社会に絶望した社会人が蜂蜜を舐めて転生、熊となって人生を謳歌する話。

あるす

第1話




「うめぇ……っ!うますぎるっ……!」



 青く澄んだ海のような空の下。



「何でだよっ!どうしてだよぉっ!」



 命を授かって早二十九年。



「こんなの、おかしいだろうが……っ!!」



 その命を失って早二日。



「犯罪的……っ!!麻薬……っ!!中毒必至……っ!!!」



 俺は、やっと気付いたんだ。



「ハチミツ……!蜂蜜がっ……うめぇよっ……!!」



 あぁ、これが、「生きる」ってことか。








 *



 カツカツカツカツ。



 自分の履いた靴が軽快な音を立てる。今は、その軽々しい、どこか空虚な響きすらも鬱陶しくてたまらない。



「……はぁっ。……これで何連勤目だろうな……」



 不意に口から溜息が愚痴とともに零れる。『溜息を吐くと幸福が逃げる』とどこかで聞いたことがあるが、そんなことを意識するエネルギーは既に残っていない。溜息の一つも吐かないでやってられるかってんだ。



「どうして俺がこんな目にあってんだろうなぁ……」



 ちらほらと点綴てんていする街灯のほのかな灯りを頼りにして、俺は家路を辿る。疲労の溜まった覚束おぼつかない足取りで歩みを進める自分の姿は、他人が見たらさぞ滑稽だろう。まぁ、こんな時間に外を出歩く人なんてそう多くはないだろうがな。少なくとも周辺に人の気配は感じられない。



「……零時回ってるのか……この時間、本当に静かだよな」



 どこからともなく耳に入る、鈴虫が奏でるささやかなメロディー。

 乾いた、大気を裂きながら流れていく風の声。

 炯と輝く月明かりのスポットライト。


 日中には存在しない、深夜特有の静謐せいひつの中だけに聞こえる環境音。そこに紛れ込む、軽々しいカツカツというセンスの欠片もない靴の音。

 このコンクリートで仕立てられたステージに俺さえいなければ完璧なミュージカルだっただろうに。まったくもって腹立たしい。



 腹立たしいとはいえ、別に俺は音楽に対して造詣ぞうけいが深い訳でもないし、特段好きということでもない。知っている曲も、コンビニや時折立ち寄る飯屋で流れている流行りの音楽くらいしか知らないし。自発的に聴くことはまずない。高校生くらいの頃は多少なりあったが。クラスでそれなりに交流のあった奴の好きなバンドの曲とか。もうバンド名も曲名も記憶から消えているが。



 そして多分、「弾ける楽器は?」と尋ねられたら、「タンバリンとカスタネットとトライアングルくらいだな」と答えるだろう。この三つの楽器は俺の中で勝手に「音楽・三種の神器」に認定している。学生の頃にあった音楽の授業。そこでの楽器のテストのときには大活躍してくれたもんだ。

 周囲からの目線が妙に痛かったけどな。できないことにチャレンジするよりも、俺はできることでその場を乗り切る性分なんだ。きっちりと堅実に結果を残す。昔からそんな感じだった。



 まぁ、この俺の中の「音楽・三種の神器」も突き詰めたら相当奥深いのだろう。きっとプロはタンバリンもドラムのように使いこなすんだろうな。でも仮にそんな奴がいたとしたら、恐らくそいつは人間辞めてる。普通は無理だろ。



 現時点で俺が何かをその境地まで突き詰めるつもりは毛頭ないが。

 人間辞めるつもりもねぇ。



 話が逸れたが、結局俺が腹を立ててるのは、きっと自己嫌悪だ。日々を荏苒と過ごすうちに山積した、むしゃくしゃした行き場のない感情と衝動を、自分にぶつけて払拭したいだけなのだろう。



「あーあ、俺はどうしたいんだろうなぁ……」



 俺がこの世界に生まれたのは二十九年前。珍しくもない普通の家庭で育ち、幼少期を何となしに過ごした。小学校、中学校と適当に勉強をして義務教育を卒業。その後、地元で偏差値が高くもなく低くもない高校に進学して、大学にも行った。今思えば、俺は周りと比較したらそれなりに青春を謳歌した方だろう。周りから虐げられるようなこともなかったし、生活に不満はそれほどなかったしな。



 彼女はついぞ卒業しても出来なかったが、俺はそこまで女性というものに惹かれないので後悔とかは特にない。交際だなんだってのは、面倒事が付き物だし。今も、結婚願望はない。仮に結婚したところで、相手を養える貯蓄もないので。一人でいる方が人間関係のもつれとかを気にせず済むしな。

 ずっと気楽だよ。

 独身万歳。



 そんな、コミュニケーションを苦手とする俺が大学を卒業した後に入社したのは、いわゆるブラック企業という奴だった。そこで俺の身に降りかかったのは、法律に触れないよう、でも法律スレスレな上層部の所業の数々。

 

 

 挙げだしたらキリがないが、例えば七連勤以上は当たり前。休日は名目上の話であって、基本的には出社する。かつての大日本帝国憲法の名残なのだろうか。「月月火水木金金」の精神はまだ廃れてはいないようだ。

 つーか、普通に考えても労働基準法三十五条に違反してるよなぁ。どうして誰も訴えないのか。

 まぁ、怖いからだろうな。かくいう俺も、上層部を訴えて報復されるのが怖いクチだ。何されるか分かったもんじゃない。



「あんな上司じゃ誰だって萎縮しちまうわな……」



 ほんの僅かな小さなミスでも声を荒げて罵声を浴びせてくる上司。それが下の方の社員全員に行われるので、同僚達の間では常にピリピリと大気が張り詰めている。互いにストレスが溜まっているせいで、ひょんなことからトラブルに発展することも少なくない。最近も何件かそういったことがあった。今も未解決のものも少なくない。



 ここまで冗長にだらだらと述べてきたが、結局まぁ、何が言いたいかというと、俺の勤める労働環境はこれでもかというほどに劣悪だということだ。

 


 昔読んだことのある某漫画に出てくる地下労働施設ほどではないだろうけども(あそこは粉塵が舞っていたり病を患っても薬が高価で手に入らないなどと、衛生的にも酷い。あそこには行きたくねぇな。死んでも)、それでも今の職場は並大抵のメンタルでは流石にやっていけない。

 


 毎年、社会に出て間もない人達が希望に満ちた目をして入社するが、半年経った頃には既に半分も残らない。次々に辞職届が提出される様は、傍から見ていて多少なり心が痛む。



 彼はこの先どうするのだろうか。

 途方に暮れて首を吊りやしないだろうか。



 そういった事を毎年感じる。ちなみに、俺と同世代の奴らは俺以外全員辞めた。むしろ何故未だに俺は今勤めている会社に居残り続けているのか、と新人に聞かれるようになった。確かに疑問に思う人も少なくないだろう。いや、断じて今の会社が好きだとか、心残りがあるだとか、そういった好意的なしがらみは一切ない。俺自身、会社に対しては多くの恨みを抱いている。



 理由は簡単だ。

 行く宛がないからである。

 今の会社を辞めたところで、恐らくまたブラック企業に流れるのは目に見えている。だったら現状維持。文句を垂れ流しながらも、齷齪あくせくと働き続けるのがベストだろうと。数年前に、この結論に辿り着いた。




 ただ、他者の視点だと、もしかしたら俺のメンタルは鋼のように硬く見えているかもしれないが、最近限界を感じてきている。というか現在進行形でヤバい。



 言っていなかったが、今日で俺は二十連勤目の大台に乗った。馬鹿げているかもしれないが、こういったことを平気でさせるのがウチの会社だ。法律が機能してねえ。どう考えても治外法権が働いている。ふざけてんだろ、マジで。



 ただ俺も数年間、今の会社に勤めていて、二十連勤というのは初めての経験な上に、重なり合ったトラブルの影響で、今までこれ以上ないくらいに精神が摩耗してきている。ネガティブなことばかり脳内を駆け巡るようになった。



 あの建設中のビルから鉄柱が落下してこねぇかなとか。

 青信号を横断している最中にトラックが突っ込んできたりしねぇかなとか。

 そんなありふれた死因でいいから死なねぇかなみたいな。



 しんどい。辛い。消えたい。死にたい。



 何故生きているのか。何故働いているのか。何故今も呼吸を続けているのか。何故腹が減るのか。

 どうしてだっけな。知っていたはずなのにな。多分、どこかで忘れちまったんだろうな。



 いつから人間であることを放棄していたんだろうな。



「あーあ、もういいよな。ほんと疲れちまったよ」



 そうだ。次に踏切を見つけたら、ふらっと飛び込んじまおう。そうして楽になろう。

 もういい。もういいんだ。全てどうなったって──



 霞む思考の中。ふらつきながら、死に場所を求めてよろよろと歩を進める中で、俺の靄がかかった視界の端に何かが映った。



『この先、立入禁止』



「看板か……。あちこちにひびが入っていて随分とボロいが……ここにこんなのあったか?それにこの先って……普通に森、だよな……」



 看板の横から続いている道は、森の中へと沈んでいくようだ。鬱蒼としたその森は、どこか神秘的な雰囲気をその身に纏っている。



「しっかしまぁ、こんな看板あったっけなぁ……?」



 いつもと同じ帰り道の筈なのに。どうしてこんな看板があるのだろうか。流石に数年も歩いている道なので、もし既にあったのなら忘れる筈はないし、どっかで気付いていると思うのだが……記憶にない。

 まぁ、今の不安定な精神状態では、記憶の正確性に些か自信は持てないが。



 とはいえ、少なくともこんな森の中へと続く舗装のされていない獣道なんてなかった。この新たに創設された道には、何か俺にとって意味があるんじゃないか?



 まるで、俺を待っていたかのように。

 その道は、俺を迎えるように開いていた。



「……行くか」



 どうせ死ぬのなら、森の中でだって構わない。蛇でも狼でも鬼でも熊でも出てこいってんだ。人間という名のご馳走を提供してやるよ。

 つーか、どこかにロープでもねぇかな。こんだけでかい森なら俺の体重がかかっても折れない枝を持った木の一本や二本あるだろう。



 心の中でそう思いつつも、正直に言えば、自殺願望はとうに消えていた。なのに、俺がその森に足を踏み入れたのは、他に理由があったからだ。



 



 何故か、そんな気がしたんだ。そう思ったんだ。









 ガサガサガサガサ。



 道に頭を垂らす雑草を両手で掻き分けながら、俺は森の奥へ奥へと進んでいく。幸い、道は一本道だったので、迷うことなく先へ行くことができる。一体、この先には何があるのだろうか。俺も知らない。つか動物一匹もいねぇな。鳴き声すら聞こえねぇぞ。



 そんなどうだっていいことを疑問に感じながら、俺は何かに導かれるようにして、進む。



 ガサガサガサガサ。



「なんだ、この場所は……?」



 すると、少し開けた場所に出た。開けた場所、とは言っても半径5メートル程度の円状に草が無いだけの場所だ。所謂、ミステリーサークルとは別だろうが、それでも、この場所には何かしらの作為を感じた。その圧倒的な存在感を放つを見れば、誰だってそんな印象を受けるだろう。



 サークルの中心に聳える、大木。



「なんだこれ……、なんでこんなところに一本だけ独立しているんだ……?」



 その大木に近付いて、よく観察してみる。特に何の変哲もないただの樹木のように思えるが、折角ここまできたんだ。隅々まで眺めてみることにした。

 すると。



「穴……か」



 その大木には、穴が空いていた。俺はポケットからバッテリー残量が僅かしかないスマートフォンを取り出して、懐中電灯機能で穴の中を照らしてみる。



「……なんかあるぞ。……これは、蜂蜜瓶?」



『HONEY』と刻印のされた丸い容器。どこからどう見ても、それは紛うことなき蜂蜜瓶。アニメや漫画でみたことあるようなそれが現実に存在するというのは、今し方新たに知った事実だ。流石にこれが欲しくて店を巡るような経験は、俺にはない。欲しい人もいそうだが。



「中身は腐ってねぇのかな……?」



 そう呟きつつ、俺は瓶の蓋を開ける。

 そこには、黄金色に光り輝く液体で満ちていた。




 舐めていた。




 そこに逡巡や躊躇いはなかった。いや、なかったというよりも、思考が介在していなかった。

 脊髄反射よりも速く。「舐めたら体に毒だろうか」とか、「ちょっと直接舐めるのは如何なものか」とか。

 そんな考えに至るまでもなく、俺の指は動いていた。



「……??」



 その瞬間。



 俺の意識は飛んだ。

































 *




「……ん、ん」



 明るい。と、同時に瞼の重さや全身のだるさを感じる。節々も痛い。肘とか、膝があまり曲がらなくて、まるでがする。



「……寝ちまっていたみたいだな」



 気がつけば、朝になっていたようだ。どれ位の時間、俺は寝ていたのだろうか。というか、俺は何で外で寝ているんだっけか……?全然理由がわからんぞ。



「昨日の夜どうしたんだっけ……えーと、確か、帰り道の途中で……」



 澱んではっきりしない記憶を必死に思い出す。さっきより、段々と思考が澄んでいくのを脳内で感じながら、記憶の断片を繋いでいく。



「いつも見ない看板があって……そんで森の中に入って……蜂蜜舐めて……気絶した?」



 考えてもよく分からん。ということは、結局あの蜂蜜が舐めたらアカン奴だったってことか……?やっぱ腐ってたのか……蜂蜜って腐るのか?いや、今はそんなこと知ったこっちゃない。

 畜生、こんなことになるんだったら「VC-30○0のど飴」でも舐めとけば良かった。あのCMの忠告に従わないからこうなったのか……。



「下らないこと考えてる場合じゃねえ……取り敢えずここはまだ森の中なのか?」



 寝起きのクリアじゃない視界に働いてもらう為に、俺は俺の右腕で目をこする。



「……?なんかフサフサしてるような……っ!?」



 明らかな腕の違和感を肌で感じて、自分のである筈の腕を凝視する。





 毛むくじゃらだった。真っ黄色に。





「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」



 そこには黄色人種特有の肌の色は見る影もなかった。



「じっ、じゃあまさか……」



 俺は、寝ぼけていて鈍かった思考回路を一気にフル稼働させて、重たかった筈の首を動かし全身を見回す。



 全身、黄色。毛だらけ。

 それは宛ら、のように。



「どういうことなんだよ……?!」



 俊敏な動作で周囲を眺める。

 そこは、木がまばらに生えている、美しい森だった。

 童話に出てくるような、爽やかな森。池があって、枝からブランコが下がっている木もあって。



「はは……おいおい、どう見たって現実じゃねぇだろうが……」









 俺はその日、人間を辞めた。




 そして、「死」んで初めて「生」を知る。




 これは、一匹の熊の物語。




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