現代病床雨月物語

秋山 雪舟

第四十一話 「平岡君と由紀夫は心中した(その一)」

 今も『太陽の塔』が建つ大阪府吹田市の千里丘陵。ここでは五十年前の一九七〇年(昭和四十五年)三月から九月にかけてアジアで最初の国際博覧会が開催されました。大阪万博です。入場者は延べ六千万人を超えました。過去の開催地の入場者数を大幅に更新しました。テーマは「人類の進歩と調和」でした。しかし現在、その当時のパビリオンは姿を消し唯一『太陽の塔』だけが残りました。

 その大阪万博が閉会した二か月後の十一月二十五日、強烈な個性的光を放っていた一人の作家であり劇作家が自分の主宰する私設軍隊・楯の会の会員達を引き連れ、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地へ行きました。自衛隊員達に決起を促す演説をし、檄文を配りその後に割腹自殺をしました。

 平岡君と由紀夫は、由紀夫の著作『豊饒の海』の最終章である『天人五衰』最後の記述は『「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日』で終わっています。『豊饒の海』は月にある一つのクレーターの名前だといわれています。平岡君と由紀夫は、『豊饒の海』とシンクロするように次の世界へ旅立ちました。『輪廻転生』の道に旅立ったのです。由紀夫とは「三島由紀夫」であり本名は「平岡公威(きみたけ)」です。彼は、一九二十五年(大正十四年)一月十四日生まれです。平岡君は満四十五歳で亡くなりました。

 平岡君の分身である作家の由紀夫は一九六八年(昭和四十三年)のノーベル文学賞の候補に入るぐらいノーベル文学賞の選考委員達に注目されていました。しかし一九六八年(昭和四十三年)のノーベル文学賞は由紀夫の師匠である川端康成が受賞しました。代表作は短編小説『伊豆の踊子』です。川端康成は日本初のノーベル文学賞の受賞者として世界に名を残しました。

 川端康成は、大阪府出身です。『太陽の塔』が建つ隣町(茨木市)の川端通りに川端康成の歴史的偉業を称えるために一九八五年に「茨木市立・川端康成文学館」が建てられました。由紀夫は、師匠の川端康成から「今回は私に(ノーベル文学賞を)譲ってほしい」と言われたと巷の噂になっていました。

 由紀夫の事をこれまでもいろいろな分野の人や作家が語っていますがなかなか私にはしっくりこないものが心の中で燻っていました。そんな中、断トツに納得できるものが現れました。それは橋本治さんの『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫)でした。他には由紀夫の近辺にいた文芸評論家・野島秀勝さんです。由紀夫の短編集である『ラディゲの死』(新潮文庫)において野島秀勝さんは『解説』を書かれています。その文章に納得するからです。

 ここで興味深いのが由紀夫も橋本治さんも世代が違いますが東大生だった事です。最近映画にもなった『三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実』があります。私はこの映画を観ていませんがタイトルで三島由紀夫が先頭に置かれているので由紀夫にバイアスのかかっている映画だと思っています。人を評価するときは必ず評価する側のバイアスがかかる事は避けられません。私は人間である限り感情があるのでバイアスをゼロにする事は不可能だと思っています。話はそれますが本年(二〇二〇年)の九月三日の台風9号(メイサーク)の進路をスーパーコンピュータが予測した結果。日本と米軍合同台風警報センターは外しました。韓国気象庁は正確に予報しました。これはスーパーコンピュータに入力するデータのバイアスの仕方を韓国気象庁が正解だったのです。このバイアスこそ各国の特徴であり人間の個性がスーパーコンピュータの結果に影響を与えるのです。バイアスのあり方こそが人間の個性の反映だとも言えます。話は戻りますがこの映画が撮影された時期に、橋本治さんは一応現役の東大生でした。由紀夫と橋本治さんはニアミスしていたのです。橋本治さんはその現場にはいませんでしたが同じ東大生の友達から報告されて由紀夫が東大に来ていた事を知ったと本に書いています。

 私は映画『三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実』を観ていませんが気になるのがマスコミや週刊誌やSNSでの論評です。「一人だけの由紀夫が立派であるとか、東大生が完全に負けていた等々。」です。私はそんな事が本来問題であるとは全然思っていません。その当時の社会的背景とそれぞれの立場の違いが一番問題であると思うからなのです。そもそも社会や経済が安定しているならばそんな討論さえなかっただろうと思うからです。問題はその当時の日本社会や世界情勢が不安定で混沌としていた事こそが問題の核心であると今も思っているからです。勝ち負けなど最初からないのです。そこからどう進むかだけです。この後、東大生達や全国の学生運動は弾圧され終息します。一方の由紀夫は自裁するのです。勝敗をつける問題ではないとつくづく思うのです。

 その当時、由紀夫は世間から『ミシマサン』と呼ばれていました。一九七〇年(昭和四十五年)十一月二十五日以降は徐々に『三島由紀夫』と表現が変わるのです。人々の意識の中で一つの時代が終わった事を象徴しています。現代に生きる私達はこの事を忘れず、この歴史的事実から何を教訓として考え進むのかが過去に生きた人たちに対する鎮魂でもあると思います。それは未来への一里塚でもあります。

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