第一話

 その日は未来星人ぷぷるんを見ることができなかった。それどころではなかった。

「なんだよ、これ。どうなってるんだよ……」

 学はもう一度自分の手を見つめた。皮手袋のような手だ。

「この手……だからスマホが反応しなかったのか……」

 スマートフォンのタッチパネルは静電容量式だ。現在のスマートフォンに使われている方式はほとんどがこの方式で、一定サイズの静電気を帯びた物が画面に触れると、そこをタッチした点として検知する。静電気を帯びているものであれば指以外でも反応する。静電気を帯電しているゴムチップを先につけたペン、帯電性の毛糸を指先に織り込んだ手袋でも動作は可能だったが、おそらく今の学の手は静電気を帯びていないのだろう。

「背中にチャックとか……ついてないか……」

 学は姿見に目を凝らしたが、

「顔のこれもどこからとったらいいのかわからない……」

 割れた鏡に映る自分の姿はどれも小さく、よくわからない。

「……脱げない……どうなってるんだこれ……」

 彼は数年前に衝動的に鏡を割ってしまったことを後悔した。

 腰に巻かれたベルトには、携帯ゲーム機がバックルのようについていて、右の腰には奇妙な形をした銃のようなものあることに気づいた。

「なんだこれ銃か? ささっているのはゲームのディスク……?」

 その銃のようなものを手に取ると、銃身の左右に羽を広げるようにUMDディスクがささっていた。

「何のいたずらだよ、これ。ドッキリにしちゃ大掛かりすぎるだろ」

 学はそう言って、引き金をひいてみた。

「モラトリアムトリガー!」

 銃から男の声が鳴った。

「わっ!」

 キュイキュイキュイキュイ! と何かエネルギーらしきものを溜める音がした。

「エターナルフォース……」

「なんか出る、出る出る出る!」

「ブリザー……」

 学はとっさの判断でディスクを引き抜いた。

「はぁ、はぁ、はぁ、間に合った……どうやらこのディスクがエネルギー源みたいだな……」

 荒い息を吐きながら彼は言った。

 何が出るかわからなかったが、自分がもし本当にマスカレイドアバターになっているのだとしたら、このモラトリアムトリガーという銃もどきから出るエターナルフォースブリザード? という技は、毎週毎週性懲りもなく現れる怪人たちを跡形もなく爆死させるだけの力があるのかもしれなかった。もちろんたぶん玩具だろうし、このスーツもコスプレか何かだろうが。

 モラトリアムトリガーがあった場所の逆、左の腰には何本かディスクが入るホルダーがついていた。

「こっちにも何本か……ベルトのゲーム機にもささってる……。俺、本当にマスカレイドアバターになっちまったのか……?」

 しかし、学には自分の姿に見覚えはなかった。マスカレイドアバターに似てはいたが、彼の知っているマスカレイドアバターのどれにも自分の姿は似ていなかった。携帯電話で変身するマスカレイドアバターはいたが、携帯ゲーム機で変身する者はいなかった。だとしたら、この姿は一体何なのだろう?

 学はベッドに寝転がり、天井を見上げた。

 天井には未来星人ぷぷるんの等身大ポスターが貼られていた。妹に頼んで、アニメショップで買ってきてもらったものだった。

「どうせなら、魔法少女になりたかったな……寝る前は何ともなかったのに……なんで……」

 そのとき、学の腹がぐうと鳴った。

「腹減ったな……飯、まだかな」

 食事は一日に三回、母が部屋のドアの前に持ってきてくれていた。

 彼はドアを見つめ、飛び起き、

「ババアだ」

 と言った。

「この部屋に入れるのはババアだけだ。あいつが何かしやがったんだ」

 学がひきこもりはじめたばかりの頃、母親は毎日のように、食事を運んでくるたびに、彼にこの部屋から出るよう懇願した。しかし、それも今はもうない。無言でドアの前に食事を置いていく。

 たまに、

「あんたのことは母さんが一生面倒看ていくから」

 と言ったかと思えば、数時間後には

「お願いだからもう死んでちょうだい」

 と泣かれたりもした。

 無理矢理部屋から連れ出され、診療内科で診察を受けることになったのは十年以上前のことだったが、今思えばあの頃は母の方が精神が不安定だったような気がする。どこの心療内科もそうなのかもしれないが、彼の主治医はいい加減な男で、彼が診察に訪れなくても、母が代理で彼の病状を説明するだけで薬を受け取ってくることができた。

 最近は母は自分の代わりにひきこもり支援相談士とかいう連中に彼のことを相談をしているらしかった。

 母は何度もその男を家に連れてきたが、あんな奴に俺の何がわかるっていうんだ、そう思った学は男に一度も会うことはなかった。

 学はドアに近づいて叫んだ。

「おいババア、てめぇ俺に一体何しやがった!」

 ドアを叩きながら、

「起きてんだろ? いるんだろ? 聞こえてるなら返事くらいしやがれ!」

 そう叫んだが、返事はない。物音ひとつしなかった。

「くそっ。なんだってんだよ……どうなってんだよ……誰か説明してくれよ……」

 彼はその場にへなへなと座り込むしかなかった。

 そして彼は、足元に母親からの書置きを見つける。母はたまにそうやって、書置きをドアの隙間から部屋にもぐりこませていた。


「一週間くらい、お父さんと旅行に行ってきます


                   母」


 その書置きを呼んだ学は、

「まじかよ……」

 大きくうなだれた。




 大きくうなだれた学の部屋には、彼は知らないが監視カメラが数台設置されていた。

 真っ暗でゴミだめだった彼の部屋とは対照的に、壁も天井も床も家具もすべて真っ白な美しい部屋で、同じく真っ白なノートパソコンで監視カメラの映像を観ているスーツ姿の女がいた。

 パソコンには他に無料通話ソフトが起動しており、女は誰かと通話をしているようだ。

「加藤学、三一歳。

 高校受験に失敗して以来部屋に引きこもるようになり、ひきこもり歴十六年のニート。

 まったく、何でこんな男が選ばれたのか、不思議でならないわ。使えるのかしら」

 女は通話相手に言う。

「父親は城南大学生化学研究室所属の科学者、加藤教授。おまけに優秀なオートレーサーらしいわ。加藤教授のことはあなたも知っているわよね? 母親はフリーのカメラマンらしいわ」

 通話相手が言った。

「厚生労働省はひきこもりをこう定義しているわ。

『仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、六ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態』

 時々は買い物などで外出することもあるという場合も『ひきこもり』に含める。

 ひきこもりは高学歴の両親がいる家庭に多いというけれど、彼はまさに絵に書いたようなひきこもりね。

 父親からはすでに見捨てられていて、彼の面倒は母親が見ているそうよ。

 でもその母親も、一週間前、商店街の福引で『偶然』当たった海外旅行に、加藤教授と共に今日から行ってしまい不在。

 そろそろ『招かれざる客』にご登場願おうかしら」

 女は不敵な笑みを浮かべ、

「さて彼はどうするかしら?」

 と言った。




「絶対ババアが何か知ってるはずなんだ……」

 一方、その頃、学は、

「あ、携帯! 家にいないなら携帯にかければいいじゃん!」

 そう思いつき、

「さっきどこに投げたっけ。ここじゃない、あっちか?」

 携帯電話を探し始めていた。

 自分がなぜマスカレイドアバターの格好をしているのか。それを母が知っていると彼は確信していた。なぜなら、この部屋に入ることができるのは母だけだったからだった。

「違う、ない、ない、あった! あったー。よかった」

 しかし、スマホは相変わらず、何度やっても反応しなかった。

「俺の馬鹿!」

 学は再び携帯を投げ捨てた。

「あー! もう何だってんだよ!!」

 癇癪をおこし、物に当たった。彼のこどもの頃からの悪い癖だった。しかし、大人になった現在、そして何より強化外骨格に身をまとってしまった今、それをするのは大変危険な行為だった。なにしろ軽いパンチひとつで壁に大きな穴が空いた。

「勘弁してよ……」

 壁から腕を引き抜きながら彼は思った。本気を出したら、世界は無理でも小さな街くらいなら簡単に滅ぼせそうだった。

「とにかく飯だよ……。腹減ってるからまともに頭が働かねぇんだよぉ」

 学は泣き言のようにそう言って、もう一度ドアの前に立った。

「この部屋を出るしかないのか……。台所に行けば絶対食うもんが何かあるはず……。でも出れるのか? 俺に。この部屋を」

 自問自答し、ドアノブにゆっくりと手を伸ばしたが、

「うぷっ」

 唐突に襲い掛かってきた吐き気に、無理無理無理無理! とつぶやいた。

(やべぇ、吐く吐く! 今吐いたら仮面の中が大変なことになる!)

 彼は十六年もこの部屋から出たことがなかったのだ。この部屋が学にとって世界のすべてだった。彼にとってこの部屋から出るということは、他人が唐突に異国の地や宇宙空間に放り出されるのと同じことだった。

 そのとき、

「ピンポーン」

 玄関のチャイムが鳴った。

 学はその音にビクっとした。

「ピンポーン、ピンポーン」

 さらに二回、チャイムが鳴った。

「誰だよ……こんなときに……」

「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン」

 チャイムは何度も鳴り、鳴り止む気配がなかった。

「頼むよ……。諦めて帰ってくれよ……」

 しかしチャイム、鳴り続けた。

「しつこい奴だな……。何かの勧誘か? 俺は新聞なんか読まねぇし、神様なんか信じねぇよ……。くそ、出るしかないのか……」

 学は何度も吐き気をもよおしながらも、部屋のドアを開けた。

 部屋から一歩足を踏み出すと眩暈がした。

 まともに立って歩くことすらできず、壁伝いに階段を降り、最後には這って玄関へ向かった。

 その頃には、チャイムだけでなく、ドンドンとドアを激しく叩く音がしていた。しつこい奴だ、と学は思った。何かの勧誘だったら、その会社に後でクレームのメールを送りつけてやろうと思った。

 学は這ったまま、腕をなんとか伸ばして、鍵を開錠する。と同時にドアが開いた。

 開いたドアにつられて玄関に倒れてしまった学を覗き込む顔があった。

「お前……、学か?」

「高志くん!?」

 その顔は、母方の従兄弟の橋本高志だった。学よりひとつ年上で32歳、確かトラックの運転手をやっている。

 会うのは何年ぶりだろう。

 一昨年、母方の祖母が93歳で他界した。老衰だったと聞いている。

 祖母は彼の叔父の妻のこどもである内孫の高志よりも、自分の娘、つまり母のこどもであった外孫の学のことをとてもよくかわいがってくれた。こどもの頃は学も祖母が大好きだった。けれど、学は祖母の葬儀にも通夜にも参列しなかった。ドア越しに大好きだった祖母の死を聞かされても、二年前の学はあの部屋を出ることができなかった。

 それなのに、今こうして不可抗力とはいえ部屋を出られている自分がおかしかった。

 十六年、会っていなかったかもしれない。

 学の知っていた高志の姿は中高生の頃のままだったが、目の前にいる高志はすっかりオジサンになってしまっていた。きっと同じだけ年を重ねた自分ももうオジサンの仲間なのだろうと思った。

 学の目には高志が一瞬化け物に見えた気がしたが、きっと気のせいだろうと思った。




 部屋に高志を上げるわけにはいかなかった。

 ゴミだめで足の踏み場もなく、小便の入ったペットボトルが並んでいるから、というのももちろんあったが、あの場所は自分だけの場所だった。誰にも入って欲しくなかった。

 高志にはリビングに上がってもらった。十畳ほどの広さのその部屋は、母の趣味のフラワーアレンジメントが飾られており、小奇麗にまとまっていた。

 冬はこたつになるテーブルに、学と高志は向かい合って座っていた。

「茶ぁくらい出せよ、客だぞ」

 そう言った高志の姿は、学の目には化け物に変わったり、人間に戻ったりを繰り返していた。どうやら気のせいではないようだ。本当に化け物なのかもしれない。

「ご、ごめん……」

 言われるまで気がつかず、慌てて何か飲み物を用意しようとしたが、

「あぁいいって、もう」

 高志はそう言って、学を引き止めた。

「お前、まだ引きこもってるんだってな。この間、ばあさんの法事で聞いてびっくりしたよ」

 高志が言った。こどもの頃から、学は高志が苦手だった。それは大人になってからより一層深くなった気がする。

「お前のお袋に泣いて頼まれちゃってよ~、お前を部屋から連れ出してくれって。んで、今日俺仕事休みだったからよ、どうせお前童貞だろうから風俗でも連れてってやろうって、来てやったんだけどよ……」

 トラックの運転手というのはきっと儲かるのだろう。高志は高級そうな車で学の家にやってきていた。首や腕には高級そうだが、下品にも見える金のネックレスや時計をかけていた。

「お前もう三一だろ。いい年して何やってんだよ? それ、コスプレか?」

 高志は学の格好をまじまじと見て言った。学の姿はまだマスカレイドアバターのままだった。

「あ、いや、ちが……」

 学は否定の言葉を紡ごうとしたが、

「いつまでもよぉ、ガキみたいなことやってないで働けよ」

 高志は学のその格好を完全にコスプレだと決め付けており、頭ごなしにそう言った。学は高志が苦手だった理由を思い出していた。

「あ、お前高校行ってなかったな。働きながら高校行け。外からお前の部屋見たけどよ、日曜の朝からカーテン締め切って何やってんだよ。そんな空気の悪い部屋にいつまでもひきこもっててもしょうがねぇだろ。それで、結婚して、こども作って……。そういう普通の人生も悪くないと思うぞ」

 高志は昔からこういう男だった。ひとつ年上だから、内孫だから、学が気が小さいから威張っていて、いつも気に入らなかった。

「なぁ聞いてんのかお前。いい加減脱げよそれ。俺今まじめな話してんだろが」

 そう言った瞬間、高志の姿は完全に化け物になった。

 蜘蛛だ。

 蜘蛛男だった。スパイダーマンなんてかっこいいものじゃなかった。化け物と呼ぶにふさわしいグロテスクな蜘蛛男だった。

「うわああ!!」

 学は悲鳴を上げて、部屋の隅に逃げた。

「なんだよ突然でかい声だして。びっくりさせんなよ。ま、今日はよ、昔みたいにふたりでいとこ同士遊ぼうぜ」

 蜘蛛男はそう言って、学に近づいてきた。

「くるな!」

 学は叫んだ。

 それがいけなかった。高志の、蜘蛛男の逆鱗に触れてしまった。

「お前、俺のこと舐めてんだろ」

 蜘蛛男は学の肩をつかみ、握り締めた拳をかかげた。

 殺される!

 学は思った。

「こないでよ……お願いだから……」

 だから、仕方がなかった。

「モラトリアムトリガー!」

 気づくと、腰の銃を高志に向けていた。キュイキュイキュイキュイ! 引き金を引いてしまった。

「サマーサンシャインバースト!」

 銃に内蔵された男の声が高らかに必殺技の名前を叫んだ。

「お前、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

 それが高志の最期の言葉となった。

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