青の喝采

 入社した時から、彼女のことが好きだった。


 部署は違ったけれど『目配り気配り心配り』を極々自然にしていた。入社早々に一番驚いたのは僕らが移動に使う自転車のパンク修理をしていたことだ。


 細い指、キレイに整えられた淡い桜色のネイル。手が汚れることも気にせず、右手でタイヤを触って、しゃがんだ足の膝を片方立てて、左手で空気を入れながらタイヤに耳を近づけてパンク箇所を探す。耳にかけた明るめの茶色い髪が触れそうだ。

 そうして、丁寧にパンク修理用のパッチを貼る。


 パンク修理なんか自転車修理に出せばいいのに。暇なのかなと思って、同じ部署の定年近い恰幅のいい先輩に聞いてみた。

 面倒見がよくて話しやすいが、一度話すと止まらないから少々対応に困るオジサンだ。

「自転車修理に持っていく時間と取りに行く時間が皆の負担になるだろ?まぁ、俺が教えたんだけどな!洗面器に水を張ってパンク箇所を探す手間もしないで、すぐ出来るようになってたよ!」


 そういうことか。


 オジサンの話は止まらなくなってしまったが、適当に相槌しながら考えた。自転車修理に持っていくのは僕たち。そして、おそらく持っていくのは一番下っぱの僕だ。覚えることも山程あって、時間はいくらあっても足りないくらいで残業することもしばしば。それを知っているんだ。


 それにしたって、パンク修理は目に毒だ。細身のスカートの裾がしゃがんで膝を立てたら、太ももがあらわになる。下着が見えない位置でやっているのだろうが、たまにペタりと床に座って、ちょうどいいパッチを探す姿。服が汚れることも肌が見えていることも気にしない。


 変わった人だと思った。それ以来ずっと彼女を目で追いかけていた。


 彼女が好きだ。


 直属の後輩に「ねぇねぇ~何して遊ぶ~?」と、だらーっと話し掛ける姿。途中入社で緊張している後輩を少しでもリラックスさせようとしてるのだと察した。


 そんな彼女も可愛らしい。


 女性の年齢は大まかにしかわからなくて、あの彼女が年上なのはわかったが、何歳年上なのか具体的な差はわからなかった。

 同じ部署にいる女性の先輩は少し無表情だが、切れ長の目で美人だ。その先輩と僕の年齢差すらわからない。少し気後れしたが、僕はストレートに彼女について聞いてみた。


「あの。僕たちを担当しているバックオフィスの先輩って、何歳なんですか」


 女性の先輩は、静かな声で答えた。


「私と同じ年だから。川島くんより十歳、上かな」


 十歳?そんなに年上だとは見えなかった。目の前にいる先輩も。やはり、女性の年齢はわからない。

 でも、その十歳の差は僕と彼女を隔てる大きな壁には間違いない。


「さっちゃーん」

 少し離れたデスクから、彼女が足早にやって来る。あんな靴でよく歩けるな。高いヒール。


「何?」

 と、今しがた話をしていた女性の先輩が答えた。


 僕は二人を失礼に当たらない程度に眺めてみる。

 真逆の二人。無邪気に笑うパッチリした目の彼女とあまり表情を崩さずに切れ長の目でクールに返事をする先輩。とても話が合いそうには見えない。

 でも、あのクールな先輩が普段見せない笑顔を彼女に向けた時、僕の目の前に分厚い壁を感じた。


 彼女に、僕は近付けるのだろうか。

 どうしたら、距離を縮められる?


「川島くん、もう慣れた~?」

 先程まで先輩と話していた彼女が、僕の傍に立っていた。


「いやぁ、まだまだです」

「そっかそっかぁ。まだ配属されたばっかだもんね~」

「早く一人前になれるように、がんばります」

「お!適当にがんばれっ!何かあったらいつでも話してね」


 嫌味ではない、先輩風。僕の目を見て、僕を心配する彼女の微笑んだ顔は年上らしい余裕があった。「今度歓迎会あるからね~」と言い残して、彼女は自分のデスクに戻っていった。


 急がなくては、と思った。早く一人前になれば、彼女との距離が縮まるはずだ。


 飲み会があれば、積極的に参加した。彼女がいても、いなくても。情報収集の為には、彼女がいないつまらない飲み会でも情報源となる社員たちがいるのだから参加する。

 任せられた仕事はいつも早めに処理しておく。効率重視して、結果を出す。


 僕の知らないところで『優秀』という評価が一人歩きする。それは、彼女との距離を縮める為のプロセスから生まれたもので、出世欲の薄い僕に周囲からの評価はプレッシャーと感じない。

 その評価は僕にとってプラスなものだ。彼女との距離を縮める、重要で不可欠なツール。


 人当たりの良い彼女は、無自覚に男性社員が好意を持ってしまうような行動をする。僕はそれが気になって仕方がなかった。

 社内で落ち込んでいた社員がいれば男性女性にかかわらず、そっと飲み物とお菓子を置いて。話してくれるのを待っている様子で程好い心の距離を保つ。

 女性はいい。でも、男は単純なんだから、すぐに勘違いしてしまう。


 だから飲み会があれば、ここぞとばかりに男性社員が彼女に対して「今度、食事でも」言いに来る。少し離れた席から移動して、彼女の隣に少々強引に座り「え?オゴリですか?」と僕は笑顔で牽制した。

 僕は彼女の近くの席にいつも座るようにした。男性社員に絡まれるのも、飲み過ぎてしまうのも心配だ。


 けれど、僕がいつも意図的に近くに居ることを、彼女は気付かない。


 三年経って、僕にも数名後輩が出来た頃。彼女との距離は縮まったと感じていた。彼女はまだ誰にも取られていない。数年の間に少し、僕以外の知らない奴と付き合ってはいたが。今、彼女は一人だ。


 外回りからデスクに戻る時、会議ブースから声が聞こえて「優秀な人材が減る」と嘆いているのが耳に入った。声は……彼女の上司の声だ。


 公私ともに仲が良くなるまで、やっとの思いで縮めた距離。今は年齢の壁だけが僕たちの間にある。

 だから彼女の考えそうなことは、いくつも思い当たる。


 僕と離れようとしている。自分の存在はもう僕には不要で、自分の存在が僕の邪魔になると考えている。


 何の為に、僕がここまで努力してきたと思っているのか!


 僕がすがる壁に、壁の向こう側にいる彼女は背中を合わせている。その壁から、背中を離そうとしている。十年の年月という壁から。


 ──もう、時間がない。


 少し離れたデスクから彼女の声が聞こえた。


「もうすぐ誕生日なのに暇だなぁ」同僚たちと笑っている。「誰も祝ってくれないと寂しいから、皆『おめでとう』言ってよ~!」とアハハと明るく言っていた。随分とハードルの低いオネダリだ。


 そして、デスクのカレンダーを見る。彼女の誕生日は土曜日だった。日帰りでも一泊でも行けるくらいの所へ連れていこう。彼女は、旅行が好きだから。


 ドクンという鼓動。何かを思い出させる合図の音。彼女の笑顔と一言が、頭をよぎった。


「私、青い花が好きなの」


 ずっと前に華道の話をした時、彼女は言った。


 ──青い花……青い薔薇!


 青い薔薇は、色素を持たない。特殊で長年『存在しないもの』だった。でも、青い薔薇が世に流れた時、花言葉は変わったはずだ。『存在しないもの』『不可能』から……


 ──今は、『夢叶う』だ!


 僕が彼女と一緒に居たいと願った『不可能』は、『不可能』ではない。青い薔薇と同じだ。


 彼女の誕生日がタイムリミットであり、ラストチャンスでもある。


 その日、僕は笑顔で

「誕生日、おめでとう!」

 と、言った。


 彼女は笑顔で

「ありがとう!」

 と、言った。


 彼女は僕の用意したシャンパンを片手に、青い薔薇をじっと見ていた。


「僕、あなたのことが好きです」


 僕は、告げた。


 顔をあげた彼女の表情は物語る。


「その言葉は、言わないで欲しかった」と、僕の見たことのない作りきれない歪んだ笑顔。


 そんな顔をさせる為に、言ったんじゃない。彼女を困らせて傷付けてしまった自責の念で、胸が締め付けられた。


 でも、これは避けては通れない。


 君の考えは、知っている。だけど、君は気が付いていなかっただろう。君を知る為に、わざと社交的に過ごしてきた。誰にも取られたくなくて、十歳という年齢差の壁をどうするか考えた。


 壁は乗り越えられもしなければ、壊れもしない。


 でも、その壁を避ける方法があるとしたら。

 道は一本だけではないとしたら。

 壁のない別の道があるとしたら。


『不可能』は、可能となって『夢叶う』。

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アプローズ まゆし @mayu75

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