よごれた音色

犬井作

よごれた音色

 夜木ヒナは息を吸い込んだと同時にひどくむせた。喉がカラカラに渇いていたところに、埃っぽい空気を吸いこんだせいだった。ひどい咳が出て、ヒナは緊張のあまり、胸が引きつったようになった。鎖骨の間に手を合てて、必死にこらえた。こらえようとすると、しかしいっそう咳はひどくなった。ヒナは周囲から向けられる冷たい目線を感じていた。咳の合間に聞こえてくる、緞帳の向こうのピアノの音色も。

 ショパン。練習曲、Op10。コンクールの予選の課題曲として選ばれた曲は、会場の静謐に確かな音色を響かせている。それを、ヒナの咳が汚している。そうおもうほど、ヒナは視界がくらくらしてくる。治りかけていたあがり症は、まだこの道にはいって一年あまりのヒナにかかった重圧を前にしてあっさりと再発していた。

 出ていこう、とヒナは思った。いますぐ立ち上がってこの場を出ていこう。そして戻るまい。次がわたしだとしても、知ったことか。音を汚す罪をまぬがれるならばそのほうがいい。私はこの場にふさわしくない。そもそも、どうしてわたしなんかが。先生からも、姉弟子のひとからも推薦されて、こんな場に出るだなんて。そもそもなにかの間違いだ。

 決意を固めて立ち上がろうとしたとき、ヒナは背中に優しい熱を感じた。

「息をしっかり吐いて」

 その声はオクターブ下で主旋律を支える左手の和音のように、ヒナのこころを鎮ませた。暴れまわっていたヒナの感情はあっさりと凪いだ。ドレスの上の、むき出しになったうなじから肩甲骨の間を上下する細い指の感触、その手のひらの柔らかさは、じんわりと、こわばりをほぐした。

「もう大丈夫ですわ、みなさま。ご心配おかけしました」

 やわらかい声の主を見ようとヒナが顔を向けると、それは隣に座っていた少女だった。

「りんごさん」

「ヒナさん、大丈夫よ。いつもどおりやればいいって、先生もおっしゃっていたでしょう?」

「はい、……ありがとうございますっ」

 ヒナは頭を下げた。りんごと呼ばれた少女は、ヒナの背中をなんどか撫でて、それから、椅子に座るように促した。いつのまにかヒナは椅子から転げ落ちていた。

 待機室で起きかけた騒動が収まり、あたりが落ち着いてくる気配をヒナは察した。緞帳の向こうにちらと目を向けると、ピンク色のジャケットを着こなす少年が、曲の真ん中に差し掛かっていた。

 緞帳の向こうは明るく、輝いている。ヒナは一度下見として連れてこられたときのことを思い出す。空気が焼ける照明のにおいがチリチリと肌に刺さったことを。

 それにくらべて自分は、この薄暗がりのほうがお似合いだ。そう、ヒナはあたりを見回した。細長い、出入り口へと伝わる通路に並べられた椅子と、そこに座る少年少女を。彼らと自分は違う。そう、ヒナは思った。とくに隣にすわる少女とは。

 三浦りんご。昨年のコンクール優勝者で、十年連続でこのディアナ・コンクールを制している。彼女と同い年だけど、姉弟子で――ヒナを推薦してくれた三浦れもんの妹。

 りんごは黒いドレスを悠々と着こなしていた。舞台裏の品のない薄暗がりにあって、彼女は上品な闇を身にまとっていた。ボディラインの出る大人びたワンピースの細い肩紐から、薄白い肌をさらしている。りんごはしかし、それを恥じらうこともなく、小さな顎をちょっと下げて、うすく目を閉じている。音を味わうように。

 ヒナはみずからのドレスを、ふわふわのレースのスカートを、指先で撫でるようにして整えた。りんごは、おなじ十四歳だとは思えなかった。水色のドレスは子供っぽくて、急に恥ずかしくなった。母にこのことを話そう。それで、作法を今度はちゃんと学ぼう。

 りんごはヒナの視線に気がつくと、やわらかく微笑んだ。ヒナはさっと目をそらした。膝に視線を落として、唇をぎゅっとつぐんだ。心臓が高鳴っていた。

「ヒナさん」

「は、はいっ」

 ヒナは背筋をピンと正した。くすくすと、りんごは笑った。

「心配しなくていいわ。あなたのピアノ、すてきだもの」

 ヒナはりんごを見た。りんごは微笑んでいた。そこに偽りは感じとれなかった。

「ほんとう、ですか」

「ええ」

 震える声を撫でるように二つの音が発せられた。肩がじんわりと熱くなった。

「レッスンが前後でしょう? 私、あなたのピアノをいつも聞かせてもらっていたわ。いつも、いつも……こわいくらいに鋭いときもあれば、うっとりするほどやさしいときもある。姉さんのピアノみたいで、すてきよ」

「ほ、ほんとうに?」

 ヒナは嗚咽をこらえた。りんごの、薄い唇が、そうよ、とかたどった。それだけで、嬉しくて涙がでてきた。りんごはその熱い雫を人差し指でそっと拭うとヒナの頬に手を当てる。

「だから、大丈夫。がんばってらっしゃい。……負けないわよ」

「……わたしだって」

 ヒナが思い切って言うと、りんごは不敵に口角を上げた。ヒナは、さきほどまでの卑屈も忘れ、天上にも昇る心地でいた。名前を呼ばれたことに気づいて、立ち上がった。彼女の視界にはもう、ピンク色のジャケットの青年はいなかった。

 あるのはきらめく舞台。光のなか彼女を待つスタインウェイ。白と黒の、八十八鍵。ヒナは、そこへ、一歩ずつ、足を向けた。


 ○


 その日、夜木ヒナは作法通りに席に付き、完璧な演奏を行った。それは、他の追随を許さなかった。だれもが彼女の音色から逃れられなかった。会場に居合わせた人びとの意識ははっきりと、女性らしからぬおおきな手のひらに包まれて、縦横無尽に駆け回る旋律に流されていた。それは烈しさと優しさをもつ川だった。夜木ヒナが幼少を過ごした祖父の家、九州北部の小さな村の、山の中腹に位置するそのそばを流れたせせらぎが、ヒナの指先に宿っていた。

 コンクールで練習曲が採用されるのは演者者の技巧を見るためだ。そこに音楽性は不要で、ミスなく正確に弾けることが第一である。だから、練習曲は厳密には音楽ではない。いかに指先をコントロールするかが問われるものは、音の連なりであって音色ではない。そこに音楽をどれだけ載せられるか。その余剰、すなわちぜいたくが、実力の指標となる。

 そこにあって、ヒナの演奏は音楽だった。その旋律ははじめからそう作曲されていたかのように、ひとびとのなかを流れた。ヒナはイメージがなければ弾けなかった。だからそれを、自由に表現した。ほんらい行ってはいけないことだが、先生がそうしろと伝えたから。発表会の直前に、二人きりのときに。

 その結果、ヒナは優勝した。だれひとり追随できない音楽を演奏したから。

 彼女のあずかりしらぬことだったが、評価は賛否両論分かれた。しかしコンクールは本質的に音楽を評価する場であるという提言が趨勢を決めた。

「素晴らしい演奏は、そのすばらしさただ一つで評価するべきだ」

ヒナは知らないまま、優勝台に立った。そしてそこには、三浦りんごの姿もあった。その優勝台は、二人のためだけに用意された、ふたりのためだけの優勝台だったのだ。

 それはヒナの最高の思い出となった。彼女のまばゆい演奏の日々の。かけがえのない思い出になった。あこがれの人と肩を並べて、前代未聞の評価を受けることができたから。


 ○


 三浦りんごは鍵盤を叩きつけたい衝動を必死にこらえながらベッドへと走った。視界の端にきらめくものがあったのでそれを掴んだ。ベッドに足をかけると、その上に登り、枕めがけて掴んでいたものを振り下ろした。何度も、振り下ろし、引き抜いた。そのたびに綿は飛び出た。構わず繰り返した。なんどもなんども。りんごは口の中に血を味わいながら握りしめたはさみが枕をぐちゃぐちゃに引き裂くのをてのなかで感じた。この怒りを鍵盤にぶつけるのは冒涜だったから。だから。そうした。

 枕がもうつかいものにならなくなったころ、りんごははさみを床に放り投げた。それから、綿まみれのベッドに、顔をうずめて、わあわあと泣いた。声をすべてクッションで隠して、いっさいの静寂を部屋の中に保って。

 五分間そうしたのち、ゆっくりと顔を上げた。りんごは、ひどい顔だと、鏡もみずに思った。こんなぶさいく、生きていても仕方ないわ。劣っているんだもの。そう思った。

 りんごは独楽のように回ってから仰向けに体を放り投げると、上下するスプリングに身を任せた。天蓋の内側には演奏する天使たちとその指揮を執る大天使の絵が縫い付けられている。その大天使の横顔を見ながら、りんごは姉の微笑みを思った。

 姉さん。

 それは五連覇の記念に母が買ってくれた大きなベッドのオプションに、彼女が選んだものだった。交響楽を奏でる姉妹を見たからだった。だけどそれは、姉妹の音楽を映していなかった。すくなくともりんごの目には。

 まだ届かない、とりんごは思った。大天使の視線の先には、鍵盤を叩く少女がいる。西洋風の「不思議の国のアリス」の主人公に似た少女をりんごは見ていた。アリスを通して、一年前を。

 夜木ヒナ。

 りんごは唇を噛む。いつのまにか、犬歯が傷つけたのだろう。血が滲み出ていて、熱い。

 一年前。

 あの大会で、りんごは次元のちがいを思い知った。

 姉だけが存在していいはずの地平に夜木ヒナがいる。りんごはそれを体験した。緞帳越しに、演奏で陵辱されることで。

 夜木ヒナの演奏はたとえるなら洗脳にちかい。強すぎる音楽は否応なく他者にイメージを伝播する。彼女の音楽は強すぎた。自らのイメージを強く維持することで繰り出される演奏にとっては毒だった。りんごの天敵だったと言っていい。彼女は毎年、彼女の理想の音楽を思い描くことで優勝を勝ち取っていたから。

 その日、りんごの旋律は塗り替えられ、本番になっても戻らなかった。動揺にも負けずにりんごは自らの演奏を完遂したけれど、とうていヒナには及ばないとりんごは思った。それは誰がどう言おうと、演奏は彼女にとってぼろぼろだった。なにもかもがヒナの影響下にあった。本来つけるべき強弱は失われ、林冠を打つはげしい雨だれとなるべき音は水面を揺らすしずくとなった。弱々しく、あっけなかった。崩壊寸前の瀬戸際でなんとかその輪郭を維持した音楽にどんな価値があろうか? 誰が聞いても、その脆さは嘲笑に値するだろう。りんごは、ずっと唇を噛んで、大会の終わりまで待った。負けたと思っていた。それなのに優勝した。それも前代未聞のダブル受賞という形で。

 りんごは不可解だった。だが疑問はすぐ解けた。選考委員長のスピーチで、良い演奏は良いままに評価するべきであるためこの結果がもたらされたと語られるのを聞いたからだ。幼いながらの聡明は、勝利が政治的な理由で与えられたのだと結論づけた。不可解は屈辱へと変わり、幼い心臓の刻みこまれた。

 だがそれだけで終わらなかった。りんごの屈辱がふかまったのは、そのあとのことである。

 例年、発表会の翌日に開かれるパーティとはべつに、特別にパーティをやろうと先生が言いだした。りんごはそこにも隠された感情を察したが、無邪気に喜ぶヒナのまえで猫をかぶり、二人でパーティに参加した。二人きりのパーティ。先生が用意したケーキは二人のためだけに与えられ、特別に紅茶が振る舞われた。りんごはそこで、ヒナに演奏を讃えられた。うつくしかったと。悪意はなかったから、それだけなら耐えられた。そこに姉のれもんが現れるまでは。

 れもんはテラスからとつぜん上がり込むと、先生に挨拶するのもつかの間、りんごを素通りして、まっさきにヒナを抱きしめた。それから、思い出したようにりんごを抱きしめ、頬にキスをした。

「ふたりとも、素晴らしかったわ」

 その言葉が自分ではなく、ヒナを向いて言われたことで、りんごの心は打ちのめされた。

 りんごは、姉を愛していた。尊敬し、崇拝していた。それは彼女に育てられただけでなく、彼女の天才に、生まれてからずっと触れていたからだった。

 三浦れもんは天才である。コンクール十連覇はまず彼女が成し遂げたものであり、あっさりと捨て去ったものだった。れもんは、幼いころに芸術の才能をあらわした。トイピアノの演奏で母に才を見出され、まず音楽を学び、それから、飽きたからといって絵画に手を出した。りんごが生まれたのはその頃だ。

 れもんはりんごの育ての親でもあった。姉であり母だった。姉として世話してくれたから、ではない。アーティストとして世界中を飛び回る両親に代わり、六歳からりんごを育てたからだ。それ以前から世話焼きの性格を発揮していたれもんは、りんごをいっそうかわいがった。

 抽象芸術と音楽が同じであること。色は音程を表し、筆致はメロディを示すこと。そういった一種の共感覚にりんごは学んだ。だから才を発揮できた。三歳のとき、絵を描いたあと音色を聞かされた。それで、幼いながらに、姉の天才は理解できた。物心ついた頃には、姉妹以上の感情を抱いていたのは当然だろう。ピアノのコンクールで、あっさりと優勝したのも、れもんの指導あってのことだ。

 りんごは、だかられもんに褒められたかった。世界中の誰より彼女がすぐれていると知っていたから。彼女に認められることは世界に居場所を与えられることを意味した。

 その居場所をヒナが奪ったのだった。

 パーティ会場だけではない。れもんは、りんごを教えるのと同じくらい、ヒナの面倒を見たがった。この十年、一度も顔を出さなかった先生のもとに、ヒナが優勝してからはいつも姿を現した。れもんの送迎が名目だったけれど、魂胆はわかりきっていた。二人で並んで、演奏室の前の椅子に座っていれば、れもんが誰を気にしているかくらい、誰にだって解るだろう。

 りんごは、かりに自分が姉だったとしても同じことをしただろうと理解していた。優れた才能はひとびとを引きつける。ひとは、蝶だ。甘い蜜をいつも求めている。ことに、音楽なんてものに取り憑かれた人間は、いっそうあさましくなる。より美味な音色を求める。自分がそうであるように、姉もそうなのだと。しかし、それがいっそう、苦しかった。

 自分の音楽はれもんの興味を惹けなかったから。それだけではない。ヒナが、れもんの、蝶としての顔を引き出したからだ。生まれてからこの方見たことのなかった、あさましい姉の横顔を、一年中、りんごは見せつけられた。二人きりの狭い廊下で。椅子の上で。となりで、小さく肩を揺らす姉を見るとき、どれだけ胸が引き裂かれたか。うっとりと瞳を薄くして、唇をつんと尖らせて、ときには口笛まで吹いた。それが、自分では引き出せなかった、姉のあさましさだと、知らされれば知らされるほど、胸の中に嵐が起きて、死にたくなった。なぜ、どうしてとりんごは問うた。どうして自分では引き出せないのだと。レッスンで、自由に弾いていい時間になったとき、横目で姉をうかがうたびに涙をこらえた。姉はりんごなどいないかのように、うっとりと、頭の中に流れる音楽を味わっていたから。鍵盤の横で、先生の後ろで、りんごを見守っているはずのれもんが、そんなふうにしていたら、傷つかないはずがないだろう。

 それが一年中つづいた。発表会の日から、次の発表会にまで。

 予選では、りんごはヒナより先に演奏した。自らの演奏を完遂した。完璧に。だけど、その翌日のパーティで、れもんはりんごがお手洗いに抜けたタイミングを見計らって、ヒナと二人でテラスに出ておしゃべりをしていた。

 その秘め事を、二人の背中を、見たのが昨日。

 耐えられなかった。

 いつの間にか、りんごはふたたび、泣いていた。嗚咽もこらえず。ずっと。

 りんごは階下にいる姉を思った。リビングをアトリエ代わりにして創作に励む姉のことを。

 姉は無邪気すぎる。天才特有の奔放を持っている。だから偽りなく自身を表現する。姉の愛は、確かにいまだ、りんごに注がれている。そのことは、日々、実感している。だが音楽においては、彼女が注いでくれる愛を超えたもの――恋慕が自身には注がれていないことを知ってしまった。

 泣きつけば、きっと甘やかしてくれるだろう。だけど、それは憐れみでもある。りんごはそう思った。ベッドの上で、天蓋の内側を見ながら。大天使は、才なきものには慈悲を与える。

 そんなものは、いらなかった。



 夜木ヒナはスタジオの扉をノックした。防音扉は鈍く音を立てた。しばらくヒナは扉の前で待っていた。しかしうんともすんとも言わなかった。そのうち、不安になってきた。ヒナはあたりをうかがって、人のいないのを確かめてから、すうと息を吸い込んだ。

「りんごさん? りんごさーん、わたしです。ヒナです。……いらっしゃいませんか?」

 どうしたことだろう。ヒナはうたがった。りんごが発表会の二日前になって自分を呼び出す用事も思いつかなかったし、そのうえ、大事な用事だと行っていたのに、ここにいない理由もわからなかった。りんごが所有する音楽スタジオ。何度かお邪魔して、二人で徹夜でピアノを弾いた場所。もっぱら、ヒナがお願いして実現したことだったけれど――そんな思い出の場所だから、期待していたのに。

 ヒナはドアノブに手をかけた。もしかしたら気づかれていないのかも。そう思って、ガチャガチャしようと思った。その矢先に、内側からぐっと扉が押された。ヒナはよたつきながら後退った。

「ヒナ。よくいらっしゃったわね」

 扉の隙間から顔を出したりんごをみて、ヒナはほっと息を吐いた。

「びっくりしました。いらっしゃらないのかと……」

「ごめんなさい、考え事をしていて……さ、中にはいって」

「お邪魔します」

 ヒナは促されるままに足を踏み入れた。背後で扉がしまった。重たい音は、イギリスの判事を思わせた。未だにかつらをつける厳しい判事を。

広さ二〇畳ほどのスタジオは、フローリングの床に防音の壁と天井をそなえている。白。それがぱっと見た目の印象で、そこに鎮座する黒――壁際に置かれたグランドピアノは、視界をぎゅっと絞るようだ。そこに置かれた椅子と、コーチ用の丸椅子とを見て、ヒナは変わらぬ風景にホッとする。

 ここでは音がきれいに響いた。一切のノイズなく、その弦のしなりまで聞こえそうなくらいに。ヒナはここへくるといつも、つい、くるくると回ってしまう。さっきまで音が響いていることが多いからだ。ここは、音を吸い込むというよりは、音を閉じておく。反響がときに残っている。回るとそれが聞き取れる。ヒナはスタジオにお邪魔するときかならず残響をたしかめた。りんごの音色は、どんなときでもはっきりと色を帯びていたからだ。

 しかし今日はちがった。一切の音の気配がしなかった。ヒナは首をかしげた。りんごに、どうしたのかと尋ねようとしたとき、ふと、後ろから抱きしめられた。

「り、りんごさん?」

 ヒナは自分のお腹に回された腕に触れた。抵抗は、しなかった。思いつきもしなかった。自分より背の高いりんごに抱きしめられると、体のすべてを縛られてしまう。その熱にヒナはとらわれる。ヒナは耳をくすぐる呼吸にたえる。くすぐったさと、気持ちよさとに。

「りんごさん、どうしたんですか?」

「……ねえ、ヒナさん。私のこと、軽蔑しない?」

「え……?」

 ヒナはいっしゅんでりんごに意識を傾けた。その指先が震えていることにヒナは気づいた。

「りんごさん?」

「……私、こわいの。明後日が……」

「本番が……ですか?」

 ヒナが尋ねると、りんごは後ろでうなずいた。

「呼び出したのは……あなたに、相談したかったからなの。この不安を……解きほぐしてくれないかって。あなたに、助けてほしくって」

 りんごは涙をうかべているようだった。唇を噛んでもいるようだった。気配でそうかんじた。ヒナは、尋常じゃないことになっていると気づいた。りんごの手を取ると、何度もうなずいた。

「なんでもします。わたしに、できることなら」

「本当に?」

「はい」

 ヒナがいうと、りんごは安心したように息を吐いた。ヒナは手の甲を撫でた。心のなかで、声にならぬ喜びを叫びながら。

 りんごはヒナに抱きついたまま、演奏が不安なのだ、と語った。まず自分の音楽を聞いて講評し、それからりんごの音楽を聞かせてほしいと。もしよければ、二人で音楽を編ませてもらえないかと。

 ヒナはりんごの硬いプライドを知っていた。ピアノを始めて今年で二年目。自分の次に奏でられるピアノの音色を聞いて七百日あまりが過ぎている。音を聞けば性格がわかる。彼女は崇高なひとだ。それだけのひとが、自分を頼ってくれている。ヒナはそれが、りんごがより高みに至るために自らをも喰らおうとしているように感じ取れた。その敵意にも似た情熱は、一年前、彼女を助けてくれた高貴さに重なった。ヒナは喜んで申し出を受け入れた。

 二人はピアノの前に座った。まずりんごが演奏した。課題曲の、ショパン即興曲第一番。変イ長調 Op.29。ヒナはじっと耳を傾けた。そこには確かに迷いがあった。いつもは、燃え盛る炎の赤や、穏やかな夜空の藍、あるいは乱舞する素数の色や、木星の大赤斑が宿る芸術があった。それがいまや、濁った黒になりかけていた。色は混ざり合うことで鮮やかさをあっけなく失う。その瀬戸際にりんごはいた。

 どうだったかと尋ねられて、ヒナは忌憚なく答えた。いつものキレがなく、落ち着きがない。おそらく、この曲に乗せるべきものがまだ見えていないのではないか。りんごはヒナの言葉に熱心に耳を傾けて、こくこくとうなずいた。そして話が終わると、ありがとう、と言った。

 それからヒナが演奏した。ヒナはこの曲には、太陽を込めるつもりだった。

「覚えていますか? れもんさんに連れていかれた海のこと」

「夏休みの終わり頃よね」

「そう、そうです」

 ヒナは演奏をはじめた。穏やかに、砂浜に打ち寄せる波のように。

「三人でふざけて、楽しんで。わたし、すっごく楽しかったんです。りんごさんが、沖にまで手を引いてくれて、二人きりになれて、ドキドキしました」

 その高鳴る鼓動のように、ときおりヒナの指ははねた。存在しないスタッカートはしかしほどよいスパイスとして演奏を引き締める。穏やかさのなかにまぎれこむ肌の天敵たる陽射し。ちりちりと降り注ぐそれは、生命を活気づける恵みでもある。

「れもんさんがかき氷を買いに行ってくれている間、ふたりで、波に揺られましたよね。あのときのことが、わたし、忘れられないんです」

 きらめく海。どこまでも続く水色。寄せては返しよせてはかえし、繰り返される循環のなかただよった記憶は反復されるたびに強固な色を獲得していく。旋律はらせんをえがきながら上昇する。

 ヒナはいっしゅん、きつく目をつむった。きっと気づかれると思った。この恋慕を、はっきりと。音楽はうそをつかない。偽らない。想いはつつぬけとなる。ヒナはりんごを見ることができなかった。ただ演奏を続けた。たゆたう波に恋を乗せて、あふれる甘い思いに、ちりちりと心臓を灼かれながら。りんごの、浅い呼吸を、ヒナは聞いていた。

 そして演奏が終わった。

 ヒナはちらとりんごをみた。りんごは、戸惑いを隠せなかった。ヒナは首を振った。応えなくていいんだと伝えるつもりで。しかしりんごは、唇を震わせて、ヒナに言った。

「連弾をしましょう」

 ヒナに返事もさせず、りんごはヒナの椅子を軽く押した。ヒナは抵抗せず動かした。二人は肩を並べてピアノを前にした。

「私が、リードするから」

 りんごは鍵盤を一定のリズムで叩いた。それは確かめるような音色だった。ヒナはおそるおそる、その二オクターブ下の同音を叩いた。タ、タ、タ、タタタ、タタ、タ、タ。不規則な繰り返しをおこなう二つのリズムが一致しはじめたとき、りんごは、右手を鍵盤に置いた。

 そうして即興の連弾が始まった。それは言葉を不要とするコミュニケーションだった。上昇と下降、ときにアルペジオを、とくに独奏をおこないながら、二人はたがいの輪郭を確かめあうように演奏した。音楽は混ざりあう二色となった。ヒナは開かれた目の中にその二色を見ることができた。それは可視光ではなく、電磁波ではない。色を超越したものがあった。初めての連弾がみせたはじめての風景にヒナは怯えた。しかし息を呑んで、ついていった。ヒナの目のなかで開花するむすうの彼岸花がしおれて、そこからホウセンカの種を撒く。赤。赤。赤の繰り返しがふと目を出した双子葉に結実する。それは、三つの養分をもとに育っている。双子の葉っぱはぐんぐんと大きくなる。藍色の夜空をのみこんで、開かれた花をわすれ、未熟児として双子葉はおおきくなる。ヒナは怯えた。それが地球を飲み込んだから。ヒナはおそれた。それが大切なものを奪う気配をしていたから。

「ヒナ」

「ッ、あ――え?」

 呼びかけられた瞬間、イメージが弾けた。そして鋭いナイフへと変わった。そこには憎悪があった。

「ごめんね、私――あなたが大嫌いなの」

 りんごは立ち上がった。そして鍵盤蓋に手をかけると、勢いよく叩きつけた。音がよごれた。冒涜された和音が悲鳴を発し、夜木ヒナの指はその付け根から音楽を奪われた。鋭い痛みになにがおきているかわからなかった。ヒナはかおもあげられなかった。からだをまるめたままだった。痛みが内側からも外側からも発せられていた。そのあいだに、なんども叩きつけられた。

「私にないものをあなたはすべてもっているのよ、ぜんぶ、なにもかも、こんな、すばらしいい音楽も、イメージも、正確な運指もなにもかもたった一年で――姉さんの愛も、なにもかもなにもかも全部!」

 ぐちゃぐちゃの不協和音がハサミとなってずたずたにドレスを引き裂いた。幻想は破られた。甘やかな日々は終わった。すべてが終わった。おわってしまったのだ。なにもかもどうしようもなく。りんごは悲痛な声で言葉未満のうなりをはっした。そこに音楽はなく高貴なプライドもなにもかもなかった。獣にすらなりえない粘土があった。ただへらで、形を奪われたねんどの残骸。

 ヒナは泣いた。りんごは、ふらふらと、その場をあとにした。



 その二日後。

 緞帳をくぐって、三浦りんごはピアノの前に腰掛けた。

 挨拶をして、笑みを張り付け、新調したドレスの感触をうっとおしく思いながら、雑念まみれのまま鍵盤に指をのせた。

 りんごは確信を持って人差し指を下ろした。ハンマーを叩きつけるように鍵盤をなぐった。その瞬間に、違和感を覚えた。自分の音楽は、こんな、醜いものだったか?

 そう思った瞬間に痛みが発せられた。右手の薬指、それから左手の親指とに。

 りんごは気づいていなかった。ヒナを傷つけた日、みずからの指も傷つけていたことを。荒れ狂う嵐の騒音に耳をよごされていたことを。前日の練習をなにも理解できていなかったことを。ただ勝てばいいのだとおもったときから負けていたことを。演奏の最中にも。理解できないまま、むごたらしい音の散乱が終わった。

 りんごはよろよろと立ち上がり、会場に頭を下げた。まばらな拍手があった。りんごはこの期に及んでもまだ事態を了解していなかった。りんごは戸惑いのまま会場を見渡した。どこにも祝福はなかった。祈るように、近くの座席を見回した。先生がいた。隣に、れもんがいた。先生は、苦しそうに泣いていた。そしてれもんは、はっきりと、軽蔑をその瞳に浮かべていた。

 

 そうして、二つの天才が永久に失われた。

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よごれた音色 犬井作 @TsukuruInui

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