後編 ネイロ

 だいだい色が染み入るロビーを抜けて、ネイロが居る病室へ向かう。彼女はまだベッドに寝ていた。


「ネイロ」


 私が呼びかけると、彼女は唸り声をあげて身をよじって、それからまぶたを開いた。


「あれ? おはよう」

「おはよう。もう夕方だけどね」


 ネイロは上体を起こして、それからしばらく私をぼうっと見つめた。まだ意識がはっきりしてないのだろう。


「ああ、そっか。ありがとう、お姉ちゃん。ごめんね」


 申し訳なさそうに微笑む彼女の頭に手を載せて、つややかな髪を撫ぜた。


「いいのよ。だって私はネイロのお姉ちゃ、ん……だ、もの」

「どうしたの?」


 え。なに。いや。ちょっと待って。待って。


「ネイロ、あなた今、なんて?」

? 私なんか言った?」


 総毛立つ。

 うしろに倒れるようにして、足をもつれさせながらも距離を取った。


「どうしたの?」


 呼吸が整わない。動悸がする。胃液がせり上がってくる。


「ネイロは、私のことをと言うわ」


 見開かれたままになった目で、ネイロを睨みつける。


「あー、そうなんだ。ふーん。気付いちゃった?」

「どういうことなの!? 私は増えたネイロを殺し続けたわ! なんでウィルスの方が残ってるのよ!」

「さーて、どうしてでしょう」


 ネイロは明るく言い放つと、ベッドから降りた。


「ねえ、考えても見て? どうしてここに居る私が本物のネイロだと確信していたの?」

「え。だって、増え続けて。奇病で。全員殺さなくちゃで」

「増えた瞬間を見たわけでもないのに?」


 そうだ。増え始めてから病名を知ったのだ。殺さなければいけないことも。意識を失った方が本物のネイロだと勝手に思い込んでいただけだ。


「私たちが宿主から分離するとき、宿主の生命力をむしばむけれど、同時に開放感も与えるの。とってもハッピーな状態になるの。今まで病気ばかりでまともに走ったことすらなかったんでしょう? 軽くなった体は、さぞ心地よかったと思うわ。あなたに殺されるその瞬間まで、最高にハッピーだったでしょうね」


 そんな。嘘だ。まさか。でも、ネイロがこんなことを言うはずもない。じゃあ、じゃあ、じゃあ……! 私が殺したあの100人目が本物のネイロ……?


「うぁあああ! うぁああああああ! うぁああああああああ!」


 本当は恨まれてたんだ、私。ネイロに我慢させてた。ずっと、ずっと、ずっと。贖罪しょくざいだとか偉そうに言って、なに一つあがなえていなかった。そのうえ勝手に決めつけて、ネイロを殺した。本当のネイロはそんなこと言わないなんて言って。それは願望だ。私の、勝手な、わがまま! わがまま! わがまま! そんな浅ましくて卑劣な自己肯定! だからだからだからだからだから、気付けなかった!


「そんなに取り乱さないで。いいじゃない。邪魔な妹が死んで」

「邪魔なんかじゃない!」

「そう? でもあなたずっと辛い思いをしていたんじゃあない? 病弱で、お母さんからもお父さんからも愛情を独り占めするあの子が、忌々いまいましかったんじゃあない? 反吐へどが出るって思ったんじゃあない?」

「そんなことは——」


 違う。あの100人目のネイロに抱いた感情は、ウィルスだったからだ。ネイロ本人に対しては……。

「ない」

 ないのだろうか。本当に。私は、本当はもっと醜い人間で。だから妬みも嫉みもあったはずで。ネイロが本音を言わなかったように、ずっと自分自身に隠していた思いがあったのでは。


「ああ、可哀想なお姉ちゃん。そんなに泣かないで。ほら、これを見て?」


 そう言って彼女はサイドテーブルに置いてあった鏡を持って来て、私を映した。そこにはあの、愛しい愛しいネイロの顔がある。頬にぺったりとした血を付けた、涙に濡れた、あの。


「もしかしたら殺されたのはカナデちゃんかも知れないわ。だってそうでしょう? 二人は瓜二つ。親でさえ見分けがつかない」


 え? え? そんなことは……ああ、うん。ああ、ああ。そうかも。そうかも知れない。いや、そうだったらいいな。そうだったら凄く幸せだ。だって要らないのはカナデだ。あんな醜悪な心で、病弱な妹に嫉妬するような姉は。ネイロはとても美しくて、健気けなげで、やさしくて……ずっとカナデのことを恨んでいたのに、億尾にも出さないで来たんだ。そうだ。生きるべき人はネイロだ。カナデなんかじゃあない。


「ねえ、もしかしたら初めからカナデちゃんなんていなかったのかも知れないわ」

「どういうこと?」

「この奇病。『増える病』は、いつからかかっていたのかしら?」

「いつからって、それは、一か月前、この病院で病名を宣告されたときに」

「そのときに初めて気が付いたってだけの話でしょう?」


 あ、そうか。そうだ。いつから罹っていたかはわからない。


「お母さんのお腹の中で、もう罹っていたのかも知れないわ」


 そう、なのかな。


「だとしたら初めからネイロだけだったのよ。それをみんなわからないものだから双子が生まれたんだと勘違いしたの。ねえ、きっとそうだわ。名推理だと思わない?」

「ああ、……うん」


 そうだとしたら、嬉しいな。だって私が妹の分まで養分を取っていたわけじゃあないってことだし、それにそうするとネイロは生きているってことだし。ネイロが私なら、私が奇病に罹っていただけなんだし。あれ? でも待って? ネイロとして生きてきたのは私じゃあなくて。あれ? 私は誰だっけ? もしかして私がウィルスの方だったのかな。


「ねえ、私ずっとって言っているわ。だったら私はネイロよね?」


 そうかも知れない。いや、きっとそうだ。ネイロは死んでない。


「ねえ、思い出して? 『増える病』はどうやったら治るんだった?」

「それは……」


 殺し尽くすこと。

 殺し尽くせばネイロが助かる。


 なら、私がすべきことは……。


 私がウィルスなのだとしたら、私が死ねばネイロは助かる。目の前のネイロを殺したらどうなるだろう。私が残るのか。或いは消え去るのか。いずれにせよ、カナデは要らない。

 私がカナデなのかネイロなのかそれともただのウィルスなのかはわからない。だから、だけど、だから、それでも。


 ふところを探る。掌で握る。躍り出た銀色。それをひるがえした。


 天井まで届いた飛沫しぶきは、夕景をことさら赤く染めた。

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増える増える、増える妹 詩一 @serch

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