殺し屋の猫とフィルム大学生

狛犬えるす

『コラテラル』


 アルバイトを終えてアパートに帰ると、鍵が開いていた。

 これはおれにとって、なにも驚くようなことじゃない。

 泥棒の可能性もあるにはあるが、このアパートは築十年もたってない。


 これはただ、彼女がいるという証拠の一つに過ぎない。


 扉を開けて後ろ手で鍵を閉め、靴を脱いで部屋の電気をつける。

 微かに香る硝煙と血の鉄臭い匂いがして、さすがにげんなりとする。

 この匂いはなかなか落ちないし、別の匂いで誤魔化そうとすると酷いことになる。

 

 目に入るのは、なんの面白みもないフローリングに、面白みのない茶色い床マット。

 青春の一人暮らしに自然な明るさを求めて買ったレモン色のカーテンは、チープな大学生の部屋の中で見事に浮いていて、購入者の頭の中がどれだけの低価格で製造されたのかを確認したくなるくらいにチープでファッキンシットな感じがする。レモン色というより寝起きの小便色だ。

 それでいて机とかソファは無難で面白みもなく、白黒映画みたいな色彩になっている。


 白黒ついているほうが、おれの神経はとても落ち着くのだと察したあたりに買った家具たちだ。

 安かったというのが一番の理由で購入した回転式の書棚は部屋の隅に追いやられていて、中には映画原作本がこれでもかと詰まっている。

 テレビの下にはプレイヤーがあって、さらにその下には新品中古問わず、お気に入りの映画の背表紙が並んでいた。


 そんな部屋の中、彼女は、ソファの上でごろんと猫みたいに丸まっていた。


 男か女か判断に迷う中性的な顔つきに、華奢な身体を誤魔化すようなミリタリージャケット。

 映画『タクシードライバー』で、ロバート・デニーロが着込んでいた、M65とかいうヤツだ。

 ごわごわしてて、やけに重くて、それを彼女が羽織っているだけで鎧でも着込んでるように見えた。



「ただいま」


「ぁ……僕、寝てた? 今、何時?」


「寝てたかもな。深夜の零時。シャワー、最初使うか」


「ごめん。それより救急箱」


「戸棚の上から二番目」


「言われても覚えられないんだって」


「わーってるわーってる」



 おれは救急箱を用意し、彼女は手負いの猫みたいな動きでソファに座りなおす。

 机に救急箱を置いて、中から脱脂綿と消毒液とかを取り出して、彼女と向き合った。

 おれはいつからチェ・ゲバラになったのだろうかと思いながら、頬っぺたの傷にゲバラの半分もない知識で絆創膏をぺたりと張った。

 そうして彼女は、鎧みたいなジャケットを脱いで、小さな傷や痣があるところをおれに見せてくる。

 恥ずかしげもなくそうするものだから、まるで毛づくろいをねだる猫みたいだ。



「美人が台無しだ」


「僕が美人って最高の冗談だね」


「褒め言葉は冗談に入らないだろ」


「真実じゃない褒め言葉は冗談だよ」


「おれにとっては真実」


「僕にとっては虚構」



 むっすー、として言うので、おれは擦り傷をちょっと乱暴に擦ってやった。

 涙目になって唇を尖らせてきたけれど、そんな不平は聞かないぞとばかりに痣に湿布を張ってやる。

 傷や痣を処置してやると、今度は彼女がリモコン片手にテレビをつけて言った。



「『コラテラル』」


「『コラテラル・ダメージ』?」


「マイケル・マンと、トム・クルーズ」


「ああ、あれね」



 救急箱をしまって、おれは次にDVDを取り出してプレイヤーに入れる。

 しばらくするとテレビに映像が流れ始めて、彼女がメインメニューで音声と字幕を弄って本編が始まった。

 バイト終わりで汗をかいていて体がべとついていたけど、おれもこの映画が好きだから画面から目を離せなくなる。


 十分くらいして、喉が乾いたので冷蔵庫からコーラを持ってきて、彼女と一緒に炭酸と映画を楽しむ。

 映画の内容自体は単純で、一人の殺し屋が仕事の足としてタクシーを使い、タクシー運転手は殺し屋の仕事に巻き込まれるというものだ。

 彼女もおれもこの映画が好きだったし、彼女はとくにこの映画の監督のマイケル・マンのフリークだった。


 マイケル・マンは、テレビドラマの『マイアミ・バイス』で注目されて、映画『ラスト・オブ・モヒカン』で評価を得た監督だ。

 といっても、おれが好きなのは『ヒート』と『コラテラル』と『パブリック・エネミーズ』で、その初期二つについて実はあまり知らない。

 全部見なよ、と彼女がしょっちゅう勧めてくれたりはするんだが、古い作品はどうしても腰が重くなる。


 監督によっては好きな色彩が初期には確立されていなかったり、試行錯誤していることもある。

 おれはそういうところが気になってしまって、たぶん作品それ自体をあまり楽しめないと思ったからだ。

 映画好きって割には、損な性格してるよなと自分でも思うが、こればかりはしかたがない。


 なにせ、映画の撮影がフィルムで行われたのか、それともデジタルだったかまで気になるくらいだ。

 その違いは大体、映像の色彩で分かるのだが、大学の友人にそれを言ったら「なにそれきも」とドン引きされた。

 こんなこと喋ってドン引きしないのは、ソファに座り込みながらおれの頭をなぜかなでなでしている彼女くらいなものだ。



「この映画撮るのにトムは実弾を撃って感覚を学んだんだよ」


「へぇ……メイキングはおれのとこにはないな。中古で買ったやつだから」


「メイキングは良いよ。監督と俳優の感情が、次に見るときに眼に見えるんだ。何度も見るならメイキングは見とくべきだよ」


「どっかの動画サイトに落ちてないか見てみるわ」


「買って貢献しなよ」


「大学生には大学生なりの問題があるの」


 

 ちぇっ、と言って彼女はコーラを飲んで小さくげっぷを炸裂させた。

 ここまで恥ずかしげがないと、自分が異性として扱われているのかとても心配になってくる。

 ソファに座っている彼女を背に、おれはソファの前に座り込んで映画を楽しむことにする。


 映画がさらに進み、トム・クルーズが拳銃をぶっぱなし始めると、おれは机の上においてあるものに目がいった。


 それ自体は実を言えばおれが部屋に入ったときから、ずっとあるのだ。

 ただおれはいつものように、それを視界に入れることを避けるようにしているから、ないように扱う。

 なにせそいつは本来、ここに存在してはならないもので、とても非現実的なものだから。


 黒光りするそれは、映画の中でトム・クルーズがぶっぱなしている拳銃とは少し形状が違う。

 映画の中に映っている拳銃は、角ばっていて重そうで、しっかりと両手で保持しないとダメそうな感じがした。

 けれど、机の上に置いてあるそれは、玩具みたいに小さくて、その割にグリップはずんぐりしている。



「この拳銃って―――」


「H&KのP7。サイレンサー着けられる」


「あの拳銃は―――」


「H&KのUSP45。僕のよりでっかくて威力のある45口径だよ」


「はー……同じ会社のなんだな」


「まあ、大手だからねH&K」


「日本でもシェアあるの?」


「そこは企業秘密だよ。知らないほうが良い」


「あー、はい……」


 

 おれの素人質問に、彼女は淡々と答える。

 まるで現場の作業員が「そのメジャーどこで売ってました?」と同僚に聞かれたみたいに。

 どこどこのホームセンターに売ってたよ、って風に。

 

 机の上にごとりと無造作に置かれた拳銃が、急に現実味を帯びておれの視界に入ってくる。

 これは彼女の仕事道具で、本来この日本にあってはならないものなのだが、おれは慣れていた。

 彼女の仕事は、この映画でトム・クルーズが演ずるヴィンセントと同じで、それは秘密にされている。


 表の世界において、その事実は今のところ、おれだけが知っているのだった。


 映画ではトム・クルーズがあの手この手で仕事を遂行していき、タクシー運転手は振り回され、時にトムを振り回していく。

 そうして映画はエンディングを迎える。

 この世界のどこかで一人二人が死んだって、世界は変わらないと。


 世はすべてこともなし。

 明日は月曜日だ、新しい週が始まる。

 また、クソな日がクソのように巡ってくる。



「"ロスの地下鉄で男が死に、そのまま6時間死人だと気付かれなかった"」


 

 真っ暗な画面の中、真っ白にタイプされた文字が流れていく。

 もぞもぞとおれの後ろでソファに座りなおしている彼女が、映画の台詞をぼそりと呟く。

 おれはそのシーンを思い出して、苦笑しながら台詞を続ける。



「"何人もが隣に座って気付かなかったんだ"」


「………君は僕が死んだら気付く?」


「おれとお前が下らない会話してない時って、ベッド以外にないだろ。気付くに決まってる」


「じゃあ、僕がベッドでいつの間にか死んでいたら、気付かない?」


「押し殺した喘ぎ声が聞こえなくなるから、間違いなく気付く」



 硝煙と血の匂いが、エンディングを終えたテレビから香ってくる気がした。

 ぐっと顔を引き寄せられて、硝煙と血と、彼女の香りとが交じり合った匂いが鼻腔を擽る。

 冷たい両手が頬に触れていて、血の味のするキスをされているのだと気付くのに、少し時間がかかった。


 がちがちと歯があたって痛かったし、キス自体も肉食獣に捕食されてるみたいな乱暴なもので、ヘタクソだった。

 口の中が切れていたならそう言ってくれれば良かったのにと思いながら、おれは彼女を押し退けて、そのままソファに押し倒す。

 仕事で誰かに殴られたらしい、とおれはすぐに分かった。


 彼女の瞳がじっとこちらを観察し、次になにをするのかと問うている。

 おれはその華奢な身体をそっと抱き締めて、唇を押し付けて舌を入れ、わざと口の中の傷を舌先で舐めてやる。

 びくん、と体が震えてたけれど、舌は噛まなかったし、押し退けられもしなかった。


 しばらく緩慢に舌を絡ませて、互いにぎゅっと抱き締めあいながらソファの上で時間を浪費していく。

 彼女はただただ、身体を震わせているだけで、その舌の動きはやっぱり何度やっても、ヘタクソだった。

 怖かったんだな、とおれは彼女が仕事のことを忘れられるように、強く抱き締めていく。


 華奢な身体が、おれの腕の中で震えている。

 硝煙と血の匂いと血の味が、この夜の思い出を染め上げていく。

 机の上にある拳銃のことを忘れる為に、おれは彼女のことを抱き締める。



「………シャワー、浴びてないよ」


「ああ、うん。おれも」


「いいの?」


「そっちは」


「別にいいよ。後でも先でも」


 

 もう一度、今度は静かに口付けを交わす。

 追い込まれた狐がジャッカルよりも凶暴だとしても、だ。

 ここにいる猫はきっと、追い込まれてしまったら、ただ悲しんで後悔して、ごめんなさいと謝りながら死んでいくような気がした。


 ロスの地下鉄で男が死に、そのまま6時間死人だと気付かれなかった。

 何人もが隣に座って気付かなかったんだ。

 そんな世界だとしても、せめておれは大切な人間の死に気付いて、悲しんでやりたいと思った。


 この腕の中、机の上に現実を置き忘れて、穏やかな青春の中に自分を溺れさせる猫のことを。

 それが、殺し屋の猫と付き合っているおれのポリシー。

 非現実的な日常を持ち込んでくる彼女を、現実の日常に半歩ほど引き込んでおくことが。


 その半歩だけでも、きっと彼女にとっては人生の半分くらいにはなるだろうから。

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殺し屋の猫とフィルム大学生 狛犬えるす @Komainu1911

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