ナメクジ・アドベンチャー

チャンバラ侍

第1話

 『悠々自適、順風満帆』佐久間太郎の夏休みを表すならまさにこの四字熟語が正しいだろう。宿題が計画通り順調に進んでいるのである、これ以上のことは無い。

 太郎は一から十まで全てのことに計画を立てる男であった。七時起床、七時十分までには顔を洗い、七時半には朝食完食、その後五分間で歯を磨き、八時までは自由時間とし、クーラーをつけ自室のベッドで読書をする。

 完璧に最適化された日常のスケジュール。緻密に計算された疲労度とその回復に所要する時間調整。針の糸を通すような正確性でもってそれを遂行する。まさに一分一秒、果てはコンマ一秒のズレさえもなく、機械かと疑うほどの計画順守ぶりに、太郎の知人友人家族共々辟易することが多かった。

 しかし太郎はその行為を悪だとは、勿論これっぽっちも思っていなかったのである。

 『最高の人生は計画性がある』何処か誰かの著名人が発した、きっと何気ないことに太郎は心から感服した。若干七歳にして人生の主題を手に入れてしまった太郎は、愚直にその生き方を貫いているのだった。


 くぐもったツクツクボウシの鳴き声が窓越しに響く。

時刻は朝七時四十五分。太郎は二階の自室で読書に勤しんでいた。

物語は佳境に入り、次へ次へとページを捲る手が止まらない。予想を裏切る展開に太郎が目を丸くする――と、今度はそれを裏切るように、間抜けなインターホンの音が昂奮に水を差した。

 思わずムッと顔を顰めた太郎は、誰だよまったく、と吐き捨てて、心なしか足音大きく階下まで向かった。


「助けてくださいっ!!」


 まさか、助けを求める少年が待ち受けているなんてことも知らずに。





「えぇっ、と」

 太郎は目を白黒させて狼狽えた。

 眼前に居るのはまだまだあどけない顔の少年であった。

 日本でもまあ稀な金髪が整然と切りそろえられ、さららと風に揺れている。身長は小学生から中学生ほどで、丸っこい瞳を不安げに潤ませて太郎を見つめていた。

「おねがい、します……」

 なんとも弱々しい声だった。

 どうしようかぐるぐると考えていた太郎は、少年の赤く火照った頬と額から浮き出ている玉のような汗を見て、もうどうにでもなれ、と少年を手招きした。

 少年は安堵したかのように目元を緩ませると、小走りで太郎の元へと駆け寄った。その後、クーラーの冷気にあてられたのかブルりと軽く身震いすると、そのままフラリとよろめいた。

「お、おい、大丈夫か?」

「み、水を……くだ、さい……」

 熱中症ならば一大事である。慌ただしく冷水を取りに行った太郎の背を見つめて、少年は薄く笑った。





 少年に水を飲ませ、しっかりと玄関の鍵を閉め、一息ついた後に少年をリビングに招き入れた太郎は早速事情聴取を始めた。

「あの、ぼくはナメクジなんですけど……仲間がまだ捕まったままなので助けてほしいんです!」

 ちょっと待て。喉から出かけたその言葉を太郎はぐっと飲み込んだ。聞き捨てならない単語がいくつか存在したような気がしたが、とりあえず太郎は続きを聞くことにした。

「場所は案内できるので……その、お願いします!」

 少年は勢いよく頭を下げた。

 どうやらそれで話は終了らしい。不審者に追いかけられているなどの深刻な状況であると思いきや、何とも拍子抜けである。太郎は頭の痛くなる思いがした。

「その、ナメクジっていうのは?」

「へ? もしかして人間の言葉でナメクジって言わないですか?」

 予想と違う受け取り方に思わず面食らった。

「ナメクジは……そういう言葉は、あるけど」

「その意味は、こういう――グネグネした生きもののことですよね?」

 少年は頭上で両手を合わせ、全身でぐねぐねとワカメのように体を揺らして見せた。そこまでされれば、さすがに言葉通りのナメクジであるということは太郎にも分かる。

「ああ、そうだけど……」

「じゃあ問題ないですね!」

 何が問題ないのだろう。太郎は激しくツッコミたい気持ちになった。

「そりゃナメクジはそういうグネグネしたヤツだけどさ、今の君の姿形はどう見ても人間じゃないか……あ、もしかしてあだ名とか?」

「なーんだ、そういうことですね。ぼくはナメクジからヒトになったんです!」

「ナメクジからヒトォ!?」

 あまりにもバカバカしい発言だ。だが、しかし、まだいとけない少年が自身の出生をそう夢想するにしては何かおかしくはないか。普通ならばライオンとか、宇宙人とか、勇者の生まれ変わりだとか、そういうヒロイックな特別性を夢見るものではないのか。

 それが、ナメクジときた。

 マイナーもマイナー、子供を形成する世界にとって、ナメクジが占める範囲は一億分の一にも満たないだろう。

 少年の戯言として一蹴することもできる。しかし太郎にはどうもそこが引っかかって仕方がなかった。

「……ナメクジからヒトになったとして、君はどうしてこの家まで来たの?」

 少年は僅かに目を伏せ、「住所を、渡されたんです」とボソボソ語った。

「住所?」

「はい。施設の、女の人から。『困ったらここに来なさい』って言われて。その次の日から……その人は居なくなりました」

「おんなのひと、ね」

 太郎の頭に、施設という言葉が引っかかった。養護施設の可能性が圧倒的だが、少年の突飛な言い草を信じるのであれば研究施設かなにかだろうか。

 おそらくその人は、施設を離れるにあたってこの少年のことが気がかりだったに違いないだろう。そんな風に彼を慮っている人が、彼が助けを求めて駆け込んでくるところに、その彼と全く関係のない場所を選ぶ訳が無い。

「その人はどんな姿だった?」

「そうですね、髪を後ろで一つに括っていて、キリッとした目元が特徴的な優しい人でした。とってもぼくに良くしてくれて……」

 並べあげられたものはありふれた特徴だった。これでは太郎や太郎の親の知り合いからその人物を絞ることができない。

 これでは謎が深まるばかりである。太郎が諦めたようにため息をついて、少年に声をかけようとしたとき──ふいに彼が興奮に満ちた声を上げた。

「あ! そうそう、あんな人です、丁度こんな――」

 少年が指さしているのは、佐久間家のリビング、その片隅にひっそりと設置されている仏壇であった。正確には、そこに飾られている写真。

 太郎が止める間もなく、少年はトタトタと軽い足音を響かせてそこに近づいた。そうしてその写真をずい、と覗き込んだ瞬間――少年の喜色溢れた声は不自然にプツンと途切れた。

「ど、どうした?」

 これが仏壇だと気づいて、写真にはしゃいだ自分を戒めているのか。しかしそれにしては――いやに沈黙が長すぎないか?

 なぜかは知らないが、太郎の背を冷や汗が流れていく心地がした。


「え……この写真の通り……全く一緒──」


 ――この人が、その人です。


 長い沈黙の後、震える声でポツリと落とされた言葉。

 太郎もまた、震える気持ちでそれを聞いていた。

「本当か?」

「はい……絶対です、この写真の人は、その女の人です」

「その人は……僕の、母さんだ」

 太郎の母は玉の肌に浮かぶ抜けるような目元を緩ませ、勝ち気そうに笑っている。母の特徴とも言えるポニーテールは写真でも健在だ。

 確かに、先程少年が供述していたイメージとも合致する。彼女は太郎にとって、厳しくも優しい人であった。

 少年は何かを言おうとして口を開いて、結局何も出さず息を吐いた。

「これで……謎が解けたな」

 太郎は重々しく呟いた。

「謎って、なんの?」

「決まってるだろ、なんで君をこの家に呼び寄せるようにしたのかだよ。そりゃ母さん自身がここに住んでるんだから、当然ここの住所を渡すよな……」

 太郎はハーッと大きく息を吐いた。ついでに、途端にズッと重くなったような肩を軽く揉んだ。今のところ、謎は一つ解けたがもう一つ別の謎が増えただけだった。一進一退とはこの事か。

 増えた謎とは、つまり太郎の母が何者であったかというものである。太郎は母から保育士をしているなどという文言を一度も聞いたことがなかった。太郎が母に職を尋ねた時、母は決まって、色んなことを研究するお仕事よ、としか答えなかった。

 それが今は少年の異常性を際立たせているように太郎は感じていた。施設、という言葉が頭を過ぎるたび、頭の中で言葉が無機質で白一色の建物を形成するようになってきて、それを打ち消すように太郎は慌てて頭を振った。

「あの、これからぼくはどうすれば……」

 少年の躊躇いがちな声に、太郎は思わずお前のことだから自分で決めろ、と面倒事に顔を顰めそうになった。しかし少年は渡された住所を頼りにここまで来たのだ、罪は無い。太郎は極めてそれを顔に出さないようにして、「どうしようか」と一緒になって呟いた。

 太郎はチラリと壁掛け時計を仰ぎ見た。時刻は七時五十三分。自由時間の終わりが近づいていた。

「あの、アオミおねーさんのお部屋を見てもいいですか?」

「え?」

 この厄介な少年をどうしようか思案していた太郎は、突拍子も無く掛けられた要望に目を丸くした。

「ダメですか……?」

「いや、いいけど、急にどうして?」

「施設の場所はわかるんですけど、入るにためには板? みたいなものをドアにつけてからじゃないとダメなのを思い出して……多分、アオミおねーさんはまだ持ってるんじゃないかって」

「カードキー!? いよいよ本格的じゃないか」

 どうにもキナ臭い。嫌な臭いがプンプンしている。太郎は顔を引き攣らせながら、母である佐久間青美の部屋へ少年を案内するために腰を上げた。





「何もないとは思うけどね」

 そう言って、太郎はもう何か月も触っていないドアノブに手を掛けた。

そのまま力を込めてグッと引くと、埃っぽい空気が肌を撫でた。何年も着られていない服のような何とも言えない臭気が、開け放たれた扉から外界へモワリと進出してくる。

 太郎の母が亡くなったのは約一年前のことだ。亡き母の遺した部屋は、太郎にとってどうにも入り難いものとなった。掃除は一か月に一度父が行っており、入る必要性も無かった。

 だから、母が亡くなってから太郎がこの部屋に入るのはこれが初めてと言える。もしこの少年が現れなければ、太郎はこの部屋に一生入ることは無かったのかもしれない。

「ここが……」

 閉め切られたカーテンの隙間から、朝日が淡く差し込んでいる。放心したように佇む少年を先導するように太郎は部屋の電気をつけ、部屋の中心へと足を進めた。

「カードキーを探さなきゃいけないんだろ?」

「あ、そ、そうだった」

 少年は慌てたように太郎に追従した。

 カードキーを探すといっても、太郎はその色も形状も、何なら元々存在することさえ知らなかったのだ。その点についてはまるきり少年頼みである。机の引き出しを漁っては、それらしいカードをひたすら少年に見せていくという作業が数分ほど続いた。

 太郎が『それ』を探し当てたとき、これは当たりではないかという予感めいたものが湧き出てきた。余分な情報は書かれておらず、白地に青い横線が二本描かれている、異様に簡素なカードであった。

「あ! これです、これ!」

 少年のお墨付きを得て、見事目的を果たした二人は、部屋の電気を消し、早急に部屋の中から立ち去った。最後にドアを閉めると、太郎は無意識のうちに入っていた肩の力が一気に抜けたような心地がした。

 少年とともにリビングへと戻ると、真っ先に太郎の目に入ったのは八時三分を指している壁掛け時計であった。

「あ! もう時間じゃないか、僕は勉強しに自分の部屋に戻るからここでゆっくりしておいてくれ、十時には戻るよ」

「ええっ! 今から一緒に行ってくれるんじゃないんですか!?」

 少年が素っ頓狂な叫びを上げた。

「そんなこと言われても……僕の予定にも合わせてくれよ」

「予定?」

「ああ、僕はこの夏休み中、八時から二時間勉強するという項目をスケジュールに入れているんだ。毎日の予定を守るのは僕にとってとても大事なことだから、勘弁してくれよ」

「そ、そんなぁ……何とかできないんですか?」

 しおしおと項垂れている様子に、太郎の良心がチクリと刺激された。いやいやしかしこちらはある意味被害者なんだと無理やり自分を納得させ、太郎は断固たる意志を持って主張した。

「できない! 大体、押しかけて来たのは君の方だろ、事前に連絡さえ入れておいてくれればこっちも予定を建てられたものを……」

 そこまで考えて、ハッとした。

「そういえば君、名前は?」

「な、名前?」少年は困惑したように首を傾げた。「僕はナメクジだから、名前なんてないですよ?」

「――え?」

 愕然とした。太郎にとって人物に名前が存在するのは当たり前のことだ。それを明確に破壊するように、『名前は無い』だって? およそ信じられないような現実が、目の前の少年にあった。

「名前が無い、って、それって」

「……? あれ、おかしいことなんですか? 皆からは『ナメクジには名前が無い』のが普通だって聞いてたんだけどなぁ」

「いやいやそれって、嘘だろ、だって君は――」

 どう見ても人間じゃないか。太郎のその言葉は何故か喉につっかえて、ゆっくりと霧散していった。

 怪訝そうな顔つきの少年を、太郎はまじまじと見つめた。中々に将来有望そうな美少年である。そんな少年に、人並みのものが与えられていないのだと、太郎はその施設の人間とやらに義憤を抱いた。しかしその施設の人間とやらには自身の母も含まれるため、結局どう思えばいいのか分からなくなってしまった。

「僕は、君のことをなんて呼んだらいいんだ?」

「う、うーん? 普通にナメクジって呼んでくれていいですよ」

「な、なめくじ」

 このまだまだあどけない顔立ちの少年をナメクジと呼ぶのはいささか精神的にクる(・・)ものがある。が、仕方がない。物語の主人公ならばここでこの少年に何かしらの名前を付けるのだろうが、ごくごく一般的な羞恥心を持ち合わせている太郎にとってそのハードルは高かったのであった。

「よしじゃあ分かったナメクジ、一緒に行ってやるからとりあえず十時まで待て」

「ヤです! 二時間待って、仲間たちに何かあったらどうするんですか!?」

 少年への同情の念は深まったが、それはそれとして自身のスケジュールを無視できない太郎は、少年を宥めて納得させる作戦に出た。しかし少年はそれに惑わされなかったのか、間髪入れずに抵抗した。

「落ち着けって、別に行かないなんて言ってないじゃないか!」

「今すぐ行かないって言ってるじゃないですか! そんなに勉強が大事なの!?」

「ああ大事だね! ナメクジには分からないさ、人生を計画通りに進めることが如何に大切であるかなんて!」

 そればかりは許せないと、太郎は少年をキッと睨んだ。

 少年は怯んだように身を竦めたが、それも一瞬のことだった。すぐに毅然として一刻も早く仲間を助けたい、と再び訴える様は、平時ならまだしも、この状態の太郎にとっては逆効果であった。

「もういい! お前一人で行けばいいんだ、勝手にしろよ!」

 繰り返すが、太郎はこの少年に押しかけられた側である。受け入れこそすれ、この少年の要望に一から十まで付き合う義務は無い、と太郎は考えていた。

 激高しきった太郎の声に今度こそ慄き竦んだか、少年は一歩、二歩とよろよろ後ずさった。するとソファに体が当たってしまい、手すりの部分に置かれていた一冊の本が、バサリと上にページを開いて地面に落ちた。

「何やってるんだよ……」

 少年の怯え切った様子に少々冷静さを取り戻したのか、先程よりかは語調を弱め、太郎は呆れたようにため息をついた。本を拾い、丁度開かれたページに折れ目や傷がついていないか確認する。

 その時、そのページに書かれていた『臨機応変』の四文字を、太郎の視線は何故か真っ先に捉えた。同時に、太郎の心臓は一際強く拍動したようだった。

「臨機応変……」

 臨機応変。その状況状況に応じて、柔軟に対応を変化させること。太郎の優秀な頭脳は、その意味を瞬時にはじき出した。

 ――自分は今、臨機応変に動けていると言えるか?

 そんな問いが、頭を過った。

 この家に助けを求めて転がり込んできた異質な少年を気遣いもせず、自らが招き入れたにも関わらず相手の都合を推し量りもしないで、自分は被害者であるからと自らの都合だけを主張ばかりしている。相手は、明らかに何か事情を抱えているというのに。

 思考が終点へ辿り着くと、太郎の身に罪悪感の波が襲いかかった。

「……まあ、あれだ。今から行くか」

「へっ、えっ? いいんですか?」

「いや、君が言い出したことじゃないか……。そうだ、場所はどこなんだ? すぐ着くか?」

 みるみる内に目を輝かせていった少年は、太郎の言葉にブンブンと首を縦に振った。

「近いですよ! 早く行こう!」

「おいちょっと待て、引っ張るなバカ! 準備があるから――」

 るんるんという文字がピッタリと合うような表情で、少年は太郎の服を掴み玄関の方へと引っ張った。

 慌てて太郎が引き止めるも、少年は頑として太郎の服を離さない。太郎は本日何度目かになるため息をついて、少年ごと自室に引き込んで外出の準備を始めたのであった。





 馬鹿みたいに青い空。じりじりと照り付ける太陽。まだまだ五月蠅いセミの声。うだるような暑さの中、太郎は鼻を伝う汗を袖で拭きながらたまらず叫んだ。

「近いって言ったじゃないか!」

 思えば嫌な予感がしていたのだ。

 太郎の家は大きめの住宅街の一角にあり、幅広の道路が住宅街を囲むようにして繋がっている。そこから先は一直線にだだっ広い道路が続き、町の中心部に近づくまでは駅はおろか、店すらほとんどない。家以外の建築物は近所のコンビニエンスストアと小さな工場がぽつりぽつりとあるだけである。

 外へ出る準備をしていたとき、太郎はふと思ったのだ。

 あれ、何かの施設っぽい建物ってここら辺にあったっけ、と。

 つまりはそういうことである。太郎の気が変わることを恐れた少年は、目的地が近場であると虚偽の証言をし、外出のハードルを下げようと試みたのであった。

 それにまんまと引っかかった太郎は哀れ、帽子も着けて来ず、炎天下に身を晒していた。

「ご、ごめんなさい……」

 ごめんで済むなら警察は要らない。太郎は切実にそう思った。

「まあ、いいさ。とりあえず、ここが目的地か?」

「はい、この道を少し行ったところに白い建物があるはずです」

 少し行ったところに、の『少し』の部分にはいささかの疑問が残るが、ここが太郎たちの目指す目的地には違いないようだった。

 トモシビ山。太郎の住む住宅街から東の方へ約二キロほど行ったところにある、標高二百六十メートルを持つ山の登山口に二人は佇んでいた。

「わかった、早く中に入るとするか。暑くて溶けてしまいそうだ」

 張り付いた布地を離すようにシャツの胸元を掴んでバタバタと扇ぎ、中に新たな空気を吸い込ませながら、太郎は足早に山道の土を踏んだ。少年も小走りでついてきた。二人とも考えていることは同じだ。山道の半ばから差している影に入り、暴力的なまでの日光から身を隠したいのであった。




 待望の影が身を包むと、一気に暑さが和らいだような気がした。吹き抜ける淡い風が汗を冷やして気持ちがいい。太郎はフーッと長く息を吐き出した。

「暑かったな……」

「暑かった……」

 万感の想いを込めたかのような呟きであった。

 二人とも、鞄の中から露まみれのペットボトルを取り出して水分を思い切り呷った。少年の鞄もペットボトルも、太郎が支給したものだ。

「よし進むぞ。昼までには戻りたいからな、案内頼む」

「わかりました!」

 少年は太郎の前に躍り出た。

 そのまま意気揚々と足取りを弾ませて進んでいく。明らかな遠足気分に太郎は一抹の不安を抱いたが、もうどうにでもなれと考えることを止めた。


 暫く歩くと、少年がおもむろに口を開いた。

「行きも思いましたけど、道、ボコボコですね」

「……そうだな、確かこの山は登山客が僅かだから、舗装もあまりしていないらしい」

 昔父が言っていたことを思い出しながら話すと、少年はそうなんですねぇと気の抜けた相槌を打った。

「……なあ、一つ聞いてもいいか。君の仲間のナメクジたちはどんな仕打ちを受けているんだ?」

「仕打ち?」

「ああ、助けに行くんだろ? ……って、これ今気づいたけど、僕たちがやろうとしてることって不法侵入じゃないのか? 大丈夫か?」

「ああ! ぼくが居た施設は今もう誰もいないと思いますよ。なにかが中止? 閉鎖? になったみたいで」

「うん?」

 太郎は耳を疑った。

「僕が施設を追い出されたのもそのせいだと思います。ただ、僕は外まで案内してくれたんですけど、仲間たちはカゴの中に入ったままで。絶対しんどくなるので助けてあげたいと思ったんですけど、一度施設の外まで出されてしまったので、入り方が分からなかったんです」

 最後の方は少ししゅんとしたような声色で、少年が本当に仲間のナメクジたちを心配しているのだということが太郎にもよく伝わった。

 ただ一つ、聞き逃せない部分があったことについては許してほしい。


「もう閉鎖してるって、どういうことだよ!?」

 切実な訴えに哀れみの声を掛ける人は、この山のどこにもいなかった。

「え? ナメクジたちが施設の人に虐げられてるから助けに行きたいんじゃないの?」

「ち、違いますよ! 施設の人は仲間たちに優しかったです! 僕はただ、ずっと閉じ込められたままは辛いと思って……」

「オイオイ、そんな事のために僕は駆り出されたのか――」

 次の瞬間、ハッと我に返った。鼓動がドクドクと強く速くなっていく。自分は今、何を口走った? 太郎の眼前に、目を見開いた少年の姿が見えた。

「……す、すまない。君にとってはそんな事(・・・・)じゃなかったな。ちゃんと協力するよ」

「わかってます。あなたは人間ですもんね。こんなナメクジの言うことなんて聞きたくないかもですけど、できればこのまま手伝ってほしい、です」

「……ああ、もちろんさ」

 太郎の必死の弁明に対し、少年の反応は実に謙虚なものだった。

 冷えた風が太郎の頬を撫でていく。何か取り返しのつかないことをしてしまったような。そんな漠然とした不安感がじくじくと太郎の胸を蝕んだ。

 それでも山道は続く。どこか気まずい空気感の中、いつの間にか離れた距離を保ちながら、二人は歩き続けた。





 何分間歩いただろうか、太郎の足が疲労感を訴えてどんどんと重くなってきた頃、薄灰色の建物を視界の端が捉えた。

「あれか?」

「あれですね! よかった、迷わないで済んだぁ……」

 少年は太郎の背筋を震わせるような台詞を平然と口にした。山で遭難などたまったものではない。

 終わりのない旅路から解放されたような心持ちで太郎はその建物へと近づいた。

 おそらく建設された当初は真っ白だったであろう壁も、今では風雨に晒された汚れが祟ってか灰色味がかかり、土埃や鳥のフンなどがこびりついている。形は一般的に豆腐建築と呼ばれるような直方体であり、角の部分に向かって伸びている木の根がいかにも邪魔そうにうねりを見せていた。

 施設建設にあたって木を切り倒したのか、建物には何にも阻まれることのない太陽光が燦々と降り注いでいる。退廃的ともいえるような施設の様相と相まって、どことなく幻想的な風景にも見えた。

「入口はこっちです」

 先に建物へ近づいていた太郎を後方から抜き去って、少年は雑草を踏みしめながら扉へと駆け寄った。

 次いで太郎もそこに駆け寄ると、何の変哲もないドアノブ式の扉があった。人ひとりが丁度通れるようなサイズ感である。

 ここまで来ればもう腹を括るしか無い。あまり納得できない理由だとしても一度引き受けたからには、太郎にとってこなさなければならない『予定』である。

 決意を新たに太郎はドアノブを握り、捻って開けようと――する前に、きょろきょろと背後を確認した。

「ん? 何してるんですか?」

「……いや、ちょっと怖くなって」

 具体的には不法侵入とかその辺りである。いかに閉鎖済みの施設とはいえ、無断で入ろうとしていることには変わりがない。決定的瞬間を目撃でもされれば、非常に面倒臭い事態になりかねないのだ。バレなければ犯罪じゃない、という先人の言もある。ここはバレないように慎重にいきたい場面であった。

「よし、じゃあ中に入るぞ」

「うん」

 今度こそ太郎はドアノブを捻った。

 扉を開け放つと、家で母の部屋を開けた時のような埃っぽい匂いがした。中は薄暗いが、全く見えぬほどの暗闇という訳ではない。太郎は少年に目配せすると、一緒に中へと踏み込んだ。

 そこはエントランスのような場所だった。横に広い長方形の部屋で、左右の壁にはロッカーがいくつか並んでいる。

 正面に少し進むと、今度は自動ドアのような取っ手の無いドアが二人の行く手を阻んだ。近代的なスタイルのドアの横には小さな出っ張りがある。

「ここにカードキーを差すのか?」

「多分そうだと思います。ぼくは外から帰ってきたことがないのでわかんないですけど……」

「まあ、とりあえず差してみるか。というかここ以外に差せそうな場所もないしな」

 太郎がカードキーをそれらしき部分に差すと、出っ張りの下部分が青く明滅し、ドアが滑らかに開いた。

「よし、行くぞ」

「わ、なつかしい……」

 ドアが開いた先の部屋は開けていて、そこからはいくつもの廊下が伸びていた。

 今まで暮らしてきた場所はやはり安心するのか、少年は先ほどよりも肩の力が抜けているように見えた。太郎はさらに周囲を見渡すと、設置されている机の上に、くまのぬいぐるみが倒れているのを見つけた。

「このぬいぐるみは? 君の?」

「ああ、それはジェーンのですね……あいつ、忘れて行っちゃったのかなぁ」

「ジェーン?」

「えっと、ここで暮らしていた人です。ぼくと同じくらいの背で、みんなが言うには、ぼくと同い年って」

「同い年、って……? 君のような子供がこの施設には複数いたのか?」

 太郎は思わず声を震わせた。

「ぼくはナメクジなので例外らしいですけど、うーんと、ぼくやジェーンと同じくらいの背の人はまだ何人かいたような気がします」

 明らかに人間である容貌をしているのに、自分はナメクジだと言い張るこの少年。恐らく、それはこの施設が原因である。この少年が、この施設で行われてきたことの被害者であることは間違いないだろう。さらに、そんな実験のようなことを受けているかもしれない子供がまだ複数いるらしい事実に、この場所における暗い何かを垣間見た気がした。

 ますますこの施設の謎が深まったようで、太郎はやはりとんでもないことに首を突っ込んでしまったのではないか、と少し後悔した。しかし、ここまで知って今からこの少年を見放すような冷酷さを太郎は持ち合わせていなかったのである。うろちょろと嬉しそうに動き回る少年を見て、太郎は声をかけた。

「肝心のナメクジたちはどこに居るんだ?」

「あ、そうですね、すぐ行きましょう! ついてきてください!」

 いくつもある廊下の内、迷いなく一本を選んで歩き出した少年を追って、僅かに口角を上げながら、太郎も白いタイルの上を歩き出した。





 廊下は意外に短く、部屋も道中の一部屋と、突き当りのこの一部屋しかないようだった。

「ここです!」

 そう言って少年が指さしたのは、突き当りの一部屋だった。

 太郎の反応を待たずに少年はそのまま勢いよくドアを開けると、すぐに中へと飛び込んだ。

「大丈夫だった!? ごめんねぇ、来るのが遅れちゃって……」

 少年の悲痛な声が部屋の中に響いている。遅れて太郎も部屋に入ると、それ(・・)を見つけた。


 特に、何の変哲もない、ただの少し大きいムシカゴだ。

 中には湿っているらしい土が敷き詰められていて、生活環境を自然に似せるためか、小さな木片や葉っぱなども少し入れられている。当のナメクジたちは突然の来訪者にも驚かず、小さな世界の中を悠々と自分勝手に動き回っているように見えた。

 少年はムシカゴを大事そうに抱きかかえ、とろけんばかりの笑顔を中のナメクジたちに披露していた。


 太郎には、どうしてもその感動が味わえそうになかった。

 本来の予定を変更し、ここまで苦労して山を登って、余計な気苦労を背負いながらもここまで来た。しかし、その報酬があれ(・・)とは少々お粗末が過ぎないか。

 勝手に期待して、勝手に裏切られて、太郎はどうにもいたたまれない気持ちでそこに突っ立っていた。

 どうしたらいい? どうすればいい?

 よかったな、なんて気持ちはあるけれど、そんな表情を見せる相手がナメクジであると思うと、酷く滑稽な物事に力を貸した気分になってしまう。憐憫から始めたようなものだが、この情景を見ていると、太郎は自身の憐憫がどうしても無駄であったように思えてならなかった。なんだ、幸せそうじゃないか。太郎の胸中には、そんな言葉が渦巻いていた。

「お待たせしました、もどりませんか?」

 少年が振り返って、太郎を見た。

 少年の純粋で、純麗たる瞳に自身が映り込むのが見え、太郎は思わず顔を逸らした。

 少年が不思議そうに首を傾げるのを横目で見つつ、「そうだな」と辛うじて声を発した。





 廊下を通り過ぎ、再びエントランスに戻ってくるまでが、一瞬の出来事だったように太郎は感じた。

 少年は相変わらず、ムシカゴを手にご満悦だ。後ろで一人悩む太郎がいっそ馬鹿らしくなるようなほどに浮かれている。今にも小躍りしそうな雰囲気だった。今この場では、太郎より少年の方が正しいのであった。

「……な、仲間は元気そうか?」

 ずっと黙っているのもなんだか気まずくて、太郎は絞り出した質問を少年に投げかけた。

「はい! 弱っている仲間もいなくて、みんな元気そうですよ。これもここまで付き添ってくれたあなたのおかげです! 本当にありがとうございます!」

 ニコニコ、ニコニコと。太陽のような笑顔で少年は笑っている。

 ただ、太郎には付き添いという言葉が引っかかった。小さな、ほんの少しの違和感だ。ここまで予定を引っ掻き回されて、迷惑を掛けている相手に対しての役職名が、単なる付き添い?

 些細なことであることは、誰よりも何よりも太郎が一番理解していた。

 それでも、見逃せなかったのである。そしてそんな自分に対して、自分勝手に自己嫌悪を抱いた。心の狭い人間であることが大きな恥であるという事実を眼前に突き出されて、無理矢理分からされたようだった。

「それなら、よかった」

 自分はこんなに心の汚い人間だったか?

 この施設によって自分の人格がまるっと入れ替わったのではないかと、そう疑うほどに太郎は混乱を極めていた。


 とうとう、エントランスから外に出た。

 薄暗い世界に慣れていた目を、夏の日光が刺すように出迎えた。太陽は高く昇り、丁度昼を迎えたようだった。

 とにかく早く帰りたい。自分の気持ちに整理をつけたくて、太郎は足早に山道をくだっていこうとした――その時であった。


「君たち……何をしてるんだ?」


 太郎の心臓が大きく跳ねた。

 それは一人の男性であった。猫背気味で、どちらかと言えば年若い雰囲気を纏っている。こちらを射抜く鋭い目つきから、事情を知るこの施設の関係者であるような予感が、太郎を襲った。

「あ、えっと、これは――」

「エンドウおじさん! 久しぶり!」

 太郎がどんな言い逃れをしようかと必死に脳をフル回転させていると、少年の明るい声がその場を支配した。

「うん……? な、ナメクジ君じゃないか!」

「やっぱり、エンドウおじさんだね! よかった、また会えて……」

「どうしてここに? そして彼は?」

「それはね――」

 どうやら二人は既知の仲であり、しかも中々交流があったらしい。険悪な雰囲気から一転、談笑を始めた二人に、太郎は困惑を隠せなかった。

「――なるほどね。仲間を探しに……」

「うん! ホラ見て、何とか仲間たちを助けられたんだよ」

「そして彼が、佐久間研究員の息子さんである、と」

「あっ、はい、そうですけど……?」

 二人の間の会話を殆ど聞いていなかった太郎は、突然呼ばれた自分の名字に意識を引き戻された。

「彼にここまで付き添ってくれて、ありがとう。勝手に施設内に入ったことは問題だが、まあウチの不始末を片付けてくれたってことで不問としよう。今後は絶対しないように」

「はあ」

 ここでもまた『付き添い』扱いだ。もやもやとした気持ちが収まらない。それが顔に出ていたのか、男は訝し気に眉をひそめた。

「どうしたんだ、そんな顔をして」そして、男は少年に聞こえないよう声を潜めた。「――まさか、ウチの研究について知りたい、とでも?」

 太郎はその言葉に視線をバッと上げて男の目を見た。理由は違うが、それも太郎の知りたかった一つに入る。

「すごい食いつきようだな……。まあいい。そろそろここも、罪を清算しなければならないときだ」

 太郎にはよくわからなかったが、どうやら話をしてくれるらしい雰囲気に内心ホッと安堵の息をついた。

 男は、険しい顔をして言った。

「これも何かの縁だ。ナメクジ君からも話を聞き、施設の中にも入っているだろう? 研究資料はすべて引き上げているが、特殊な雰囲気は味わったはずだ。君にはナメクジ君を一時的に保護している者として、この話を聞く権利がある。だがしかし、これから話すことは他言無用だ。いいな?」

「わ、わかりました」

「よし。……そもそも、いきなり現れてお前は誰だと思っていることだろう。まずは自己紹介からだ。私は遠藤幸助。ある研究テーマに惹かれ、その研究のためにこの施設での研究を希望した」

 男、遠藤はそこで一拍置くと、少年の目の前に屈んで施設の入り口を指さした。

「ごめん、ちょっとこれから彼と話があるから、ナメクジ君は中で時間を潰しておいてくれないか?」

「え~~っ、わかったよ……」

 とぼとぼと少年が施設の中に入っていく様子を見届けてから、遠藤は再び話し始めた。

「研究テーマはズバリ……『世界とは』」

「せ、世界?」

「スケールの大きい話だなと思うだろう? この研究において世界とは、個人個人が見えている世界のことだ。君は、自分が見ている世界と他人が見ている世界が同一のものだと考えるかい?」

「一緒、じゃないんですか?」

 太郎が戸惑いつつ答えると、遠藤はゆっくりと首を横に振った。

「私たちの考え方では、人によって見えている世界は異なるものだと考えている。世界とは自己の認識の上に成り立ったものであり、その自己という前提条件が変われば世界そのものが変わる――っと、まあ小難しい話はここまでにしようか」

 遠藤は軽く笑って、続けた。

「つまりは、自分が信じている事実が変われば、世界は違うってことだ。君はナメクジ君を見て、そして実際に話をしただろう? 君が見ている世界と、彼が見ている世界。その認識や世界の見え方は、完全に同一なものであると言えるかい?」

「……違う、と思います」

「だろう? 自分が人間だと思って見る世界と、自分がナメクジだと思って見る世界は違う。その事実を確固たるものにするために……私たちはあの子を使ったんだ」

「……実験、ですか?」

「ああ、そうだよ」遠藤は自嘲するように吐き出した。「いくら彼が身元不明の孤児だったとはいえ、これじゃ人体実験と変わりゃしない」

「身元不明?」

「ああ。これ以上は深く立ち入らないでくれ、話を戻すぞ。彼がここに来たとき、まだちっちゃなちっちゃな赤ん坊だった。そこで私たちは思いついてしまったんだ。『自分はナメクジである』という教育を赤ん坊のころから続ければ、どう成長し、どのような世界の見方をするのかを研究できるのではないか、と」

 淡々と語る遠藤の声が静かに響く。一度強めの風が吹き、葉が擦れる音が止むと遠藤は再び語りだした。

「結果は御覧の通りだ。研究データは採れたが、私たちは――俺たちは、人として最低のことをしてしまったのかもしれない」

「……そうですね」

 どんな返答をすればよいか分からず、太郎は当たり障りのない言葉を選んだ。

「だがな、残念なことに……俺たちはその研究を行ったこと自体を、あまり後悔してないんだ。マジで最低な奴らだろ?」

 いつもの太郎なら、ここで義憤に駆られて声を荒らげることを抑えられなかったかもしれない。だがしかし、今ここに居る太郎はネガティブになっている太郎だった。どことなく凪いだ気持ちで、太郎は遠藤の話に聞き入っていた。

「その後は同じような孤児を引き取って、ちょっとした実験めいたものもやった。だが基本的には彼の経過観察がメインで、他の子どもたちには大きなことをしていない。彼はまさしく、俺たちの集大成ともいえるような存在だったんだ。勝手な話だけどな」

「集大成……」

 思えば、太郎の母も少年に対して住所を渡して困った時に保護できるよう気遣っていたし、遠藤も保護者のような雰囲気を少年と談笑しているときに放っていた。大切にされているのは、あながち間違いではないだろう、と太郎は判断した。

「で、ある日上層部から研究費用が無くなったよと突然言われてな。そこからチームは解散、施設は解体費用の捻出が出来なくて未だ放置されたまま、という訳だ。基本的な話はここまでなんだが、他なんか聞きたい話はあるか?」

「彼が……このことを知る予定は、」

「無いな。言っただろ、研究の集大成だって」

 遠藤はスッと目を細めて太郎を見た。これ以上話すことはない、という雰囲気に、太郎はおとなしく引き下がることにした。

「他はもう何もないか? あ、そうだ。一つ聞きたい。彼――ナメクジ君と関わって、どう思った? 簡単なものでもいい、感想を聞かせてくれ」

 遠藤はきっと、研究材料の一環としてふと思いついた質問を投げかけたのだろう。だがしかし、その言葉を待ち受けていたように太郎の口は勝手に動き始めた。

「自分の中身が、全て作り替わったような気がしました」

「……ほう?」

 遠藤の視線が面白いものを見るように変わった。

「自分は今まで、自身の信念や信条に基づいて行動してきました。けれど、彼にごねられて彼を手伝うと決め、自分の信条を曲げてまで彼を手伝ったというのに、彼が無事仲間と再会を果たしたとき、僕は……何も感じませんでした」

初めからその台詞を考えていたかのように、何にも阻まれることなくスルスルと言葉が出てきた。

「それどころか、彼の行動がとても馬鹿馬鹿しいものに思えてきて、それで、自分が手伝ったことも馬鹿らしいことに思えてきて。これまで他人に対してこんな思いを抱いたことが無かったというのに、彼に対してだけは、よく分からないモヤモヤとした気持ちが溜まっていってしまうんです」太郎は一度、深呼吸をした。「自分が何か、汚いものに変化してしまったように、思いました」

「……なるほど」

 遠藤は数秒ふーむと唸ると、次の瞬間あっけらかんと笑った。

「そりゃ簡単だ、少年! 君、今まで自分が理解できない人間に会ったことがないだけだ。人生経験が足りないんだよ」

「……え?」

 真剣なな返事を期待していたのに、明るい返答が為されて、太郎は思わず聞き返した。

「いいか、人が、視点が変われば世界は全くの別物になる。つまりだな、この地球上には約七十二億の世界が存在することになる。お前、この全部を理解して受け入れることができると思うか?」

「できないと思います、けど」

「そうだろう? つまりそういうことだ。彼は偶々、そのお前が理解できない世界を持っていた、というだけの話だ」

「で、でも」

「でももだっても無い! いいか、よく聞け」

 遠藤は、語気を強めた。

「彼は彼だ。俺は俺だ。お前は、お前だ。特別で自分しか持ちえない世界を、人はみーんな持ってる。お前の世界を統治するのはお前だけだ。その世界に他の世界を受け入れるもよし、否定して認めないのもよし。お前の世界の判断を他人が責める権利は無いし、お前自身の判断を制限する必要もない。ただお前は、自分自身の感性が導き出した判決を、何にも気負うことなく受け入れるだけでいいんだ」

 太郎は思わず、息を飲んだ。遠藤はすぅっと息を吸って、太郎の目を見た。

「自分らしく生きろ、少年! お前の世界はお前自身の世界だ、誰を認めても、誰を否定しても、どんなことを思おうともお前は自由だ! 自分の世界のレイアウトぐらい自分でやれ!」

 遠藤はニッと口角を上げた。

「以上、思春期男子のお悩み相談室終了! じゃ、ナメクジ君呼んでくるわ」

 ポカンと立ち尽くす太郎を置いて、遠藤はスタスタと施設の方へと歩いていく。しかし、あ、と間抜けな声をあげて、太郎の方へグイッと振り向いた。

「ナメクジ君は今後、俺の方で保護するから安心してくれよな」

どうやら要件はそれだけだったらしく、すぐに施設の中へと消えていった。

「なんだ、あの人……」

未だ呆然としたままの頭で、ぼんやりと太郎は呟いた。

けれどどこか心は晴れやかで、施設に入ってからどこかじくじくと傷んでいた部分がキッパリ消え去ったような、そんな気がした。

「……帰るか」

遠藤が保護してくれるのなら、少年についての心配は要らないだろう。今からもう一度会うというのも太郎にとっては少しハードルの高い行為であるので、今のうちに退散しておこうという判断を下した。


そうして、足早に山道を下りていこうと足を踏み出した時。

「待って、これだけ言わせて!本当にありがとう!またいつか会おうね!」

背後から元気な声が聞こえてきて、太郎はどこかデジャブを感じつつも後ろを振り向いた。

「――ああ!」



夏休みの終わり。ひと夏の不思議な思い出。いつか彼と再び出逢えたそのときに、彼を受け入れられるような世界であるよう、今からそんな世界にするための予定を組み立てていこう。

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ナメクジ・アドベンチャー チャンバラ侍 @maki_59

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