其の二 想い芽吹き――、一輪の黒百合が揺れて、晴天の青空にたい焼きが漂って


 ――バタンッ!

 錆びた鉄の扉を開け放ち、ゴールにたどり着いた私はハァハァと肩で息をする。

 ぐぐっと顔を上げて視界に広がるは、だだっ広い青空、無機質な灰色の地面、そして――


 見知らぬ男子生徒の前髪が風になびいて、彼は空に向かってサックスを吹いていた。


 ――やっぱり……。

 さっきグラウンドに流れてきた旋律、その音色が幻聴じゃなかったことを確信する。彼は私が現れたことに気づいていないのか、愛でるように指を動かし、風に委ねるように身体を揺らし、目を細め、自分の世界に没頭するよう――


 一心に、そのメロディを奏でていた。



 ――なんて、綺麗なんだろう……。

 呆けたように彼を見つめる私は今、どんなマヌケな顔をしているのか見当もつかない。


 何層も色を重ねた油絵のような、淡く描かれた水彩画のような――

 夏の青空に溶け込む彼の姿に、私はシンプルに見惚れてしまっていた。



 はたと音が鳴りやみ、私の意識がハッと現実に戻る。先ほど整えたばかりの前髪は汗で張り付いており、急な猛ダッシュの疲れを思い出した私の身体が少しだけよろけた。


 ――ザッ……。

 地面を踏みしめる音が遠慮がちに響き、彼は私の登場にようやく気付いたようだった。

 驚いたようにこちらを向いた彼は、何かに気づいたようにみるみる大きく目を見開き、なぜかその顔がみるみる紅潮していき――


「そ、それ以上……、僕に近づくな!?」

 ぶちまかれた金切り声が、夏の青空を貫いた。



 ――えっ……。

 ポカンとした顔で、あんぐり口を開けている私を凝視している彼は、まるで野生のクマにでも出会った時のように顔面をひきつらせている。混乱した私の頭上にはクエスチョンマークが舞散らかしており、私はさらに一歩彼に近づこうとする。



 ――ザッ……。


「――ちっ、近寄るなと言っているだろう! 君、日本語が通じないのか!?」

「えっ? えっ? あ、ゴメンナサイ、私――」


 頭の中で、混乱と混迷が二乗される。私は何か彼に誤解があるのだろうと、さらにその歩みを進めようとして――、だけど私が近づけば近づくほど、彼はサックスを抱えながらじりじりと後ろに後ずさってしまう。


「い、いやだからこっち来るなって!?」

「な、なんで……、私、何も怪しい者じゃ――」

「な、なんでもクソもだ! ……というかお前は一体何者だ!? 吹奏楽部の生徒ではないだろう、なんでこんなところに居る!」


 頑なに距離を取ろうとする彼の態度に、私はいよいよ接近するのを諦めた。約五メートル先で何故かファイティングポーズを取っている彼に対して、私は精一杯の声を投げる。


「――さ、さっき吹いていた曲! 『クロユリ』ですよね!?」



 警戒心で凝り固まっていた彼の表情から、フッと力が抜ける。

 まるまると大きく見開かれた瞳をそのまま、彼はポカンと大口を開けていた。


「私……、私も! 好きなんです! 『クロユリ』! だから、もしかしてと思って――」

「――だったら、なんだと言うんだ」



 フワッと夏風が舞って、乾いた声ががらんどうの屋上に響く。



「――えっ……?」


 私の口から気の抜けたような声が漏れ出て、やもすると私を眺めていた彼がぷいっとそっぽを向いた。


「……すまない、練習中なんだ……、悪いけど、出て行ってくれないか?」


 言うなり、再びサックスを吹き始めた彼が奏でるメロディは、私の知らない曲だった。やり切れない気持ちが私の胸の中を巡って、しばらくそのままバカみたいに突っ立っていたのは『私』で――、やがて何かを諦めるように、錆びついた鉄の扉を静かに開けた。


 ――バタンッ……

 軋んだ音が響いて、扉を背にした私はその場にへたりこむ。ふぅっと大きく息を吐き出して、でもドクドクと高鳴る心臓が鳴り止まなくて――

 その理由がわからなかった私は、さっき猛ダッシュで階段を駆け上がったせいだと、自分で自分を無理やり納得させた。





 クロユリ。


 まるでアンドロイドロボットのように表情がなくて、でも精巧に形どられたその顔は同じ人間とは思えないほど綺麗で――、一切の素性が明かされていない彼女は、一部に熱狂的なファンを持つ女性シンガーソンガーだ。

 『クロユリ』の歌声は、まっさらに透き通っているような、でもどこか黒く濁っているような――、他の歌手にはない不思議な響きを持っていた。たゆたうような調子のメロディがひとたび耳に流れ込むと、まるで宇宙空間に飛ばされてしまったように、フワフワとした浮遊感が私の意識を連れ去る。


 ――そう、まごうことなく私……、『春風ハルカゼ杏々香モモカ』も、一部熱狂的ファンの内の一人だった。



 家路についた私は早々にお風呂を済ませ、自室に戻ってベッドに倒れ込む。くたくたに身体は疲れているのに、神経が高ぶっていて不思議と目は冴えていた。湯舟から上がったばかりの身体は火照っており、流れ出る汗が中々止まらない。ふと、近くに放ってあったスマートフォンに手を伸ばし、柔らかいシーツに全身を委ねながらデジタル画面に目をやった。


「……あっ、『アジサイ』さん、何か書き込んでる……」


 思わずポツリと独り言を漏らした私が眺めているのは、『クロユリ』のファンサイト、『カトレア』――

 『カトレア』は、私が日々チェックしている『クロユリ』のファンサイトの一つで、『アジサイ』というハンドルネームの管理人によって運営されているこじんまりとした個人サイトだ。……と言っても、そのサイトを利用しているのは『私』くらいで――、実際のところ 更新されているコンテンツは交流掲示板のみ、しかも、書き込んでいるユーザーは私と『アジサイ』さんの二人だけだった。


 周りに『クロユリ』のことを知る友人がいなかった私は、秘めたる想いを誰かと共有したい欲求に日々駆られており、でも不特定多数の他人が有象無象に漂流する大口のSNSツールを利用する気にもならなくて……、ふと探し当てた『カトレア』に、一人『クロユリ』への想いを綴り続けている『アジサイ』さんへ返信を書き込んだところで、私たちの交際は始まった。

 『アジサイ』さんはほぼ毎日何かを書き込んでいて、私はあますことなく『返信』を続けていて……、気づけば、『クロユリ』とはまるで関係のない、日常の出来事を語り合うまでに私たちは打ち解けていた。





 HANDLE:アジサイ  DATE:7月2日(日)

 今日はとても暑かったですね。自分の家はエアコンが壊れてしまい、なんとか扇風機で頑張っていますが、なかなか辛い……。

今日はきちんと寝ることができるか、今から不安です(笑)





 顔も名前も知らない、どこぞの誰かのなんでもないぼやきに、私は思わずクスッと笑い声を漏らす。心がほだされ、全身を柔らかいシーツに委ねながら、手慣れた手つきでスマホをスワイプさせ、タンッと送信ボタンをタップした。





 HANDLE:杏  DATE:7月2日(日)

 こんばんわ! アジサイさん、エアコン壊れちゃったんですか(笑)。それは大変……。 今日は暑くて暑くて、今お風呂から上がったばかりなのですが、中々汗が止まらない(笑)。熱中症などになったら大変なので、気をつけてくださいね~!





 『杏』は私のハンドルネームだ。

 『春風杏々香』という本名から一文字とって『杏』。書き込みが終わり、ポイッとスマートフォンを放り投げ、火照った顔を柔らかいシーツにうずめる。真っ暗な視界の中、私の意思とは裏腹にモヤモヤとあるシーンが浮かび上がってきて――



 ――あれっ……?



 ふいに、ドクドクと心臓が高鳴り始めた。

 青い空に包まれた学校の屋上、一心不乱にサックスを吹く彼の姿が、瞼の裏にまとわりつく。


 思わずガバッと起き上がって頭をブンブン振っても、

 そのイメージは中々頭から離れてくれなかった。

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