其の二十一 群青音色――、恋の駆け引きとはよく言うが、楽しんでいる余裕があるあなたは青春の景色を忘れている


「は、春風……」


 慌てた僕の眼前――、その距離の近さに、僕はある事実に気づく。

 僕の視線が、今にも泣き出しそうな彼女の顔面――、の、ちょっと下、二つの巨大な山にくぎ付けになり――



 ――ま、まずい……!

 思わず身体をのけぞらせるものの、すぐ後ろのフェンスにより退路を断たれる。ガシャンっと、僕の背中が鉄の網に絡まり合い、春風がぐいぐいとさらに距離を詰めてくる。


「……説明を、してください。先輩、『私のせいじゃない』って言いましたよね……、だったら、なんでですか? なんで私と一緒じゃダメなのか、ちゃんと説明してほしい……」

「……い、いや――」


 鬼気迫る春風の雰囲気に、僕は完全に気圧されてしまっていた。それだけじゃない、この距離……、空焚きされた頭の中からプスプスと煙が立ち昇り、僕の思考回路はオーバーヒート寸前だ。


「先輩……、そんなこと言って、本当は私のこと、嫌いなんじゃないですか?」

「――えっ!?」


 追い詰められた獣のような目つき春風は――、おそらく彼女もまた感情に支配されてしまっていて、まともな精神状態を保っていない。彼女が感情的になると、周りが見えなくなる性質なのは学習済だ。

 春風は相変わらず泣き出しそうで、徐々にその顔が赤子のように潰れ始めて――


 ――お前は、また女を泣かすのか?


 遠い記憶。幼き頃の僕が、十八歳の僕を、蔑んだ目つきで睨む。


「……先輩、私のことが嫌いなら、ハッキリそう――」

「――わ、わかった、行こう! 春風!」




「――えっ……?」


 さきほどまでの、僕のことを殺しそうな勢いだった彼女はどこへやら――、きょとんとした表情で、目をまん丸く見開いた彼女は、クルミをむさぼる小動物のように邪気がない。


「……いいんですか?」

 彼女の震える声が聞こえて、ツーっと、彼女の頬に一筋の涙が流れて――


「……いいも何も、君が誘ったんだろう……、花火か……、そういえば見たいとは思っていたが、一緒に行く相手もいないので最近はご無沙汰していたところだ……」

 精一杯の台詞を宣う僕の声が少しだけうわずった。


 いよいよ泣き崩れそうな春風は、その表情をおくびにもかくすことなく、鼻水と涙で顔面がぐしゃぐしゃだ。


「……ありがとう、ございます……、すごく、嬉しい……、すごく、楽しみです……っ!」


 心の奥底からあふれ出るような声が漏れ出て、

 彼女がニコッと、ひまわりみたいに笑って――



 ――あれっ……。

 鼻水と涙でぐしゃぐしゃな彼女の顔面は、お世辞にも綺麗とは言えなかったが――


 その姿を、妙に愛らしく感じてしまった理由は、自分でもわからない。



 春風がバッと両手を広げ始め――、ハッとしたような表情を浮かべたのちに慌てて手を引っ込めて……、彼女の不可解な行動に僕の眉が八の字に曲がる。次第に彼女の顔がゆでだこのソレをはるかに凌駕するほどに紅潮しはじめ、僕は、眼前の少女が『我に返って恥ずかしくなってきた』のだなと、彼女の思考パターンを把握し始めている自分に気づいた。


「じ、じゃあ、詳しいことは……、また、明日! あの……、色々ごめんなさいでしたっ!」


 マシンガンのようにまくし立て、ジェット機のように彼女が走り去る。

 「おい」と声を掛ける間もなく、舞台に取り残された僕は閉幕までの段取りを知らされていない。ポリポリと頬をかき、コンクリの地面にサックスをそっと置いて、ゴロンと大の字に寝転んだ。


「……全く、どいつもこいつも……、僕のことは、そっとしておいてほしいというのに――」



 ――而して、口に出た台詞と湧き出た感情はちぐはぐで――

 ドキドキと高鳴る心臓の音を鎮めようと深呼吸を繰り返していたら、いつのまにか夕暮れの空が群青色に染まっていた。



 柔らかいシーツが全身を包み、制服を身に纏った私は部屋着に着替える気力もなく、天井からぶら下がった照明をボーッと眺めていた。


 ――それは、まだ……、言いたく、ありません――

 自分自身の台詞が頭の中でぐわんぐわんと反響し、ハッとなった私は近くにあった枕で自分の顔を思わず隠す。


 ――や、やばい……

「や、やばい……」


 心の声が、喉の奥から勝手に漏れ出て――


 ――あの時の先輩の顔、びっくりするくらい真剣だった……、たぶん、先輩――



「――絶対、気づいたよね……、私の、気持ちに……」


 一人バタバタと足を動かし、込み上がってくる熱を身体の外に逃がそうと必死だ。


「……それでも一緒に夏祭りに行ってくれるってことは――」

 ――少なくとも、嫌われてるわけじゃ、ないんだよ、ね……?


 バタバタと動かしていた足をピタリと止め、柔らかいシーツの上にボフッと落とす。スッと枕を動かすと、無機質な照明の光が再び私の目に飛び込んできた。


「……でも、無理やりOKさせた、みたいになっちゃったしなぁ……」

 ――だけど、先輩と一緒に夏祭りに出かける。その事実は、シンプルに――



「……やばい、めっちゃ楽しみ――」



 再びバタバタと足を動かし、部屋に埃が舞い散らかっている事実に私は気づいていない。




「……やっぱり、先輩の気持ち、知りたいなぁ……」


 独り言が止まらない私は、すがるような思いでスマートフォンのデジタル画面を眺める。『カトレア』のページを開き、アジサイさん――、もとい、冬麻先輩の新着書き込みを発見し、ガバッとその身を起こした。





 HANDLE:アジサイ  DATE:7月10日(月)


 こんばんわ、アジサイです。

 唐突なのですが、杏さんに話したいことがあります。





「――えっ……?」


 ――『杏』って、私のことじゃん――

 「何事か」と目を丸くした私は、ほぼ無意識の内にその続きの文章を目で追った。





 実は……、この前の『カトレア』のライブへ一緒に行った女の子について……。

 杏さんの、言う通りでした。どうやら彼女は、僕に気があるみたいです。





「――ッ!!」

 ――や、やっぱり……、先輩、私の気持ちに……


 心臓音がドクドクとハイテンポな8ビートを刻み、身体の外に漏れ出ているんじゃないかと錯覚する程だ。一度目を瞑り、スーハ―と短く深呼吸を挟み――、カッと目を見開いてその続きを目で追う。





 正直……、戸惑っています。

 前にも書き込んだのですが、僕は恋愛をしないって決めているんです。僕みたいな人間が恋人を持ったとしても、相手を幸せにできるわけなんてない、そう、思っているから。





 ――書き込みは、そこで終わっていた。


「――先輩……」


 漏れ出るようにそう呟き――

 ふと、御子柴先輩の声が、頭の中で反響する。


 ――恋愛しないとか……、アイツがビビってるだけで……、それって、単にシヨウちゃんが恋愛ってものをなんにもわかっていないだけだから――



 人の脳は、よくできている。

 自分に都合が良い情報は積極的に取り入れるが、聞きたくない事実に関しては簡単に耳をふさぐ。

 ――私は、人生初の、最大級の初恋……、百人に一人の恋に打ち勝つべく……、


 『杏』を利用して先輩の本心を聞き出すことに、一切の躊躇をしないと、腹をくくった。





 HANDLE:杏  DATE:7月10日(月)

 こんばんわ。アジサイさん。


 アジサイさんの『気持ち』は、どうなんでしょうか?

 アジサイさん自身は、『恋愛をしたい』とは思わないのですか?

 アジサイさん自身は、その子のことをどう思っているのでしょうか?


 相手を幸せにできるとか、できないとか……、

人のことはまずは置いて、アジサイさん自身がどう思っているのかを、聞かせてください。





 ――タンッと、無機質なフォントの送信ボタンを押しやり、私は全身からドっと汗が噴き出す。


「……私がやっているのは卑怯なことだ。私は先輩のことを騙しているんだ――」

 ――口に出さないと、罪悪感で押しつぶされそうだった。


 呪いの言葉をブツブツと繰り返している間に、先輩からの返答はすぐにやってきた。更新ボタンを連打していた私は、その画面内容が急に切り替わったことに一人ギョッとする。

 ……そして、鬼神の如く無機質なデジタルテキストを目で追い――





 HANDLE:アジサイ  DATE:7月10日(月)


 ……恋愛については、今まで考えないようにしていたので、よくわかりません。

 彼女に対しても、そういう目で見ていなかったから……


 ただ……、実はその彼女と、明日夏祭りにでかけることになったんです。

 最初は断ったのですが、……なんだか、泣きそうな彼女を見ていると、自分はとてつもなく悪いことをしているような気がしてきて……、最終的には、一緒に行くことを決意しました。





「……やばっ、これ――」

 ――私、やっぱり無理やりOKさせてるじゃん! 脅迫じゃん!


 ガクリとこうべが垂れて、しおしおにしぼんだ風船みたいに私の身体がふぬける。

 しばらくその先の文章を読むことができなかった私の口からはタメ息しか漏れず、鉛のように重い身体を動かすことができない。


「……今からでも、やっぱり止めましょうって、言おうかな……」


 ゾンビのような目つきで、ゾンビのような声がこぼれて――


 色をうしなった顔面を四畳半の空間にさらけ出し、――而して、数パーセントだけ残ったエネルギーを振り絞る。私は、先輩からの書き込みの続きを読む決意をした。


 半開きの目で、到底受け入れられないリアルを、少しずつ頭の中に流し込むように――





 「一緒に行こう」と言った彼女は、とても、喜んでいました。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「ありがとう」と言ってくれて、その……


 その笑顔を見て、僕は素直に、すごくかわいいなって、思ったんです。

 それまで、なんとも思わなかった彼女の笑顔が、すごく愛おしく感じられたんです。


 それで、もしかしたら僕は……、「恋愛をしない」なんて、くだらない自分の過去を棚に上げて、現実から逃げてるだけなんじゃないかって……、そう思い始めたんです。もしかしたら、自分を変えるきっかけになるかもって……。


 だから僕は今、とても戸惑っているんです。笑





 ……えっ――

「……えっ――」


 …………えっ――

「…………えっ――」


 合計四つの「えっ」が四畳半の私の部屋にとびかい、さっきまで重かった身体に羽根が生える。


 何度も何度も何度も何度も――

 その文章を慈しむように読み込んでいる私の目からは、涙があふれてきて――



「……先輩、……好き、です――」


 気づいたら、勝手に声があふれ出ていた。

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