樹雨家のおいしい日常〜樹雨家長男のいちにち〜
鮭碕
朝 午前4時のあったかオニオンスープ
冷ややかな風がつま先に触れ、ふと意識が浮上する。薄く目を開くと、ここ数日でやっと見慣れた居間が見えた。どうやら昨日の夜は、居間でそのまま寝てしまったらしい。近くには寝る直前まで一緒にいた、ふわふわのすずめ達が眠りこけている。彼らを順繰りに撫でながら起き上がると、カーテンの隙間から仄かな光が漏れ出ているのが見えた。壁掛け時計が示す時刻は午前4時。この世界に来てから6日目の朝だ。
先ほどの冷ややかな風は、少しだけ空いた居間の扉から入り込んできたらしい。頭をぶつけないように気をつけながら廊下に出ると、家の中は静まり返っていた。妹と幼馴染と居候はまだ寝ているのだろうか。人気のない冷たい廊下に、自らのひたひたとした足音が響き渡る。庭の見える縁側まで行くと、妹のチカが早朝の淡い光に照らされてうとうととしていた。ほんの少しだけ、顔色が悪い。
「チカ、チカ。」
「ん……、あれ? お兄ちゃん……? 」
「どうしたんだ、こんな所で。まだ起きるには早い時間だぞ。」
「ちょっと眠れなくて……。」
「ああ……。」
眠れないのも無理はないだろう。俺たちは、家の裏庭で助けた子どもに、恩返しと称してこの世界へと連れてこられた。この世界に連れてこられなかったら屋敷ごと土砂に潰され死んでいたらしい。蔵のスレスレまで積もっていた土砂を見てそれを確信してしまった。しかし、あまりにも急な出来事で、まだ事態を飲み込めていない。確かなのは、彼に命を救われたことだけだった。
それよりも大変だったのが、急激な環境の変化への対応だった。梅雨明け間近の高い気温は春先ほどの寒さへ、屋敷の周りを囲んでいた松林は、得体の知れない森へと変化した。特に、妹はあまり体が強くない。環境の変化が彼女にもたらす影響はとても大きいものだった。
「チカ、朝食にはまだ早いけど、温かいものでも食べるか? 」
「ん、食べたい。おいしいの。」
「わかった。ほら、掴まって。」
「うん。」
差し出した手を握った妹の指先は、氷のように冷たい。着ていたカーディガンを脱いで妹の肩に掛けると、暖かそうに包まった。やはり縁側は寒かったのだろう。とびきり体の温まるものを作ってあげよう。
妹を居間の温かい小動物の近くに座らせて、台所へと入る。冷蔵庫を開けると、妙に玉ねぎが余っていることに気がついた。
「チカー! 玉ねぎ使おうと思ってるんだが、スープと味噌汁どっちがいい? 」
「スープがいい〜。」
「了解! 」
やっぱりな、と思いながら玉ねぎの皮を手で剥がす。妹は味噌汁よりもスープのほうが好きみたいだ。我が家一番の料理上手である父と、味噌汁の味の好みが合わないからだろう。父は赤味噌の濃い味が好きだが、妹は赤味噌と白味噌をブレンドしたものを好んでいる。父の味噌汁にいつも嫌いなきのこが入っているのもあるのだろう。
玉ねぎを半分に切り、ざっくりと細かくしていく。だんだんと目が痛くなっていくが、料理を始めた頃よりもかなり慣れたほうだ。目の痛みになんとか耐え玉ねぎを切り終える。そしてIHヒーターに鍋を置き、バターを入れて温めた。スープにする前に、一旦炒めておくのだ。そうすることで玉ねぎの甘みが引き出され、より美味しいオニオンスープができるからだ。
溶けたバターを鍋全体に広げ、にんにくと生姜をすりおろして入れる。じゅわじゅわと焼ける音がして、にんにくと生姜のいい香りが漂いはじめた。うん、今日もいいのができそうだ。
玉ねぎを入れると、玉ねぎについた水分が一気に蒸発し、大きな音を立てた。眠そうな妹が台所の扉をガラガラと開けて顔を出す。
「わ、火が強すぎたのか?やっぱりIHは慣れないな……。」
「お兄ちゃん大丈夫〜? 」
「大丈夫だ。気にしないで寝てていいよ。」
「うぁ〜い。」
玉ねぎを鍋底と鍋肌に焼き付けながら色を付けていく。やがて玉ねぎは、べっこうあめのような色になった。ベーコンを切るのを忘れていたので、冷蔵庫で解凍していたブロックベーコンの一部をささっと薄く切り分ける。そのまま鍋の中に入れると、玉ねぎの横でパチパチという音を立てて薄桃色に変わり始めた。火が通り始めている証拠だ。ベーコンの立てる音が段々とおとなしくなり、いい焦げ目がついてきた。具材の上にコンソメ顆粒とローリエを入れる。玉ねぎから出た水分でコンソメ顆粒がある程度溶けたら、浄水器から水を取り出して鍋肌に沿わせるようにそっと注ぎ入れ火を弱くした。水の中で玉ねぎとベーコンがくるくると踊り始める。あとは弱火である程度煮て、ブラックペッパーを入れれば完成だ。
鍋に蓋をして外の様子でも見ようと顔を上げると、すりガラスの窓の向こうにぬっと大きな鹿の鼻先が現れた。鼻先を押し当てて、てしてしとノックしてくる。思い切って窓を一気に開くと、鹿のような湿った鼻先が目の前にずいと近づいた。一歩下がって見てみると、窓の外からヘラジカのような巨大な生き物がひょっこり首を出している。その瞳はまな板の横に置いたベーコンの残りを、物欲しそうにじっーと見つめていた。
「おお、びっくりした。おはよう。今日も元気だなあ。」
「
「なんだ、ベーコンが欲しいのか? 」
「
「昨日の夜にかぼちゃの煮物あげただろ? 」
「
「わかった、わかったから怒るなって。」
「
初めて会ったときは見た目通りおとなしいかと思ったが、かなり食欲旺盛らしい。窓からグイグイと顔を突き出し、どうにかベーコンを食べようとしている。ブロックベーコンをまな板に乗せ、少し厚めに切り分ける。食べやすいサイズにしてヘラジカのような生き物に差し出すと、長い舌が伸びて絡めとっていった。相変わらずこの生き物はよくわからない。
「
「こうしてるとかわいいな……。」
「
「なんでもないよ。また何か食べにおいで。」
「
ヘラジカのような頭がぐいと引っ込む。彼が森へ帰っていったのを確認して、窓をそっと閉めた。
鍋の蓋を開くと、スープがいい感じにとろとろしていた。火を止めてローリエを取り出し、ブラックペッパーを振りかけ混ぜる。小皿にとって味見すると、ちょっと物足りない気がした。塩を少し入れて味を整え、砂糖も少し足してもう一度味見をする。うん、おいしい。
器にスープを注いで頭をぶつけないように居間に持っていくと、すずめが寝転ぶ妹の上を飛び越えて、きゃっきゃと遊んでいた。リスが額の上に寝そべり、うさぎがふくらはぎにちょっかいを出している。妹が、小動物たちに遊ばれていた。
「
「お兄ちゃん助けて〜。動くの怖いよ〜……。」
「仲が良いなぁ。」
「これ見て良いって言う? 」
「
「チカ、すずめさんは楽しいらしいぞ。」
「そっかあ……。」
残った野菜を入れた皿を床に置くと、小動物たちが一気に集まってきた。妹で遊んでいた子たちも野菜に群がる。まるで体験型動物園だ。
ちゃぶ台にスープを置くと、妹がギシギシとした動きで起き上がった。ずっとあの姿勢でいたのだろう。首や肩をぐるぐると回し、疲れた顔でちゃぶ台の座椅子に座った。半開きになった口に、スプーンですくったスープを差し出してみる。
「今朝のスープはスパイシーオニオンスープでございます。……どう? 」
「いただきまーす。……ん! おいしい! 」
「よかった。……ちょっとは眠れそうか? 」
「うん、ありがとう。お兄ちゃん! 」
壁掛け時計は4時50分を示している。俺は庭師という仕事の関係上慣れているが、つい最近まで大学生だった妹にとってはまだまだ早い時間帯だ。スープを完食した妹は、すでにうとうとしている。きっとこの世界に来てずっと緊張していたのだろう。こちらに完全に寄りかかってきた妹を持ち上げ、2階にある妹の部屋に向かう。縁側の奥にある階段を上りきると、太陽――ではなくこの世界の恒星が登ってきたところだった。暖かな日の光が窓から射し込む。腕の中で眩しそうに身動いだ妹をベッドに寝かせ頭を撫で、カーテンを閉めて部屋を出た。
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