は悪の秘密結社か何かに征服され、全人類改造人間計画が実行されたのかもしれない。

 と彼は思い、ひとり笑った。

 16年も世界と断絶した生活を送っていたのだ。今は二〇一三年だ。科学も医療も世紀末からは飛躍的に発達しているに違いなかった。全人類改造人間計画とまではいかなくても、老いや病を克服するために人類は遺伝子操作か何かの技術でもはや人の姿ではなくなってしまったのかもしれない。だとしたら学が殺してしまったのは、化け物ではなくただの人間だったのだろうか。考えてもわからなかった。だから彼は考えるのをやめた。

 学が顔を上げると、部活動帰りの女子高生がふたり、公園脇の歩道を歩いてくるのが見えた。

 彼はふたりの前に飛び出した。

 女子高生たちは驚き、

「きゃっ」

「何!?」

 悲鳴を上げた。

「麻衣」

 学は右側のよく知る少女の名前を呼んだ。名前を呼ばれた女子高生、加藤麻衣は、警戒して後ずさりした。

 もうひとりの女子高生は麻衣を置いてその場から立ち去った。

「ちょっと雪ちゃん、待って。置いてかないで」

 麻衣も雪と呼ばれた少女の後を追おうとしたが、

「待ってくれ、麻衣、俺だよ俺」

 その声に、麻衣は聞き覚えがあった。

「……お兄ちゃん? その格好どうしたの?」

 加藤麻衣はひとまわり以上離れた学の妹だった。

 ふたりはブランコにふたり並んで座った。

 麻衣はブランコを揺らしながら

「それ、コスプレ? 変なの」

 と言った。

 学は麻衣をまじまじと見て、彼女が化け物に見えないことに安堵して、

「起きたらこの格好だったんだ」

 そう言った。

「脱げないの? それ?」

「脱ぎ方がわからないんだ。コンビニには入れないし、警官には職質されるし、もう散々だよ。お袋が何か知ってると思うんだけど、この手じゃ携帯使えなくて。お前、電話かけて聞いてくれよ」

「たぶん、お母さんたち、今頃もう海外だから携帯つながらないよ」

「まじかよ……」

 学はまたしてもうなだれた。

「お前、何か知らないか? お袋、俺に一体何したんだ?」

「知らなーい」

 麻衣はそう言って、高く揺らしたブランコから飛び降りた。

 体操選手のようにきれいな着地を決めて、振り返ると、

「それよりさ、出られたんだねお部屋。家も。こんなところまで来れたなんてすごいね」

 と、学に満面の笑みを向けて言った。

「……うん、出れた、んだよな。もう一生あの部屋で過ごすもんだと思ってた」

「お母さんのおかげだね」

「……そうだな」

「おめでとうお兄ちゃん」

 麻衣は学をぎゅっと抱きしめた。

「麻衣……」

 暖かい。

 優しいぬくもり。

 本当は母が与えてくれるはずだったもの。けれど母が与えてくれなかったもの。

 世界のどこかに本当の母親がいるのだと学は信じていた。

 だけど、いつからか、それが妹だと思い込むこむようになっていた。

 この十六年間で、彼が心を許したのは妹だけだった。

 そのことを妹に話したことはなかった。

 言ったらきっと妹は気持ち悪がるだろう。

 だから言わない。一生、彼が妹にそれを告げることはない。

「どうやったら元の姿に戻れるか一緒に考えてくれよ」

 学は言った。

「んー、麻衣はこのベルトが怪しい気がする。もう触ってみた?」

 麻衣はベルトを指差した。確かに見るからに怪しかった。携帯ゲーム機がベルトのバックルになっていた。テレビのマスカレイドアバターも変身ベルトを装着して変身する。

「いや、こわくて……」

「お兄ちゃんって、ていうか男の人ってそういうところあるよね。女の子はいろいろ試したりするよ?」

「そうなのか」

「このベルトについてるのゲーム機?」

「そうみたいだな」

「これ、はずしてみたらいいんじゃない?」

 そう言って麻衣はゲーム機をベルトからためらいなく外した。

「お、おい!」

 学は慌てた。高志を殺してしまったときのことを思い出したからだ。

「何が起きるかわからないんだぞ! って、あれ? 元に、戻ってる……?」

 しかし、変身は解除され、学は人の体を取り戻した。

 ボサボサの頭、無精ひげ、黒縁めがね、アニメ「未来星人ぷぷるん」のTシャツ、典型的なオタクファッションで、それは間違いなく学の姿だった。違うのはその体が醜く太っていなかったということだった。

「お兄ちゃん、やせた?」

 麻衣が言った。

「みたいだな」

 学はそう言った。

「自分のことなのに変なの」

 麻衣は笑ったけれど、学にも自分の身に何が起こっているのか、まるでわかっていなかった。

 ともあれ、人間の姿にもどることはできた。今はそれでよしとしよう。

「えへへ、麻衣のおかげだね」

「ああ……。ありがとう」

 しかし、学は気になることがあった。

「お前、背、縮んでない?」

「お兄ちゃんがおっきくなったと思うんだけど」

 痩せただけでなく、背が15センチほど伸びていた。筋骨隆々のまるでスポーツ選手みたいな体をしていた。メガネももう必要なかった。見える世界が昨日までとまるで違っていた。

「さっきのコスプレのせい?」

 麻衣が言って、

「たぶんな……」

 と学は答えた。まるでイモムシがサナギになって蝶になるように、学の身体には劇的な変化が訪れていた。

「ね、さっき何が起きるかわかんないって言ってたけど、何かあったの?」

 麻衣の問いに、

「高志くんが……」

 と、学は答えた。

「高志くん? 従兄弟の? 高志くんがどうかしたの?」

「いや……、なんでもないよ」

 殺したなんて言えるわけがなかった。

 妹が悲しむ顔を見たくはなかった。けれど、いつかは知られ、悲しませてしまうことになってしまう。けれど、今は嫌だった。嫌なことは後回しでいい。そのときになってから考えればいいと思った。

「元の姿に戻れたことだし、もう帰ろ? そんな格好じゃ寒いでしょ。お兄ちゃん、頭ボサボサだよ。麻衣が髪、切ってあげる」

 妹の笑顔がうれしかった。




 一体何が起きているのかわからなかった。

 どうしてマスカレイドアバターになってしまったのか。

 どうして高志や町中の人々が化け物に見えたのか。

 家に帰ると高志の死体はなかった。

 まるで悪い夢を見ていたかのようだった。


 学はその夜、風呂場で麻衣に髪の毛を切ってもらった。麻衣は器用に、流行の髪形にしてくれた。

 麻衣は携帯電話で髪型を調べてくれた。

「刈り上げマッシュショートっていうのが今年の流行みたいだよ」

「何それ?」

「爽やかなイメージのツーブロックショートだって」

「全然意味わかんないけど、じゃ、それで」

 洗面所でひげを剃る学の頭を、麻衣がスタイリングしてくれた。

「こうやって、全体にソフトワックスをなじませたら、真ん中に軽く集めるように整えたら完成」

 麻衣は美容師になれるんじゃないかというくらい器用だった。

「麻衣ね、大学の推薦決まったんだ」

 インターネットの通販サイトで学の服を選んでくれながら、麻衣が言った。アニメのTシャツはやめてほしい、かわいい妹にそう言われたら断れるはずがなかった。

「そっか、おめでとう。どこの大学?」

「城南大学」

「父さんの……」

 ふたりの父親は城南大学の生化学研究室に所属する優秀な科学者だった。

「うん、いろいろ悩んだんだけどね、お父さんの研究室に入って、お父さんの研究のお手伝いしたいなって」

「そっか……。本当だったら俺がそうならなきゃいけなかったんだよな、ごめんな。俺は父さんの期待に俺は答えられなかったから」

 立派な父親を持つ学は、物心つく前から神童と呼ばれるだけの頭脳を持っていた。両親はもちろん、教師たちからの期待も大きかった。けれど高校受験に失敗して、彼はひきこもりになってしまった。だから麻衣が自分の代わりに自分が歩むはずだった道を選んだのだと思った。

「ううん、お兄ちゃんのせいじゃないよ。麻衣は自分の意思で決めたんだ。だからお兄ちゃんはお兄ちゃんの好きなように生きたらいいと思う。せっかく部屋から出られたんだし」

「ありがとう」

 涙が出そうだった。


 けれど、

「俺の好きなようにか……」

 学は自分の部屋に戻ると、ひとり足元に転がるベルトを見つめた。

 高志や警察官たちをその手で殺した瞬間のシーンがフラッシュバックした。

 学にはしたいことなんて、ひとつしかなかった。


 翌朝、学は学校へ出かける妹を玄関先で見送った。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。車に気をつけるんだよ」

 学は自室へと戻ると、ベルトを鞄に詰め込み、本棚から中学校の卒業アルバムを探した。

 テニス部員の集合写真を学は見つめた。中学時代の彼の姿があった。

 その写真を見ると、十六年もの歳月が経ったことがまるで嘘のように、当時の部室での部員たちの声が聞こえた。

「白ブタ?」

「そ。あいつ色白で太ってるだろ。だから白ブタってわけ。みんな明日からあいつのこと白ブタって呼べよ」

「みんな野中さんの言う通りにしろよ」

「あは、白ブタかぁ。いいね。俺、前から思ってたんだけど、テニスって紳士淑女のスポーツじゃん? 白ブタみたいなデブがやっちゃいけないよね」

「まぁそんなこと言ったら佐藤みたいなワキガもテニスやったらだめだけど。あいついじめんのも、もういい加減飽きてきたからなぁ」

「佐藤のこと、ちょっとかわいそうになってきたし。佐藤、もうワキガとか言っていじめたりしないから安心しろよ」

「おい、佐々木、わかってんだろうな。お前もやるんだぜ」

「お前と加藤、友達みたいだけど、野中さんに逆らったらどうなるかくらい、お前だってわかるだろ?」

「いいか、みんな、白ブタがこの部やめるまで追い詰めてやろうぜ。なんなら自殺するまでやってもいい。俺、一度でいいから人殺してみたかったんだよ。ははは」

 色白で太っていた学は部活動で白ブタと呼ばれ、いじめられていた。いじめのリーダーは野中という男で、平井、中北といった連中が野中の手下で、野中自身がいじめに手をくだすことはほとんどなく、彼らが率先して学をいじめた。

 部活動でのあだ名がクラスや学年に浸透してしまうまで、そんなに時間はかからなかった。顔も名前も知らないような他の学年の生徒から白ブタと呼ばれることもあった。

 だから、高校受験のときに考えたのは、同じ学校の連中が誰も行かないような学校へ行くことだった。

 そんな学校は県でトップの朝日ヶ丘高校しかなかった。麻衣が今通っている高校だ。

 学は神童と呼ばれてはいたが、国語・数学・英語・理科・社会の主要五教科の成績は良くても、体育や美術、技術家庭、音楽などがテストの成績はいいのだが実技が伴わず、内申点的にギリギリだった。受験では一問のミスも許されない、全教科満点を取らなければ合格できない、そんな状況だった。それなのに試験中に部員たちが彼をあざ笑う声が聞こえはじめ、それが止むことはなく、彼はケアレスミスを連発した。

 そうして学は受験に失敗し、滑り止めの私立高校には合格していたが、そこは彼が望んだ同じ学校の連中が誰も行かないような学校ではなかった。高校には三日しか通うことができなかった。今日から授業が始まるという四日目に、学はまたいじめられるという恐怖から部屋から一歩も動くことができず、ひきこもりになった。

 夕方には前日麻衣が注文した服が届いた。ダッフルコートとシャツとサルエルパンツとブーツだった。

 学はそれに着替えると、ダッフルコートのフードを目深にかぶって家を出た。

 会社から帰宅途中のスーツ姿の男、彼をいじめていたうちのひとり、中北智道の後を尾行した。

 部員たちの現状、勤めている会社などはSNSサイトで簡単に知ることができた。中学生時代から鉄道オタクだった彼はJRの職員になりたかったらしいが、夢はかなわず中小企業の営業マンをしていた。

「中北!」

 学は人目につかない路地で、中北を呼び止めた。

 中北が振り返ったときには学はマスカレイドアバターに変身していた。

「なんだお前? その格好、頭わいてんのか?」

 学には中北が化け物に見えた。ハエ男だった。いじめの首謀者だった野中のまわりをぶんぶん飛び回っていた彼にふさわしい姿だと思った。

「……まったく、ありがたいよ。お前も化け物で」

 学はベルトのバックルのゲーム機についた四つのボタンのうちのひとつを押した。

 それはSF小説なんかに出てくる加速装置と呼ばれる高速運動をもたらすものだった。学は麻衣が学校に行っている間に何度も変身し、その性能と機能を把握しつつあった。

 一瞬で、背後にまわった謎のコスプレ変身ヒーローに、

「え?」

 中北は驚き、振り返った。その額に学はモラトリアムトリガーの銃口を向けた。

「モラトリアムトリガー!

 キュイキュイキュイキュイキュイ!

 サマーサンシャインバースト!」

 ゼロ距離射撃だった。

 頭部が吹き飛び、血飛沫を上げるハエ男に学は言った。

「おかげでためらいなく殺せるよ」


 その日から、中学校の卒業アルバムのテニス部員の集合写真には、部員たちの顔に次々と赤ペンで×がつけられていった。




 学校帰りの麻衣と、その友人小島雪は、公園のジャングルジムに登って座っていた。

「この間はごめんねー、わたしだけ逃げちゃって。大丈夫だった?」

 雪が言った。この間とは、麻衣がマスカレイドアバターになってしまった学とこの公園で出会った日のことだった。

「え? あー、うん、大丈夫だったよ」

 麻衣は、嘘をつくのが下手だった。いきなりその話題を振られたから、しどろもどろになりながら答えた。

「あれ、何だったんだろ? 変質者? テレビでやってる、何だっけ? マスカレイド何とかみたいな格好してたよね」

「う、うん、なんだろうね……」

 まさか、自分の兄だったとは言えなかった。

「麻衣、まさか変なことされてないよね?」

「だいじょうぶだよ! 全然だいじょうぶ!!」

「だったらいいけど……」


「加藤麻衣さん」


 突然名前を呼ばれた麻衣は、

「ふぇ?」

 驚いて、自分でも笑ってしまうような声を出した。

 麻衣と雪が、声がした方、下を向くと、学生服の少年がいた。

 その少年に驚いた様子の雪が、あわあわしている。

「誰?」

 麻衣は雪に尋ねた。

「誰って、副会長だよ。知らないの?」

「副会長? 生徒会の?」

 雪はあわててジャングルジムから降りた。麻衣もそれに続いた。

 ジャングルジムから降りた雪は、

「ごめんなさい、学校帰りに寄り道なんかしちゃダメですよね」

 少年に謝った。

 少年は笑いながら「いいんじゃない? 別に」と言った。

「ふたりきりで話したいことがあったんでしょ?」

 少年は麻衣に、

「はじめまして、日向葵(ひなたあおい)です」

 と名乗った。

「あ、はい。加藤……麻衣です。……はじめまして」

 日向葵と名乗った少年は、麻衣に手紙を差し出して、

「いきなりで悪いんだけど、これ、読んでもらえるかな?」

 そう言った。

「え?」

「えええええ!? これってもしかして、その……」

 何がなんだかわからないでいる麻衣と、慌てふためく雪に、

「うん、ラブレター、かな」

 と日向葵は言った。

「きゃーーーー! すごいじゃん! 麻衣」

 雪が大きな声を上げて、麻衣の背中を叩いた。

「えーっと……、もらっておいたほうがいいんですよね?」

 雪は誰だか知っているようだけれど、麻衣は知らない男の子からラブレターなんてもらったところで、困惑するだけだった。

「うん、できればそうしてほしいかな」

 日向葵はそう言って、また笑った。麻衣にはその笑顔がなんだか作り物のように見えた。

「……ありがとうございます」

 麻衣は渡された手紙を見つめながら言った。

「返事はいつでもいいからさ。じゃあね」

 そう言って日向は足早に公園を出て行き、公園には麻衣と雪だけが残された。

「はー、びっくりしたー」

 雪が心底驚いたように言った。

「う……ん、麻衣、ラブレターなんてもらったのはじめてかも……」

 麻衣が手紙をぼんやりと眺めながら、そう言うと、

「読まないの? わたしが読んであげよっか、声に出して! 大きく!」

 雪が楽しそうに笑った。

「いいよー。ていうか、雪ちゃん、ただ読みたいだけでしょ?」

「いやー、麻衣の隠れファンは多いだろうなと思ってたけど、まさか日向葵が麻衣を好きだったとはこれはかなり予想外だったなー。わたしてっきり、彼は柳葉魚(やなぎばまな)と付き合ってるもんだと思ってた」

「その人、有名な人?」

 麻衣の言葉に雪は大きくためいきをついた。

「生徒会長の名前くらい覚えておこうね……」




 帰宅した麻衣はセーラー服姿のままエプロンをかけてキッチンで料理をしていた。

 ダイニングテーブルの上には先ほどの手紙が置かれていた。まだ封は開けられていなかった。鞄も椅子にかけられていた。部活動で帰宅が遅くなる麻衣は、部屋に鞄を置きに行ったり着替えたり時間が惜しかった。学のために時間をかけて、おいしい晩御飯を作ってあげたかった。

 学が帰宅する音がした。

「いいにおいだな。カレー?」

 キッチンに顔を出した彼は言った。

「あ、お兄ちゃんお帰りー。どこ行ってたの?」

 麻衣の問いに、学は答えづらそうな顔をして、

「ん……、ちょっとコンビニ。ジャンプ立ち読みしてきた。こち亀、まだやってたんだな」

 と言った。麻衣も嘘をつくのが下手だけれど、学もそれはいっしょだった。一回り以上離れているというのに、ふたりはそういうところがそっくりだった。

 コンビニに行っていたというのはもちろん嘘だ。

 学は、中学時代に自分をいじめた人間のひとり、平井達也を殺した帰りだった。

 平井の死体とそのそばに立つマスカレイドアバターの格好をした自分の光景がフラッシュバックした。

「ふーん。あ、晩御飯もうすぐできるからもうちょっと待っててね。今日はハンバーグカレーだよ」

 味見をしながら麻衣が言った。ハンバーグもカレーも学の大好物だった。

 けれど学は、テーブルの上に置かれていた手紙に気づいてしまった。

「これ、何?」

 加藤麻衣様、と書かれた封筒には、あて先の住所もなく、郵便の消印もなかった。学校で誰かに渡されたものだということはすぐにわかった。差出人の名前は書かれていなかったが、字を見ればそれが男であることは容易に想像がついた。

「あ、それは……その……」

 しどろもどろになる麻衣の目の前で、学は手紙を握りつぶした。

「あっ!」

 麻衣が声を上げたときには、手紙は学の手の中でくしゃくしゃになってしまっていた。

「どこのどいつだ? お前にラブレターなんか書いて寄越したのは……」

「……お兄ちゃん?」

 殺さなきゃいけない奴が増えた、と学は思った。そいつは妹の学校にいる。

 妹は、俺のものだ。誰にも渡さない。学はそう思った。

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