相席

北田庸朗

相席

 急用で浦川原の方へ行かねばならなくなって、信越線の黒井駅で軽便鉄道に乗り換えた。黒井駅で先に帰京する友人たちと別れたのが夜の七時過ぎ、私の乗った汽車が駅を発ったのはそれから三十分ほど後だったように思う。いずれにせよ、日曜の夜ともなると相乗りの客もおらず、客車は貸切状態であった。

 人がいないせいもあるのか、列車が走りだすと、身辺が急に寒くなりだした。窓から漏れこむ隙間風に外套の襟を寄せ、肩を縮めた。外では雪が降り始めているらしい。黄ばんだ雪が、絶えず目の前を流れていた。

「次は北四ツ谷……」

 力のない声とともに、後ろで扉の開く音がした。車掌が検札にきたらしい。床を踏みしだく音が一歩ごとに間近く聞こえて来たと思ったら、ふっと消えた。おや、と思っていると、右手に握っていた切符には既に改札印が捺されていて、私は頭から髪の毛が浮く様な気がした。

 鉄のこすれあう音が、足元からせりあがってくる。汽笛の遠い響きが鋭い風の音とまじり合って、容易ならぬ気配が四方からにじみ出てくるように思われた。

 緩やかな揺り戻しの後、汽車が停まった。前のめりになったはずみでつかの間背もたれから背中が離れ、汗を吸ったシャツが肌に張り付く心地悪さを際立たせた。さきほどまでの寒気は嘘のように消え、車内はむしろ暑苦しいと感じるほどだった。車掌がストーブを焚いたのか知らんと思って無人の背もたれが並ぶ前方を見やったが、奥に見えるストーブは、その上に乗せられた薬罐やかんともども湯気一つ立てていなかった。

 窓の曇りを袖で拭ってみる。硝子越しに見えるホームに灯りはなく、駅員の姿も見えない。ただ「北四谷」と墨書きされた駅名票だけが、車内から漏れる薄明かりにぼんやりと照らし出されていた。駅の周囲にも灯りはなく、人家らしき影も見えない。どうやら田畑のど真ん中に駅があるらしかった。

 汽車はなかなか出発しなかった。そもそも乗ってくる客があるかさえ疑わしいのに、妙だなと思っていると、不意に後ろの扉が開き、人の入ってくる気配が冷気とともに私に忍び寄った。

 女だった。赤い袷羽織に七宝柄の着物を着た背の高い女が、通路に立っていた。なぜだか見てはいけないという気がして、私は咄嗟に前に向き直って顔を俯けた。

 汽笛が鳴り、汽車が再び動き出した。まるで女が乗ってくるのを待っていたかのような出発だった。そう思いだしたらなおのこと、いま乗ってきた女が不気味でたまらなくなった。床板を踏みしめる音が近づく度に、胃の腑がキリキリと細糸で締めあげられていくようだった。

 やがて、足音が止んだ。その時私は両の瞼をかたく閉じ、中折帽の鍔を心なしか手前に下げて狸寝入りを決め込んでいたが、女が私の席の前で足を止めたのが目で見るように分かった。女はそこに立ったまま、座席の私をしばらく見下ろしていたが、やがてふと口元を歪めて意味ありげな表情を浮かべた。そうしてこちらに歩み寄ると、「もし」と言って私の肩を軽く叩いてきた。

 応じたくはなかったけれど、いまここで応じなければ面倒なことになるような気がした。私は渋々目を開けて、その女に向き直った。思いの外すぐ間近に迫っていた色の白い顔に、心底ぎょっとなった。

「相席してもよろしいでしょうか?」

 女が言う。車内は空席だらけなのだから、わざわざ相席などしなくても良いだろうに思ったが、あたりを見回すと周囲の座席はいつの間にか現れた乗客で埋め尽くされていた。その中で私の座っている一区画だけが、ぽっかりと歯の抜けたように空席になっていた。

 腋の下に嫌な汗が滲むのがわかった。こうなっては断る理由もなく、私は無言で頷いたのを返事にして女の相席を許した。女はこちらに微笑を返すと、丁寧な所作で着物の裾を整えて斜向かいの席についた。釈然としない思いを引きずりながら、私はポケットの中の夕刊を取り出して顔の前に広げた。もう一度瞼を閉じて狸寝入りをする気にはどうしてもなれなかった。

 お悔やみ記事の並ぶ紙面を心持ち下げ、向かいの席を窺ってみる。突然増えた乗客のことは、いつの間にか気にならなくなっていた。ただ、目の前で蜜柑を食べている赤い羽織の女にだけ、意識を集中させた。周りに人家もない、暗い駅から乗ってきたにしては、やけに整った服装だった。もしかすると狐狸の類かもしれないと疑ううちに、私はなにやら急に目の前の女を知っているような気がしてきた。思い出そうとしてその顔を眺めてみたが、ぼんやり黄ばんだ灯りに照らされた女の顔は先程までとは打って変わって、輪郭がはっきりとしなかった。私は段々不安になってきて、しきりに眼鏡を擦って目を細めたが、やはり元のようには見えてこなかった。

 その途端、女が微かな笑い声を漏らした。蜜柑を食べる手を止め、こちらを見つめている輪郭の定かでない顔を見返した私は、「どうかしましたか?」と訊かずにはおれなかった。そこだけははっきりとしている目が、なんとなく人間のものではないように思われてならない。段々と不安になってくる胸中を、女の低い笑い声が掻き乱した。

「私、狐ですのよ」と女が言っていた。袖口から新しく取り出した蜜柑の皮を剥くその姿になにやら馬鹿にされたようで、心中を読まれた気味悪さよりも先に腹が立った。そしてふと、最近いまと似たような感情を誰かにぶつけたことを思い出したが、その肝心の相手が思い出せないことを歯痒く思った。その相手は、目の前の女と関係しているらしく思われる。

 足元に起こった鉄の悲鳴が、両の耳をつんざいた。慣性の虜になった身体が前方に投げ出され、受け身を取る間もなく硬い座席に顔をしたたかぶつけてしまう。痛む鼻先を押さえてどうにか起き上がったのと、停車した汽車がひとつずっしりと揺れたのは同時だった。客車の奥から飛び出してきた車掌を呼び止めたが、彼はこちらには目もくれず先頭の機関車へ急いでいった。

 しばらくして戻ってきた車掌に、私はもう一度「何があったんですか?」と訊いてみた。「どうもこうも」と手を振った車掌は、埒が明かないとばかりに制帽を脱いで、五厘刈りの頭をかきむしった。

「線路の上に子供がいたんで、機関士が慌ててブレーキをかけたそうなんですわ……。それで念の為に線路を確認したんですが、屍体も子供もいやしない」

 大方、狐かなにかと見間違えたんでしょう、と力なく笑う車掌に、私はふと気がついて自分の座っていた席に目を向けた。赤い羽織の女はどこにもいなかった。慌てて周囲を見回すと、他の乗客も忽然と姿を消していた。

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相席 北田庸朗 @seseri_bird

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