神宿るもの

いちはじめ

神宿るもの

 前のベンチでカップルがはしゃいでいるのを、男は半ば呆れて見ていた。

 男は小さな商社の中年営業マン。今月も営業成績が上がらず、公園のベンチで身の行く末を案じていたところだ。

 カップルは、三十半ばのおしゃれなブランドものに身を固めた女性と、グレーの帽子に紺のスーツ姿の若い男性で、その取り合わせに男は少し疑念を持った。

 彼女は楽しくて仕方がないのであろう、その佇まいとは裏腹のはしゃぎぶりであった。そんな彼女がふざけて彼の帽子を自分の頭に載せたが、その後の展開に男は仰天した。あれほどはしゃいでいた彼女の動きが突然止まり、衝撃を受けたかのように目を見開いたまま微動だにしない。彼も心配顔で様子を伺っている。すると彼女は「私を騙したのね」と鬼のような形相で叫ぶや否や、思いきり彼の頬を平手打ちにし、そのまま小走りに立ち去って行った。彼は打たれた頬を押さえながら、一時呆気に取られていたが、気を取り直すと慌てて彼女を追っていった。

 後には、平手打ちを食らった際に飛ばされた帽子が、ぽつんと地面に残された。

 男はその帽子を拾い上げ、彼に向かって声を上げたが、それどころではないのか、彼は彼女を追ってそのまま公園の外に姿を消した。

 やれやれ、退屈はしなかったが騒がしいことだ、と男は帽子に付いた砂を払い落とした。

 帽子は鍔付きのフェルト性で後ろの鍔の部分がくるりと巻き上がり、リボンは黒で装飾はなく、クラウンもつまみもしっかりしている。安物ではなさそうだ。まあ要らないというのなら貰っておくが、果たして似合うのかね、と男はその帽子をおもむろに自分の頭に被せてみた。その途端、頭の中に濃い赤のイメージが溢れたかと思うと、彼女の声が大きく響いた。『お金が目的だったのね。両親が入院だなんて真っ赤な嘘、それどころか妹の留学費用を騙って更にお金を……』

 その声が余りに鮮明だったので、男は慌てて周囲を見回したが、やはり彼女の姿はなかった。

 何だ、何が起こった。

 男は冷静になって状況を整理してみた。

 直前にこの帽子を被っていた彼女の声がしたが、それが生の声ではなく心の声だとすると、彼女はその前に帽子を被っていた彼、詐欺師の心の声を聞いたのか。そう考えると辻褄が合う。

 男は帽子を家に持ち帰り、その能力を詳しく調べることにした。

 調べるといっても、誰かれなく帽子を被せる訳にもいかなかったので、近所に住む痴呆気味で一人暮らしの老婆に目星をつけ、試してみることにした。

 その結果は推測の通りであった。この帽子は、人の思考を読み取って別の人に伝えるという能力があった。またその思考を色で、その強さを濃さで表していることも分かった。カップルの彼女の赤はどうやら「怒」であったようだ。

 そこまで分かったところで、男はこれを使ってどう金儲けするか思案した。


 数か月後、男は会社を辞めて宗教法人を立ち上げた。帽子の能力を悟られず、金を稼ぐ方法としてはこれがベストだと判断したのだ。

 男は帽子を使って信者の悩み事を聞き、お告げを与えた。むろん帽子にお告げを示す能力はないので、それは当り障りのない適当なものではあったが、何しろ悩み事を完全に言い当てる教祖様の言葉である、信者はそれでも満足した。その結果、多額の寄付が男の懐に転がり込み、男は大金持ちになった。

 今日も一人の清楚な少女を相手にしている。

「教祖様、その節は病気の父が大変お世話になりました。私はその娘です、今日は私の願いを聞いて頂きたくて参りました」

 男は一瞬ひやりとした。病気に関するものが一番厄介なのだ。病名を言い当てても治療法など示せるはずもない。近頃はリスクを避けるため、神を信じて治療に専念しなさいと告げていた。この娘の様子では、厄介事ではなさそうだ、と気を取り直した男は、神々しく装飾を施された帽子を、恭しく跪く少女の頭に載せた。

「では神宿るこの帽子を被り、其方の願いを祈るがよい」

 少女は目を閉じ一心に祈っている。

 男は頃合いを見計らって少女の頭から帽子を取ると、それを自分の頭に載せた。

 いつものように色のイメージが男の頭の中に広がった。それは瘴気とさえ思えるほどの濃い紫で、男にとって初めての色だった。男はその禍々しさに思わず身震いした。そして少女の願いに触れた刹那にその意味を知った。

『殺してやる。いい加減なお告げで父を死に追いやったこいつを、殺してやる』

 振り返ろうとした男の背中に激痛が走った。

 男がこと切れる寸前まで、帽子は絶望という漆黒を余すことなく刻み続けた。

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