3.痛み

 ――ベリアルは、仮眠から目覚めた。


「……ろくに眠れなかった」


 額に手を当てて、ベリアルは何度か頭を振った。

 そうして軽く伸びをすると、壁から背中を離した。基本的に寝台を使わず、立ったまま壁にもたれ、腕組みをして眠るのがこの悪魔の特徴だった。

 身支度を整えると、ベリアルは部屋を出る。

 そして玄関へ――行く前に、彼女はラジエルの部屋へと向かった。

 肉食の獣のように音も無く、暗い部屋の中に入る。

 ラジエルはベッドに埋もれて、苦しげな顔をして静かな寝息を立てていた。ベリアルはその側に立ち、じっとラジエルの姿を見下ろした。

 かつてのラジエルなら、ベリアルが部屋に入る前に目覚めていただろう。

 ここまでの接近を許すほどに、この天使は衰弱している。

 ベリアルは、身を屈めた。そこで、サイドテーブルの上に置かれたものが視界に入った。

 ラジエルが車の中で記していたノートだった。

 ちょっとした好奇心でそれを取ると、ベリアルは表紙を開く。

 そこには天使文字で、悪魔の生態やら機械やらの知識がびっしりと記されていた。

 それ以上に目を引いたのは、その上から殴り書きされていた文章だ。


『霊翼の根元に疼痛』『焼きごてを当てられるような激痛』『皮膚に硝子片をねじ込まれる』『痛い』『神経ぜんぶ焼き切、』『いたい』『引きちぎられ、』『いたい』『くるしい』――。


 ――『いっそころしてほしい』


「……莫迦ばかだな」


 思わずベリアルは呟き、慌てて口を塞いだ。

 ラジエルが小さく唸る。凍り付くベリアルの隣で、彼女はごろりと寝返りを打った。

 静寂が部屋に戻る。ベリアルは手を降ろすと、またラジエルを見下ろす。

 この天使の知的欲求は強烈だと思っていた。

 恐らく実際のところは、翼を失った痛みや喪失感を紛らわせるためのものだったのだろう。


「痛いなら言えばいいじゃないか。賢いくせに莫迦ばかだな」


 声に出さずに囁く。そうして、なんとなしに、ラジエルの顔に触れようとした。


「――ラグエル……」


 弾かれたようにベリアルは手を引っ込めた。

 ラジエルはなにも気がつかずに、相も変わらず難しい顔で眠っている。

 無意識に彼女に触れようとした自分の手を見下ろし、ベリアルは頭を押さえた。

 一つ、二つと、深呼吸を繰り返す。


「……悪いね」


 顔を上げたベリアルの顔には、いつものいびつな微笑が戻っていた。

 音も無くベリアルは、ゆらりとラジエルの側を離れる。


「私はベリアルでしかないんだよ」


 そうして悪魔は振り返らずに、天使の部屋を出て行った。

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