其の二十 夕焼け焦がれ――、想いが橙色に染まり、記憶の声が彼の襟首を掴んで
ふと、天を仰ぎ見る。
夏の青空が朱色に染まり、もうこんな時間なのかと一人目を細める。
――なんだか、集中できなかったな。
ふぅっと息を漏らし、心の中で独りごとがこぼれる。両手で抱えたサックスを地面に置こうとし――
――そういえば、今日は『アイツ』が現れないな……。
頭の中で、少し茶色味がかったポニーテールがフワッと揺れた。――かと思うと、キィッと錆びついた鉄が軋む音が耳に飛び込む。
「――春風……」
僕の口から、声が勝手に漏れ出た。トボトボとした足取りでこちらにやってきた春風の顔は、いつもより元気がなさそうで――、と、いうより、何かフワフワと、心ここにあらずといった表情を浮かべていた。水泳部の練習の直後なのだろう、乾ききっていない前髪が垂れている彼女の姿が、妙に生々しい。
「……お前、今日の昼休み、僕の教室に来なかったか?」
なんでもないようにそう問うと、現実に引き戻されたかのように、春風がハッと目を丸くする。少しだけ視線を泳がせながら、彼女はたどたどしい口調で言葉を紡いだ。
「……行きましたけど……」
「……あや芽を呼びつけたようだが……、アイツに何か用事でもあったのか?」
「……はい、まぁ……、なんでもない、ことです」
相変わらず春風はソワソワと落ち着きがない。そもそもあや芽は何の部活動にも委員会にも所属していないはずだ。他学年と交流があるとは思えないし、第一アイツ自身、春風たちと面識が無さそうな反応を示していた。
眉を八の字に曲げた僕は、サックスを両手に抱えたまま質問の連打を続ける。
「なんでもない……? お前はあや芽と知り合いなのか?」
「……いえ、今日初めてお会いしました」
「……初対面のあや芽に、一体どんな用事があると――」
「――気になるんですか?」
質問の連打が、ピタリと止まる。さきほどまでキョロキョロと目を泳がせていた春風が、今は挑発するように僕の顔をジッと見つめている。
――なんなのだ、一体……。
化かし合いのような牽制が続き、要領を得ない会話に僕は段々イライラしてきて――
「別に、そういうわけではない」
吐き捨てるようにそう言い、
眼前の春風から視線をそらした。
「――ごめん、なさい……」
気まずい沈黙が夕暮れの屋上に流れ、終止符を打ったのは『春風』で――、チラッと彼女の方を見た僕は、何に対して彼女が謝罪したのかが分からず、フンッと鼻息を鳴らして再び明後日の方向に目を向ける。
「……御子柴先輩と、幼馴染なんですよね?」
「幼馴染……、どちらかといえば『腐れ縁』だな。アイツはなぜか僕の人生に執拗に現れ、ことごとく邪魔を入れてく疫病神のような存在だ」
「でも今日、教室で仲良さそうに喋ってましたよね」
「……仲が良い? ――ハッ! モノ好きなアイツが勝手に喋りかけてくるだけさ。僕からアイツに話しかけたことなど、人生で一度もない」
「……フーン」
春風の質問に僕は全力の鼻息を吹きかけ――、而して彼女は、ジトっとした目つきを解除しようとしない。――その目は、どういう意味だ。僕と御子柴が仲が良かろうが悪かろうが、お前の人生に一ミリも関係がないだろうが――、先ほどから心の中に沸き上がっているイライラに拍車がかかってきた僕は――
「――なんだ、気になるのか?」
挑発するように、そんな台詞を返した。
「…………別に」
幾ばくかの静寂のあと、スッと視線を外した彼女の表情に陰りが帯びる。
胸の中に広がったモヤが胃の中を黒に染める。この空間が、この時間が……、妙に腹立たしく感じてしまって、夏の青空はいよいよ夕暮れへと姿を変え始める。
――なんだ、春風……、お前は何しに来たのだ? 何故わけのわからないことを宣って、僕を挑発するのだ――
心の中で毒づき――、そして同時に、とある疑問が浮かぶ。
――彼女の質問に、彼女とのやり取りに、何故僕はこんなにも、心を揺さぶられてしまうのだろうか――
「――先輩」
ふいに春風が僕を呼び、ハッとなって彼女の顔を見る。
ぱくぱくと、淡水魚のように口を開閉させている春風が、スカートの脇に置いた両掌をギュっと握りしめ、変わりゆく青空と同調するように、その顔を朱色に染め上げ――
「明日……、近所の神社でお祭りあるじゃないですか……、い、一緒に、行ってくれませんか……?」
消え入るような声で、そんなことを言う。
――はっ……?
「何故だ」
「どうしてだ」
「どういうことだ」
――一体、何を……
ありとあらゆる形状の疑問符が頭の中に沸き上がり、煮詰まった鍋のようにぐつぐつと沸騰を始める。声の出し方を忘れた僕は、ただただマヌケな顔をがらんどうの屋上でさらしており――、夕暮れに染まった春風の顔はゆでだこのように真っ赤だった。
「……御子柴先輩に聞いたんです、先輩、花火が好きだって……、こどものころに一緒にでかけた夏祭りで、打ち上げ花火をキラキラした顔で眺めていたって――」
ふと、幼いころの記憶が頭のなかにボンヤリ浮かび上がり、そういえばそんなこともあったなと、齢十八年の歴史がぐるぐると走馬灯のように駆け巡る。
……いやいや、駆け巡っている『場合ではない』。僕は今、目の前で起きた摩訶不思議な事案に、全力で対処しなければならないのだ。
「……花火は好きだが……、何故ぼくなんだ? お前、友達いないのか?」
春風の質問には直接答えず、まずは質問を『質問』で返した。
「……友達は、いますけど……、先輩と、い、一緒に、見たいから、です……」
――……? ますます分からない。わざわざあや芽に僕が好きなものを聞き出してまで、僕を誘う理由が一ミリも見当たらない。
「……だから、何故『僕』なんだ?」
「…………」
「……どうした、何故黙る?」
ゆでだこのような春風がスッと視線を外し、口を開いて――、閉じて、何かを言いかけては――、やめる。
まるで喉の奥がふさがってしまったみたいに、彼女の口からは言葉が出てこない。辛抱強く待つことしかない僕は、段々と自分が弱い者いじめをしているような気分に陥ってきて、思わず、口を開きそうになって――
「――それは、まだ……、言いたく、ありません――」
消え入るような、
絞り出すような声を出した春風は、
そのままギュっと、逃げるように目を瞑ってしまった。
「――まさか、お前……」
彼女の表情が、過去の記憶のイメージと重なる。
その表情に、その視線に、その仕草に――、
なんとなく見覚えがあった僕の頭の中に、蓋をしていた感情があふれ出る。
気づかない振りをしていた、聞こえない振りをしていた。
――でも……、そう、『感じて』しまったからには、もう遅くて――
僕の思考回路は、ある一つの『仮説』に、完全に支配されてしまった。
――春風……、本当に、僕のことを――
夏の青空はほとんどその言葉の体を為していなくて――、夕暮れが僕たちのことを橙色に照らす。がらんどうの屋上で、僕と春風の間に流れる時間は完全に止まってしまって――、再び動かすことができるのは『僕だけ』だというのも、とっくに気づいていた。
――言わなければ、ならない……
両手に抱えたサックスをギュっと強く握りしめ、相変わらず春風は固く目を瞑っていた。何も見たくないと、だだをこねる子供のように。
「――すまない、君と夏祭りに出かけることは、できない……」
――緩やかに、時計の針が再び進行を始めて、春風が静かに目を開けた。大事な宝物が音を立てて壊れてしまった時のように、彼女は瞳に涙を滲ませながら、しかしその顔には一切の感情が感じられない。
「どうして、ですか」
淡々と、無色透明な声で、彼女はそう漏らす。
「……どうしてもだ……、すまん、説明は、したくない……。これは、僕の問題だ、君の、せいじゃない――」
我ながら、卑怯な回答だと思う。でも、そうとしか答えようがなくて――
「そう、ですか」
淡々と、抑揚のないトーンで――、吐き出された彼女の声はロボット音声みたいだった。しばらくボーッとその場に立っていた春風がくるっと後ろを振り向き、その背中が橙色の光に照らされる。呼吸の仕方を忘れていた僕は、久しぶりに二酸化炭素を身体の外の吐き出し、夕暮れの空をフェンス越しに見やる。キィーっと、錆びた鉄のきしんだ音が聞こえて……、誰もいない屋上はびっくるするほど静かだった。
何の気なしに、マウスピースを口にあてる。今の気持ちを表現できるのはどんなメロディだろうと、記憶の中にぐるぐると検索をかけはじめ――
「――やっぱり、納得できません!」
ビクッと肩が震えて、くるっと後ろを振り向く。
――その距離、約一メートル。ぐっと下唇を噛んでいる春風が、ぎゅっと握りこぶしに力をこめて、窺う様に、睨みつけるように――、その目で僕の瞳を貫いていた。
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